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樹の音色に包まれて....

久しぶりに...自宅のグランドピアノを開き、椅子に座り。 鍵盤を弾くように指先が全身がまるで、まるで気持ちよく空を飛んでいるかのようで。 ....なんて。なんて鍵盤が....軽いんだろう。 あんなに....あんなにあの頃は、冷たい指先を鍵盤に怒りや悔しさや悲しみや孤独ややるせなさや色んな感情をぶつけて。 鍵盤がやたら重たくて苛立って。 懸命に難しくまた暗澹な音楽ばかりを弾いて、楽しくなんか、なかった。 笑顔なんて浮かばなかった。 今は.... 指先が踊るかのように明るく軽やかに、たまに暗転したり加速したり、思い通りの音色が全身を駆け巡り、嬉しい。楽しい。 ピアノは幼い頃、ただ本当になんとなく、音楽が好きだった亡き祖父の影響で始めた。 祖父の家で流れる、優しいクラシックがとても、とても好きだったから。 ピアノの音色と共に、樹の笑顔が浮かぶ....。 ああ、そうか、ピアノの音色に、似ている。 樹の明るくて優しい笑顔が。似てるんだ....。 恥ずかしそうにはにかんだ笑顔、嬉しそうな、満面な、既に亡くなった星とは違う。 あのみんなで眺め、食い入るように瞬きすら忘れ見つめた流星群とも、違う。 いずれ消えてしまう星なんかじゃない。 樹の笑顔は...まるで、まるで春の日差しの暖かい、暖かい太陽みたいな...。 俺を、冷たく冷えきった体を照らして暖め、花を咲かすかのような、優しく可愛く、明るい笑顔が、とても眩しくて、大好きで。 ずっと、ずっと眺めていたい。 永遠に、ずっと。永遠なんて...ない。わかっている。 父の病院の患者と仲良くなる度に、退院出来なかった、旅立ってしまった、数え切れないくらいの....儚い命。 「....失い、たくない、もう、過去だ、全部、全部、過去だ、から」 おかしいな....笑ってるのに、笑顔で、ピアノを弾いて、いるのに。 どうして涙が伝うんだろう。 今更、何故....。 あの子の...俺のせいでたったの14歳で自ら死を選んだ、命を絶った...あの子の...葬式も通夜も、俺は行けなかった....。 謝りたかった、のに。 俺はこの部屋から抜け出すことが出来なくて、歯がゆくて、悔しくて、辛くて、申し訳、なくて....。 「....ありがとう。そして、ごめん....」 『高校では、こういうのなくなるといいよね。いじめとかなくなって、恋愛とかもできたらいいよね、古閑くんもさ』 満面の笑みで。目尻には微かに涙が、光っていたのに。 でも、あの子はそう言って笑った。 嬉しそうに、本当に、嬉しそうに....。 あの子の時間は止まって....それを俺はまるで引き継いでいるかのような... 違うのに。全然、違うのに。 あの子は俺のこの先をまるで応援してるよ、とでも、言わんばかりに....。 そう言って笑った。 きっと、きっと彼女は、その笑顔の裏側で多分、死を選んでいた、はずなのに....。 「....恋、してるよ、本当に、本当に大好きで、君を、守れなかった、けど、俺、俺、守り、たいんだ。ずっと、ずっとその、子、を...樹を...許して...くれるかな、応援して、くれる、かな。ありがとう、ごめん、本当に、本当に、ごめん、ありがとう....」 届くかな、あの子に、あの星に、届くかな、俺の思い。 俺のあの頃の過ちを....。 あの子の命を、かけがえのない、儚い、そして看護師になる彼女の夢すらも、俺に出会いさえしなければ、消えてなくなることはなかった。 ずっと、ずっとそう、自分に言い聞かせて、いつか、出来ればなるべく近いうちにその過ちを謝れたら、なんて。 だけど...ごめん。 もう少し待っていて、もう少し、もう少しだけ、外の世界を知りたい、目に焼き付けて、耳に、焼き付けて、知らなかった世界を、少しでいい、知りたいから。 だから、もう少しだけ待っていて...そう、決意してた、のに...。 鍵盤に落ちる雫を見ないまま、俺は瞼を閉じた。 樹に....会いたい。抱きしめたい。大切にしたい。 樹の笑顔は俺の大切な、大切な宝物だから。 防音の無機質な部屋に樹の音色が溢れて満たされて、俺を包んでくれる。 優しく、とても優しく。

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