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第2話
あの日の空も、確かこんな色だった。
春風に乗って、何処からか桜の花びらが一枚舞い込んでくる。
薄明の空は段々と色を持ち始め、日の出のその瞬間を待ちわびていた。
あぁ、朝陽なんて昇らなければいいのに。
そんな世界の中、晴海だけが一日の始まりを拒んでいた。
暗闇を鮮やかに彩っていた星々は、陽の光の中に消える。
あの星と同じように、空へ消えてしまいたい。
晴海はそんなことを思って目を瞑る。
世界は音で溢れている。
人は生きるのに音を必要としている。
「それを教えてくれたのも、お前だったっけ…」
鳥の囀る声。
草木の揺れる音。
人間の足音。
風の音。
踏切の音。
昨日まで、確かに聞こえていた沢山の音が聞こえなかった。
ただ、一音だけ。
耳に残っている“大好きな音 ”
その残響が晴海を取り囲む。
お願いだから、もう少しだけここにいさせて。
忘れたくないんだ。
掴んだ花びらをそっと離して、宙を舞っていく姿をぼんやりと眺める。
晴海の視界が段々と闇に染まっていく。
星も、光も、何もない世界。
「晴海」
その中で、はっきりと自分の名を呼ぶ声がする。
一筋の光が暗闇を照らす。
光の当たる場所に、見覚えのある何かがある。
「…バイオリン?」
何処からか風が吹き、夏の匂いと一緒に桜の花びらが散る。
思わず顔を覆い一瞬目を伏せる。
「あれ…」
きょろきょろと周りを見渡しても、そこにバイオリンはなかった。
その場所に差し込んでいた光が段々と大きく明るくなり、晴海を飲み込む。
晴海は眩しさに耐えきれず、再び目を瞑った。
次に目を開けたときには、ベッドの上にいた。
「大丈夫?」
碧い瞳が揺れ、短い黒髪が夏風になびいた。
晴海がぼうっと見つめていると、優しく微笑んで言った。
「流石に疲れちゃった?」
彼は上半身を露出して、晴海の隣で寝転んでいる。
肘をついて此方を覗き込み、心配そうに言った。
よくよく見てみたら、晴海自身も服を着ていない。
顔に熱が集まっていくのが判る。
「今更紅くなってんの?」
くすくすと笑って頭を撫でる。
「可愛いね」
あぁ…そうだった。
頭を撫でられて、晴海の脳がようやく覚醒していく。
今は、二〇 年の夏。
橘 晴海はあと数日で十五歳になる。
さっきのはなんだったんだろう。
夢…だよな…?
「晴海、聞いてるか?」
声をかけられてハッとした。
「う、うん…」
晴海は今年の二月に椎名葵とバイオリンに出会った。
兄のコンクールでたまたま葵の演奏を聴いた。
その出会いが、晴海の運命を変えたのだ。
それからすぐに、晴海はバイオリンを始めた。
葵の音はホールに高らかに響きわたり、あの日から、晴海の心をぐっと掴んで離さない。
結局葵は入賞できなかったが、晴海の中では確実に“何か ”が変わった。
平和なのに何もない。
そんな日々が一変し、空や道端の草花でさえも美しく見えた。
「本当に、このまま続けるの?」
葵は静かに言った。
何もかもを見据えたような群青の瞳が晴海を見つめる。
バイオリンとは本来、幼少期から触れていなければ音を出すことさえ困難だ。
バイオリンを始めて五ヶ月。
晴海はまだ、モーツァルトのバイオリン協奏曲までしか弾けない。
無論、彼は人一倍に努力し、毎日五時間は練習した。
三日に一度は、葵の先生か葵にみてもらっていた。
それでも十数年の差は埋まらない。
それは、始めたその時から分かりきっていた事だった。
「悔しい」
そんな想いだけが胸の内に広がっていく。
中途半端なのは、一番嫌だ。
葵と、バイオリンで音楽で少しでも繋がっていたい。
「晴海」
愛しい人に名を呼ばれ、びくっと肩が上がる。
そんな晴海の肩に手を置いて優しく微笑む。
「晴海の心が本物なら、俺は信じる」
無数の星が輝く空を映したような群青の瞳が細まる。
葵と出会ったあの日から、晴海の心は変わっていない。
「俺は“好きだ ”」
「うん」
「葵も、音楽も。ずっと一緒にいたい」
自分が努力すれば、葵と一緒にいることが許される。
それなら、何を捨ててもいいと思っていた。
「“信じて ”」
晴海は力んで言った。
「絶対追いつくから。待ってて」
葵はため息交じりに笑った。
「晴海なら大丈夫」
晴海が握りこんだ手に優しく触れて、
「俺は晴海の音が好き。音楽が好き。晴海自身が好き」
そのまま晴海の背中に手をまわし、自分の方に引き寄せる。
寝っ転がっているから、そのまま身体が密接する形になり、葵の体温が伝わってくる。
「不安にならなくていい。俺がいる」
ぎゅっと抱き締めて晴海の頭をポンポンと叩く。
晴海は泣きそうになった。
苦しかった。
悔しかった。
今や人類はこの地球を飛び出し火星へ飛び出そうとしている。
なのに俺には触れられるくらい近い葵の方が遠いように思えるよ。
葵の背中があまりにも遠すぎて。
追いつけないと思ってしまった。
そんな自分が嫌だ。
晴海自身、誰よりも自分を信じたい。
なのに、どんなに努力したって葵みたいにはなれない。
「お前にはあんま向いていないと思うぜ?」
そんなこと、言われなくたって分かってる。
脳裏に隼巳 拓也先生の姿がちらつく。
才能なんてなくたって。努力するのは俺の自由だ。
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