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第1話

 目の前を通った少女のことを、悠がじっと見つめていた。悠より幾ばくか年上の、気の強そうな少女だった。思わず、空いている方の手で目隠しをする。半開きになった口から覗く牙が、獲物を求めていた。 「悠」  呼びかけてやると顔を上げてちゃんと反応する。名残惜しそうに光っていた赤い目は徐々に元の色に戻った。 「帰るぞ」  目隠ししていた手を顔から離して手を差し出してやると、そっと指の先が握られる。こくりと頷いてこちらを見る目は、もう赤くない。悠の指先から伝わる子供体温が温かかった。  自分の人差し指が、針で刺される感覚に慣れ始めているのに気が付いて少し複雑な気分になった。  針を抜いた個所からぷつりぷつりと湧いてくる小さな血の玉に悠が目を輝かせている。小さな口から赤い舌がちらりと覗いて、控えめに舌なめずりをした。 「ほら、食べていいぞ」  合図とともに、悠が大きく口を開いて指にしゃぶりつく。一瞬覗いた牙が鈍く光っていた。  よっぽど腹が減っていたのか赤子のように指を吸っている。悠の黒い目はじぃっと俺の手を見ていた。  悠はきっと俺の血では満足できないのだろう。  ここ数日、悠に食事を与えるたびにそんな考えが頭をかすめた。  町を歩く若い女性を見かけるたび、悠は目の色を真っ赤に変える。吸血鬼の事情は全く知らないが、おそらく女性の血の方が美味いのだ。確かに、俺が吸血鬼だったとしても、こんなパッとしない男の血を、吸いたいだなんて思えない。  それでも、靄がかかったような不快感が胸の内に広がっていく。  決して敵わないものに張り合おうとしている自分が心のどこかにいて、惨めな気持ちになる。  俺は悠の求める理想の食事にはなれないのだ。  生暖かな空間に捕らわれていた人差し指が、パッと冷えた。食事を終えた悠がこちらを窺っていた。悠の頭を撫でて立ち上がる。 「次は俺の食事だな」  悠、お前不幸な奴だよ。こんな冴えない男に拾われて、女の血も吸えないで。  けれど俺は、いまさら悠から離れる勇気すら持ち合わせていなかった。  料理を始める前に手を洗う。湯を沸かすだけの、料理とも言えない料理だった。それでも、悠の唾液で湿った人差し指のためだけに俺は蛇口を捻った。  もう人差し指から血は流れ出ない。すっかりカラカラに乾ききっていた。  つう、と赤い線が一本、真っ白な膝の上を下っていった。目の前で盛大に転んだ少女が、呆然と自分の膝を見ている。左手に繋いだ悠を咄嗟に見る。真っ赤な目が、目の前の少女を捉え ていた。 「悠」  呼びかけても、反応がない。視界をふさいでやりたかったが、右手に持ったスーパーの袋が邪魔で、悠の目をふさいでやれない。 「悠」  悠の肩を軽く叩く。悠はじっと少女を見つめていた。  目の前の少女はその場で泣き始めた。真っ赤な血が膝の真ん中からにじみ出ている。駐車スペースの奥から、親らしき影が駆けてくるのが見えた。  舌なめずりを一つして、少女の方へ足を一歩踏み出した悠を強く引っ張る。そのまま引っ張って、なんとか車の助手席へ押し込んだ。自分も車に乗り込んでから、悠を見る。悠の目はまだ赤いままだった。 「悠、悠」  悠の名前を繰り返し呼んで抱きしめる。背中を軽く叩いても、悠は抜け殻のようになって反応が返ってくることはなかった。 「悠、お願いだから、返事をしてくれ」  抱きしめていた悠を一度引きはがして、目を確認する。ぼんやりとした赤が、悠の真ん丸な目を支配していた。  半開きになった口から、鋭い牙が覗いている。口の端からあふれた唾液が零れそうになっていた。  誘われたみたいに、俺の左手はすっと悠の牙に吸い込まれていった。薄い人差し指の皮膚が、悠の鋭い牙の先に触れて、ぷつりと破れるのを感じる。鈍い痛みが、指の先全体に広がっていった。  少年の半開きの口に指を突っ込んで、何をやっているんだろう。  恥ずかしくなって、指を引き抜こうとした矢先、悠の口がぱくりと閉じた。真っ黒な瞳と視線がぶつかる。 「悠」  安堵の溜息が思わず漏れた。  悠の舌がぬるりと動いて、俺の人差し指を舐め切る。 「とうま」  俺の指を口から離して舌なめずりを一つ、悠は俺の名前を呼んだ。 「悠」  縋るように悠の名前を呼んだ。口から出た声は、自分でも意外に思うほど弱々しかった。  もし、俺が女の子だったなら。 「悠、俺の血、おいしい?」  もし、もしも俺が。  悠の小さな手が、そっと俺の頬を包み込む。 「とうまの血が、一番」  他ならぬ悠からそう言ってもらえて嬉しいはずなのに、心の底で悲しさが覗いている。  柔らかく微笑む悠の目は、どこまでも、どこまでも真っ黒な、深い闇の色をしていた。  足の先がひどく冷えて、もうほとんど感覚がなくなっている。真っ暗な夜の中、ぼんやりとした街灯の光が僕の足を照らしていた。  遠くからうっすらと足音が聞こえる。  けれどそんなことよりも眠たかった。重たい瞼をゆっくりと閉じる。それに、もう何ヶ月もご飯を飲んでいない。お腹が空いて、考えることすら面倒くさかった。 「うわ」  頭上から低い声が聞こえて、うっすらと目を開けた。  コートを着込んだ人間の男の人が、こちらを見て不審そうに顔をしかめている。 「お前、どうしたんだよ。ここ、ゴミ捨て場だぞ」  男の人がしゃがんで、こちらに目線を合わせてくる。 「親……お父さんとか、お母さんはどうしたよ、心配してるだろ」  男の人の目は真剣だった。 「いないよ」  かすれた声が自分の口から零れた。  思考がとろとろに溶けていって、気を抜くと寝てしまいそうになる。  人間の男の人の血は、おいしいのだろうか。  今まで飲んできた血のジュースは、人間の形をしていなかったから誰の血かもわからない。もしかしたら男の人の血を飲んだこともあるのかもしれない。  僕がうとうととまどろんでいる間も、男の人は真剣なトーンでこちらに話しかけていた。  何を言っているのか、考えることすら面倒くさい。 「なあ」  困った様子で話しかけてくる男の人の声が、とぎれとぎれに聞こえてくる。何を言っているのかはわからない。  突然男の人の腕がにゅっと伸びてきて、僕のほっぺたに軽く触れた。温かい手だった。 「こんなところで」  困った様子で男の人はまだ何か言っている。  それよりずっと、僕のほっぺを軽く叩く温かな男の人の手が、おいしそうで。  お腹の奥がぐるぐるとうずくのを感じる。  自然と口が開いて、気が付けば男の人の手の平にかじりついていた。 「いっ」  反射的に男の人が手を引っ込める。  噛みついた手の端っこから、おいしそうな血がたらたらと流れだしていた。 「お前、急に何するんだよ、びっくりするだろ」  男の人の血の匂いがふんわりと香る。  飲みたい。早く。  思わず舌なめずりをしてしまう。  あんなに寒かったのに、今は体の奥が熱い。 「飲ませて、それ」 「は」  男の人が表情をしかめた。 「お腹が空いた。はやく」  相変わらず声はかすれていたけれど、さっきよりもずっとずっと強い声が出た。 「飲ませてって、これ、血だぞ。わかるか? ばっちぃの」  男の人が上に上げようとした腕を、手を伸ばして掴む。 「はやく」  諦めたのか、男の人の腕がそっと下がった。 「お前、その目」小さく何か男の人が呟いていたけれど、うまく聞き取れなかった。  久しぶりにありつけた食事は、これまで飲んだどの血よりもおいしかった。  ふわりと甘い血の匂いが香って、頭がくらくらとする。  町を歩いている女の人は、時々血の匂いを纏っているから嫌だった。 「悠」  突然視界がふさがって、とうまが俺の名前を呼ぶのが聞こえてくる。  顔を上げて反応すると、不安げなとうまの顔が、安堵で和らいだ。 「帰るぞ」  僕の視界をふさぐのに使っていたとうまの手が、今度はこちらに差し出される。そっと指の先を握って一つ頷いた。  とうまの指の先は冷たかった。  目の前で走っていた少女が転んでから、頭がぼんやりとして、目の前の膝にしか目がいかなくなった。女の子の膝の上を、真っ赤な血が一筋、垂れていく。  どんな味がするのだろう。  目の前で垂れ流しの甘い匂いが、空腹を誘う。  体中が沸騰したように熱かった。  舌の先に、血が触れた。じんわりと、慣れた味が広がっていく。  気が付くと車の中にいて、とうまが僕の口に指を突っ込んでいる。  そのままぱくりと口を閉じて、とうまの血を飲んだ。目の前のとうまが、ほっとしたように表情を緩めた。 「悠」  少しかすれたとうまの声が、僕の名前を呼ぶ。  とうまの指先から出ている血を舐め切って、僕はとうまの指から口を離した。 「とうま」  名前を呼んであげると、嬉しそうにとうまの目尻が下がった。 「悠」  とうまがもう一度、僕の名前を呼んだ。  とうまは時々、僕よりも小さい子供みたいになる。鳴き声みたいに僕の名前を呼んで、何度も僕の存在を確認する。 一体何がとうまをそんなふうにさせているのだろう。  とうまの瞳が不安定に揺れて、ほんの一瞬だけ伏せられた。 「悠、俺の血、おいしい?」  とうまが僕の目をじっと見つめた。  とうまの血はおいしい。間違いなく、これまでに飲んだどの血のジュースよりもずっと、ずっとおいしい。  その証拠に、あの日とうまとゴミ捨て場で出会ってからずっと、僕はとうまの血しか飲んでいないのだから。  とうまの血は、極上なのだ。 「うん。とうまの血が、一番」  両手でとうまの顔を包んで、とうまの目をじっと見る。  とうまを安心させたくて、そっと笑ってみる。  安心していいよ、とうま。僕はとうまの血が一番好きだよ。  それなのに、どうして、とうまは悲しそうな顔をするのだろう。

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