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第1話

 非常事態の時に鳴るベルのような、騒がしいセミの鳴き声が教室の中まで侵食し始めていた。数分前にクーラーの電源を切ったばかりなのに、もうじっとりとした生ぬるい空気が教室の中に流れ込んできている。目の前の先輩の額からも、じっとりと汗がにじみ始めているのがわかった。 「お願い。一回だけだから」  さっきから繰り返し聞く先輩の台詞が、セミのノイズに混じって教室の床に落ちた。 「どうせ三年はもう委員会も出ないし、学年が違えば会う確率だって低いし……だからお願い、一回だけ」  握りしめたラップをこちらに突き付けて、先輩がじっとこちらを見る。先輩の声は僅かに震えていた。 「嫌ですよ」  ジリジリと鳴き続けるセミの音に、脳内が支配されていきそうだ。きっと先輩も、正気ではない。 「本当に、これで諦めるから」 「そもそも、初耳ですよ」 「うん。初めて言った」  先輩の額からつ、と汗が垂れた。窓の外に並んでいる木々が、先輩の顔の上に斑な影を作っている。教室に残っていたクーラーの余韻は、もうほとんど感じられない。 「お願い。ラップ越しならノーカンだし……藤野は目を瞑って女の子でも想像しててよ」  先輩の顔が近づく。先輩の体から放たれる熱を、すぐそばで感じた。セミの鳴き声が教室中を支配している。頭がくらくらした。 「キスだけ、だから」  セミの鳴き声が、飽和している。 「ラップ、一枚じゃなくて、二枚にしてください」 「ありがとう」  先輩の顔がぱっと明るくなった。嬉々としてラップの箱からラップを切り取って丁寧に二枚にたたむ。 「目、瞑って」  指示通り目を瞑り、先輩の身長に合わせて少しかがむ。  じわりと汗が額に浮くのを感じた。 「そんなに背、低くないって」  先輩のむっとした声が聞こえてすぐ、冷たい膜が唇に触れた。直後、膜越しに温かいものが 押し付けられる。数秒、自分の時だけが止まったような気分だった。湿った空気が重たくて、息をするのすら億劫になる。あんなに騒がしかったセミの鳴き声が、遠くで響いていた。  そっと、熱が離れていく。  同時に、口に張り付いていたラップもはがされる。そっと目を開けた。俯いた先輩の目から、雫が零れる。  そっとこぼれた一滴を、先輩は慌てて拭って、それから短い深呼吸をした。 「もう、目、開けていいよ」  先輩がこちらを見ることはなかった。俺がすでに目を開けていたことにも気付かずに、俯いたまま、顔を逸らす。 「無理言ってごめんな。付き合ってくれて、ありがとう」  かすれた声だった。先輩はそのまま俺に背を向ける。  鬱陶しいほど、セミが鳴いていた。セミの鳴き声にかき混ぜられて、うまく頭が働かない。 「先輩」  気付いたら、先輩の腕を掴んでいた。汗でしっとりとした先輩の腕にぐっと力が入って固くなる。 「離せよ」  先輩はこちらを見ない。どんな表情をしているのか、わからなかった。 「お前、ひどいよ」  先輩の声がうっすら震えていた。セミの声にかき消されてしまいそうなほど、弱い声だった。 「先輩」 「何?」  何かを言いたいのに、続きの言葉が見つからない。自分でもまだ理解できていない感情だけが、喉の奥で言葉にならずに待機していた。 「あの……なんでも、ないです」  喉の奥に何かがわだかまっている。言葉にならないそれにもどかしさを覚えながら、そっと先輩の腕を離した。  教室を出る間際、先輩がもう一度言った。「お前、ひどいよ」  声が泣いていた。  セミの鳴き声が聞こえる。先輩の足音が、遠く響いている。  吐いた息も周りの空気も、湿っぽくて暑かった。 「つまり、泣き顔見て好きになっちゃったってこと?」 「違う。ちょっと、気になっただけ」  焼きそばパンの袋を開けながら、林田が俺を笑った。 「付き合ってあげればいいのに。どうせ今フリーでしょ?」 「そんな簡単な話じゃないんだって」  そんな簡単な話なわけがない。だって、俺は男で、相手も男だ。昨日のラップ越しの体温は、昼食のパンの触感ですっかり塗り替えられている。  第一あれは先輩も言う通り、キスにすら含まれない。ノーカンなのだ。  ただ少し、先輩のあの涙が、心の隅に引っかかっているというだけで。 「でもさ」 「何?」  焼きそばパンを飲み込んだ林田が、俺を見る。 「これで諦めるって言われたんでしょ?」 「一から十まで、林田に説明したとおりだよ」 「じゃあさ、やばくない?」  他人事のように軽く笑いながら、林田がパンをもう一齧りする。 「何が」 「だって、このまま何もしなかったらお前、諦められて、終わりじゃん」  諦められて、終わり。  ふふふ、と気持ち悪い笑い方でこちらを見てくる林田の笑い声に、セミの声が被さった。セミの鳴き声にあふれていたあの日のことが一瞬脳裏をよぎる。唇が、じわりと熱を持ち始めた。 「それは、なんか、嫌だ」  窓の外からセミの鳴き声が聞こえる。熱を含んだ空気が肌を撫でる。額を、汗が伝った。焼きそばパンの最後の一口を飲み込みながら、林田がこっちを見ていた。 「珍しいね、お前がそんなこと言うの」  ガコン、と自販機から飲み物が吐き出される音がした。  ちょうど校舎の影が濃くかかっている位置に立っている自動販売機。その自販機の前に立って、ジュースを取り出そうとしている先輩の背後を陣取った。  振り向いてこちらを見た先輩の表情が、固まる。 「先輩」  固まった先輩の上を、汗だけがつ、と動いて垂れていった。止まっていた時が動き始めたみたいに、ふ、と先輩の瞳が揺れた。眉が一瞬下がって、すぐに吊り上がった。 「なんだよ」  虚勢をはったみたいな先輩の声が、僅かに震えていた。 「もう、諦めましたか。俺のこと」  何かを言いかけようとして、先輩が口を閉じた。しばらく視線が彷徨って、それから、目が伏せられた。 「諦めたよ」  先輩の目は、こちらを見ない。 「嘘、ですよね」 「嘘じゃ、ない」  先輩の声が震えている。やっぱり先輩はこちらを見ないままだった。 「先輩。俺、頭いいんですよ」 「な、に。知ってるけど」  先輩がようやく俺を見た。訝しむような視線だった。 「受験、あるじゃないですか、先輩」  話の先が見えていないのか、先輩は黙って俺の話を聞いている。じっとこちらを見つめる先輩は、俺が次に発する言葉を待っているみたいだった。  遠くでセミが鳴いているのが聞こえる。生ぬるい風が、肌を撫でていった。 「教えますよ、勉強」 「は」  先輩の口から洩れた息が、そのまま音となって空中に霧散した。シャツの隙間から、先輩の首筋を汗が伝うのが見える。 「いい」 「じゃあ、教えてください。勉強」  俺の返答に、ますます怪訝そうな顔をして、こちらを見上げる。 「なんでそんなに絡んでくるの」 「だって」  先輩の瞳が揺れていた。 「先輩、泣いてたじゃないですか。あの時」 「あの時?」 「あの、キスした時」  セミの鳴き声が、すぐ近くで聞こえる。自販機のそばに木なんかないから、どこかの壁にとまっているのかもしれない。 「泣いてない」  先輩の瞳は、俺とは別の場所を見ていた。 「泣いてましたよ」  先輩の眉間にしわが寄る。  ジジッと鳴いてセミが飛んでいく音が聞こえた。 「どいて。いつまでも自販機の前にいちゃ、邪魔だろ」  先輩が、俺の肩をぐい、と押しのけて、足早に校舎に戻っていく。肩に触れた先輩の手は熱かった。 「今度の夏祭り、彼女と行くことになったから」  林田からのメッセージに適当なスタンプで返して、スマホをズボンポケットにしまう。  目の前の教室では、ちょうどホームルームが終わったらしい。ざわざわとした雑音が弾けるように教室から漏れ始めた。  扉を注視して、出てくる人物をじっと見つめる。何人か出て行った後で出てきた姿を捉えて、慌ててその腕を掴む。 「先輩」 「何」  反射的に振り向いた先輩が、瞳に俺を映す。一瞬目が見開かれて、少し傷ついたような表情をした。その顔が、すぐに不機嫌に変わって、じっと俺を見つめる。 「勉強教えてくださいって、言いました」 「教えるとは言ってない」  逃げようとする先輩の腕にぐっと力を込めて、引き留める。 「教えてください。先輩」  先輩の視線が、助けを求めるようにさまよった。教室から出てくる人の波を見て、それから俺が先輩を掴んでいる腕を見て、また人の波を見る。 「先輩」  呼ぶと、怯えるように、先輩の視線が俺の顔に戻ってきた。 「勉強教えるだけ、じゃないですか」  空いた廊下の窓から、セミの鳴き声が聞こえた。先輩がゆっくりと俯く。 「教室空くの、待とう」  先輩の声が小さい。廊下を通るたくさんの人たちのおしゃべりにのまれて、モザイクがかかってしまったみたいだ。 「今回だけ、だから」  言い訳のようにぽつりと聞こえてきた声は、なんだか泣いているみたいだった。  開いた窓から、セミの鳴き声に交じって運動部の掛け声が聞こえる。目の前の先輩が、俺とノートを交互に見て「教えること、なんもねーよ」と呟いた。 「でも、また、教えてください。勉強」 「嫌だ」  ノートを閉じて、俺に返す。そしてすぐ、先輩は自分のノートに目を落とした。数学の計算式を書くシャーペンの音がする。遠くから、吹奏楽部の楽器の音が、風に乗って流れてきた。 「なんでそんなさ、俺にかまうの、お前」  ノートに視線を落としたまま、先輩が呟いた。 「言ったじゃないですか。先輩が、泣いてたからだって」  理由を答えれば、先輩は決まり悪そうに口をとがらせた。視線が、ノートの上を滑って、逸らされる。 「泣いてないって」 「泣くぐらい好きだったんですか、俺のこと」  先輩が、シャーペンを握る手に力を込めた。 「しつこいよ、お前」  眉をひそめて、一瞬、こちらを睨む。 「でも、俺、諦められたく、ない、です」  思わず動いた手が、ペンを握る先輩の手に触れた。縋るみたいに、先輩をじっと見る。 「なに、お前。俺のこと振ったくせに……好きにでも、なってくれたの」  先輩の目が僅かに見開いて、俺を見ていた。  セミの鳴き声が、うるさい。  先輩に触れた手を、そっと放す。 「わか、らないです」  はっ、と先輩の自嘲的な笑いがこぼれた。口元は笑っているのに、泣き出しそうな目をしている。 「ひどいやつ」  セミの鳴き声が、一瞬、途切れた。先輩のため息が、やけに大きく聞こえた。先輩が、ノートに視線を落として俯いた。陰になって、表情がよく見えない。 「俺さ、お前に拒絶されるのが、一番怖いよ」  声が揺れていた。少しかすれた、小さな声だった。それなのに、はっきりと聞こえた。  心臓の鼓動が、徐々に早くなっていくのを感じる。体温が、何度か上がってしまったみたいに体が熱い。 「先輩」  俺の声も、かすれていた。 「なんで俺、なんですか」  なんで俺のこと、好きになったんですか。 「藤野のことが、好きだから」  とげとげした黒髪をかぶった、先輩の耳が赤い。  セミの鳴き声が、一気に騒がしくなる。運動部の掛け声が、教室まで届いては消えていく。先輩のこめかみを、汗が伝った。 「それは、俺のこと、抱きたい、とか、俺に抱かれたい、とか、そういう、ことですか」  ガバッと先輩が顔を上げてこちらを見た。先輩の口が勢いよく開く。 「お前」  そこで言葉が途切れた。それ以上何か言葉が紡がれることもなく、開いた口が、ゆっくりと閉じていく。  それからゆっくりとうつむいた後、机の上に広げていたノートを、静かに閉じた。 「俺、もう帰るよ」  静かな声が、教室に溶けた。先輩は黙ってカバンの中に教科書や筆記用具をしまっていく。  失敗した。あんなこと、言うつもりじゃなかったのに。  何とかして引き留めたくて、カバンのファスナーを閉める先輩の腕を掴む。  驚いた先輩の顔が、こちらを向く。  教室が熱い。背中に汗が伝うのを感じた。 「先輩、その……すみませんでした」  先輩の目が、力なくこっちを見ている。  何か、言葉を、続きの言葉を言わなければと思って、必死に脳内から話題をかき集める。 「あの、先輩、その」  何か、言葉を。  ジジジジ、セミの鳴き声が外から聞こえる。 「夏祭り」  叫んだ言葉に、自分でもびっくりした。思ったより大きな声が出た。掴んだ腕から、先輩が驚いたのが伝わってきた。 「夏祭り、行きませんか」 「なんで」  泣く少し前みたいに、湿った先輩の声が、小さく教室の床にこぼれる。 「これで、最後にするんで」  声が震えた。先輩の顔が見れない。 「最後?」 「最後です」  勢いで言って、もう後悔し始めていた。夏祭りで、最後。 「いいよ」  先輩が少し微笑んだ気がして思わず顔を上げる。けれど先輩は顔を背けていた。どんな表情をしているのか、こちらから確認することができない。  じわり、と噴き出る汗が、俺の手の平と先輩の腕との隙間を湿らせていく。  先輩と俺との沈黙を埋めるように、セミがしきりに鳴いていた。 「腕、離して」  カン、とバットがボールを弾く音が聞こえてきた。  ゆっくりと、掴んでいた腕から力を緩める。緩めたての隙間から、するりと先輩の腕は抜けていった。カバンを抱きしめて、逃げるように教室を出ていく。  一人きりになった教室で、一斉に力が抜けてしまったみたいに、椅子にもたれかかる。  心臓がバクバクと鳴っていた。体中から、一気に汗が噴き出す。  ジリジリと鳴き続けるセミが、俺のことを嘲笑っていた。  待ち合わせ場所にはすでに先輩がいた。Tシャツにジーパンの、私服の先輩を見るのは初めてだった。  スマホ画面に視線を落としていた先輩が、こちらに気が付いて顔を上げた。少し切なそうにこちらを見た後、何もなかったみたいに笑いかける。 「先輩、早いですね」 「最後だから、楽しもうと思って」  近くの草むらから、鈴のような虫の音が小さく鳴っている。 「本当に最後、なんですね」 「本当に最後、だよ」  小さな虫の鳴き声は、しぼんでいくように徐々に消えた。 「行こっか」  祭りへと向かう人ごみの方へ、先輩が歩き出した。はぐれないように、慌てて先輩の後ろを ついていく。 「先輩、何か食べたいものとかあります?」 「何? 奢ってくれんの?」  振り向いた先輩は、いたずらっ子のような笑みでこちらを見た。 「おご、りは金によりますけど」 「冗談だって。俺、かき氷食いたい。ほら、今日熱いし」  手でパタパタと仰ぐしぐさをして、そのまま正面へ向き直る。誤魔化すように適当な話を続ける先輩の耳が、少し赤く染まっているような気がした。 「先輩」 「何」 「今日、楽しみでしたか」  進む道の先に、屋台の明かりが見える。祭りの賑やかな音が、複数の足音に混じって流れてきた。 「うるさい」  先輩の小さな声が、雑踏にまぎれて、かろうじて聞こえてきた。金魚すくいだの、唐揚げだの、綿菓子だのの屋台は、もうすぐ目の前まできていた。  斜め前の先輩の腕を掴んで、引っ張る。驚いた先輩の歩みが止まった。 「先輩、本当に最後ですか」 「最後だよ」  先輩はこちらを見ないまま答えた。遠くの方でお囃子の音が鳴っている。すぐ目の前の屋台から、子供のはしゃぎ声が聞こえてきた。 「諦めさせてよ」  独り言のようにこぼされた言葉は、周囲のざわめきに掻き消されそうなほど小さかった。  息苦しさが、胸を襲う。抱いた感情はきっと、同情なんかではなかった。腕を引っ張って、人ごみから抜けた。屋台の方とは逆にどんどんと進んでいく。後ろから、先輩の戸惑う声が聞こえていた。 「そんなに諦めたいんですか」  近くの茂みに向かって足を進める。さっきまで周りにたくさんいた人の影は、もうほとんど見かけなくなっていた。 「自分から振っといて、諦めたいんですか、はないんじゃないの、お前」  先輩の不機嫌な声が背中にぶつかる。  茂みの中の、ちょうど木の陰になっているところで、足を止めた。 「藤野」  振り向くと、不満そうな先輩の顔が、すぐ目の前に見えた。 「先輩」  呼ぶと、びくりと肩が跳ねる。その様子が、なんだかかわいいなと思った。 「俺、先輩のこと好きでしたよ」 「は」  困惑の表情で、俺を見つめる。 「恋愛とかじゃなくて、こう、先輩として。ええと、なんていうか、人間として」 「ああ、そう」  先輩が頭をがしがしと掻いて、俺から視線を外した。足音から、何かの虫の鳴き声がする。 「だから、すごく悲しかったです。先輩が、もう俺と関わらないからって、キスを迫ってきた日」  先輩はじっと黙って俺の話を聞いていた。 「俺、先輩とずっと、バカみたいな会話したり、今日みたいに夏祭りに行って、はしゃいだりする関係でいたかったです」 「そうかよ」  先輩の声がいつもより低かった。相変わらず先輩の視線は、俺を見ない。 「でも、たぶん今俺、先輩のこと、好きです。先輩として、とかじゃなくて、恋愛として」 「は」  足元の虫の鳴き声が、一回り大きくなる。先輩の一重の目が、大きく見開いて、ようやくこちらを見た。額にうっすらと汗が浮いている。 「先輩、好きです」  先輩の目をじっと見る。先輩は何も言わなかった。は、の口のまま、俺のことを見ている。八の字になった眉が、眉間にしわを作っている。 「先輩」  先輩の瞳が、ゆらゆらと揺れていた。 「青葉先輩」 「やめろよ」  ほとんど息みたいな、微かな声が、先輩から漏れた。 「なんでですか」  先輩がもしまだ俺のことが好きなのなら、断る理由はないはずなのに。 「お前の人生、狂わしたくない」  まるで泣き出す数秒前だ。先輩の顔がぐしゃりと歪んだ。 「狂うって、なんですか」 「だってお前、ノンケだろ」  のんけ。知らない言葉が、先輩の口から漏れた。俺がのんけだから、先輩は俺と付き合いたくないのだろうか?  焦るような気持ちが背後から忍び寄ってくる。だったら、なんで俺に告白なんてしたんだ。そんな意味の分からない言葉で言い訳しないで、はっきりと言ってほしかった。  まだ俺が好きなのか、もう恋心なんてひとかけらも残っていないのか。 「先輩は、俺のこと、もう好きじゃないんですか」 「好きだよ」  先輩の、小さく怒鳴るような声が茂みの上に散乱した。 「好きだけど、俺は、俺が告白したのは! お前にこっぴどく嫌われれば、諦められると……思って」  一度盛り上がった先輩の声が、徐々にしぼんでいく。 「だって、ゲイなんて、嫌だろ」  先輩の視線がまた、俺を外れる。 「なのにお前、嫌がらないし」  先輩が黙って、余韻のように虫の鳴き声だけが残った。 「俺、人生狂わされたとか、思ってないですよ」 「でも」 「好きだから好きじゃ、だめなんですか。俺が、のん、け? だから、ですか」  生ぬるい風に乗って、囃子の音が微かに聞こえてきた。 「お前、ずるいよ」  ため息を一つついて、先輩がその場にしゃがみこんだ。背の高い草が先輩の上にかぶさる。 「いいよ。お前の口車に乗ってやるよ」  観念したみたいに、こちらを向いて笑う。 「幸せな夢見せろよ」  いたずらっ子みたいに目を細めて、こちらを見ていた。お囃子の音はもう止んでいた。足元の虫だけがいまだに鳴いている。 「夢で終わらせませんよ」  しゃがんで、先輩と目線を合わせる。顔を撫でる草がくすぐったい。 「振る時は、こっぴどく振って」  そのまま、先輩の頭が俺の肩にもたれた。先輩の体温が、肩からじんわりと伝わってくる。先輩の熱が伝染したみたいに、顔が熱かった。 「嫌だって言われても、振りません」  心臓がトクトクと鳴っている。そっと先輩の背中に手を回した。背中越しに、先輩の鼓動が伝わってくる。  先輩は何も言わなかった。  祭り会場の方から、花火の上がる音がする。空に咲いた花が、俺たちをそっと照らした。

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