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第172話

「あ…」  洗面所から出てきた小敏(しょうびん)は、そこで心配そうに待っていた玄紀(げんき)に気付いた。中まで押し掛けるようなこともせず、自分の方が置いて行かれた仔犬のような、心細い顔をした玄紀だ。 「あ、あの…、小敏。…ハンバーガーが待ってますよ」  小敏は顔を洗って来たのだろうが、まだその目は赤い。そんな小敏にどんな言葉を掛けたらいいのか分からず、玄紀はどうでもいいような事を口にした。 「別にいらない…。この時間のフライトなら、機内食出るから」  淡々とそう言うと、小敏はそのままラウンジから出て行ってしまう。 「あ、小敏!待って下さい」  玄紀も慌てて後を追おうとするが、先を行く小敏が足を止め、振り返って言った。 「後で、搭乗口で会おう」  それだけを言うと、小敏は玄紀を振り切るようにラウンジを後にして、免税店が並ぶフロアへと消えて行った。 「小敏…」  独り取り残された玄紀は、自分の不甲斐なさが情けなくてならない。  小敏のことは大好きだ。優木(ゆうき)さんのことも尊敬さえしていた。優木さん亡き今、自分にはすべきことがあるということは分かるのだが、何をすれば、小敏の痛みを少しでも和らげることが出来るのか、それすら分からない。 (ダメなのです…、優木さん。私では…、小敏の支えになれない…)  肩を落とした玄紀は、力の無い足取りでラウンジのテーブルに戻った。  目の前には、小敏が注文したハンバーガーとコーラがあった。これらと同じくらい、自分は小敏には関心を持ってもらえないのだと玄紀は、痛感した。 「誰かを好きになるのって、難しいな…」  目を潤ませながら、玄紀は小さく呟き、いきなりハンバーガーを手にすると、勢いよく食らい付いた。 「ほら…やっぱり…ハンバーガー、美味しい、のに…」 ***  下着やシャツやパンツを、免税のハイブランドにてカードで購入し、日本ではあまり売っていない西瓜やヒマワリの種を購入した小敏は、他にも好きなチョコ菓子や飲み物を買い、最後にそれらを入れる小さめのキャリーケースを買った。  小敏は、ふと自分が乗るはずの便の搭乗開始のアナウンスに気付いた。 (ボクは…、本当にこの飛行機に乗ってもいいんだろうか…)  広いフロアに1人立ち尽くし、小敏は頭の中で自問自答する。 (優木さんは、まだ上海にいるって信じているのに…。こんな風に、追いかけて行くようなことになるなんて…)  ゆっくりと小敏は、大きな窓の外を見た。  世界各地から飛んできた飛行機が何機も並んでいる。どこから来て、どこへ行くのか分からない。だが、飛行機にはその地へ行くという「目的」がある。 (ボクの…目的地はドコなんだろう?)  不安をいっぱいに抱えながらも、一方で小敏は、このまま上海にいれば、父に優木のことを忘れるように迫られ、強引に北京へ連れて行かれるかもしれないことを知っている。  とにかく、今は上海で父を待つようなことは出来なかった。  ボンヤリと歩き出した小敏だったが、気が付くとそこは、小敏たちが乗るはずの便が待つ搭乗口だった。 「小敏!」  ポツンとベンチで座っていた玄紀が、小敏の姿を見つけ、コロリと表情を変えて立ち上がった。  玄紀は、こうして小敏が目の前に現れるまで、実はずっと心配していたのだ。もしかしたら小敏は、急に心変わりをして空港を後にするかもしれないと、玄紀は不安だった。  楽しそうな顔ではないにしろ、こうやって搭乗口に来てくれただけでも、玄紀には十分だった。 「小敏、もうすぐ搭乗ですよ」 「…うん…」  虚ろな顔で、気のない返事をしている小敏は、玄紀の目を見ようともしない。  それでも玄紀は、明るい笑顔で小敏に話しかける。 「あ、ゲートが開きますよ。行きましょう」  こうして申玄紀に手を引かれるようにして、羽小敏は、関西国際空港行きの飛行機に搭乗した。

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