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エスプレッソ
「ずいぶん忙しそうだな」
「今日は非番だと思いきや、朝から救急要請だ。もう自分が何科かわからん。心カテにERCP、しまいにゃこれから緊オペときた。手短に頼む」
「読んでもらえればわかる内容だが」
「時間がねえ。せっかくきてもらって悪いが……3分。それで簡潔にまとめてくれ」
診療時間外となった薄暗い外科診療室の中にはもう誰もおらず、静まり返っていた。
どさりと川上の隣に座った田ノ内はそう言うと、勢いよくパンをかじり始めた。
白衣の下のオペ着はよれていくつもシワがよっていて、彼の余裕のなさを物語っていた。
川上はセカンドバックの中からサンプルとパンフレットを取り出し、パンを食べ続ける田ノ内の隣で広げた。
「ま、十分だ。じゃあ勝手に話すからそのままで聞いてくれ。今日紹介するのは……」
この男が忙しいのはいつものことだと手にしたパンフレットから商品である薬品の概要を端的に読んだ。
田ノ内は途中までパンを食べることに集中していたが、川上がその服用方法について述べ始めると2個目のパンをかじる手をとめた。
「ふーん……じゃあコイツにかえると、月一で飲みゃいいってことか」
「そうだ。まあ、飲み忘れのデメリットは大きいけどな」
「薬価は」
「安くなる。で、効果は同等。結果はアメリカの治験である。こっちじゃなかなか認可されなかったが、海外じゃもうかなり流通してる」
「へえ」
ずずっとコーヒーを一口飲んで訪れた一瞬の間。
ずいっと紙コップが目の前に差し出され、変わりに手にしていたパンフレットを奪いとられた。
そうして再びパンをかじりながら、パンフレットに目を通す姿が視界にうつった。
病院という場所は予定時間などあってないようなものだ。
同僚のMRが目的を果たせず帰っていく中、こうして本来なら断られる時間でも合間をぬってもらえるのは田ノ内が学生時代からの学友だからこそなのだろう。
田ノ内とは数えればもう20年近い付き合いになる。
昔からとにかく意志の強い目をした男だった。医者になるという目標からブレることなくその道を進んできていた。
彼は地位や名誉のための論文や学会よりも、とにかく第一線に立つことを望み、睡眠を取る以外のその時間のほとんどを患者のことを考えて過ごしている。
そんな田ノ内だからこそ、3年前に結婚したと聞いたときはかなりの衝撃をうけた。
だが、つい先日、離婚が成立した。
結婚早々、海外派遣医療スタッフの依頼を受けて単身渡米し、2年在米。帰国したときには妻は家からいなくなっていたという話は田ノ内らしくて納得できる。
先日、プライベートで飲みにいった際にはすれ違いばかりだったし、もともと自分には結婚願望などなかったといっていた。
――ならばなぜ、結婚などしたのか。
ふと、隣の田ノ内を見た。
何日も帰宅していないような疲れた表情。いつも同じオペ着に、よれた白衣。伸びた後ろ髪。寝癖に無精ひげ……
「なんだ」
「いや、なんでも」
「それ、全部飲むなよ。俺のだ」
「医者の癖にけちだな」
言われて、手にしたままだった紙コップに目がいった。
学生時代の田ノ内は豆の味が濃い、微糖のものを好んでよく飲んでいた。
売店でのインスタントでは納得いかない顔をしていたので、いつだったか、彼の誕生日にミルとコーヒーメーカーをプレゼントしたら、シャレのつもりだったが大層喜んでいたことを思いだした。
安物ではあったが、スイッチ一つで簡単にうまいコーヒーが飲める優れものだった。
まだ湯気の出ているそれに口をつけると、甘すぎるコーヒーの味がした。
「電話」
「ああ」
小さな振動音がなり、田ノ内は胸ポケットにはいっていた携帯にでた。
急患であろうか、険しい顔になった田ノ内が頷き、指示をだす。最後に今いくと告げて電話を切った。
「悪い。急患だ」
「ああ、俺の要件は済んだ。いってくれ」
「新薬の件は考えとく」
「よろしく頼みます。田ノ内先生」
「ああ」
今日初めての敬語に、田ノ内が笑って立ち上がった。
その後ろ姿に、なぜか、学生時代の面影が重なった。
「……早くうまいコーヒーいれてくれる相手が見つかるといいな」
咄嗟にかけた言葉に、田ノ内が足を止めた。
一瞬の間。
振り返った顔は、なぜか少し困ったように笑っていた。
「……家に帰りゃ、スイッチ一つで飲める、うまいコーヒーがあるから当分は大丈夫だ。
あ、鍵はこのままでいいから。あと、それはやるから捨てといてくれ」
それ、と川上の手にしたままだった紙コップをさして、軽く手をあげる。
パタンと小さな音をたてて、扉がしまった。
川上は聞こえなくなるまで、じっとその足音を聞いていた。
返事ができなかった。
なぜか声がでなかったからだ。
『スイッチ一つで飲める』
……まだ使っていてくれているのか。
――彼のことが好きだった。
伝えたことはない。
卒業と同時に会う機会もなくなり、いつの間にか薄れていた思い。
それでも年に数回は連絡をとっていたし、4年前からこの病院で偶然一緒になったときも思いだすことはなかったのに。
自動販売機の前で、インスタントコーヒーをまずそうに飲む田ノ内の姿を思いだす。
今はそんなことをこだわる余裕すらないのだろう。
それくらい、時間は流れた。
なのに――……
なぜ、今頃になってそんなことを思いだしたのだろうか。
考えてみても答えなど見つかるはずもない。
手の中に残された紙コップには、まだ半分ほどの冷め切ったコーヒーがはいっていた。
川上はそれを一気に飲み干すと、壁際のゴミ箱に投げ入れた。
底に溜まっていた甘さだけではない苦味が舌先からゆっくりと広がっていった。
fin
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