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第1話

夏の、暑い日だった。 十歳になったばかりの少年は、誕生日だと言うのにヨレヨレのシャツに短パンという出で立ちで、小銭を握りしめて商店街のアーケードをフラフラと歩いていた。 今日は休日。人がごった返すアーケードは、その少年にとっては居心地の良い所ではなく、早く目的の店に着きたいと、彼は足早に歩く。その靴は足先が破れ指が飛び出し、足も……というか身体全体的に、同年代の子と比べてかなりやせ細っていて、一目見てこの少年がまともに食事を摂っていない事が分かる。 しかし世間にとって、そんな事はどうでもいい事。誰も少年を気にかける人はおらず、少年も必死な顔で目的地まで進んでいた。 少年の目的地は、近所でも有名な激安スーパー。久しぶりに帰ってきた義父から、当面の食費だと渡されたのは五百円。当然足りるわけもないのだが、それでも少年はそれに頼るしかなく、そのお金で食料を買えるだけ買うのだ。少年には義兄もいたが、そちらに頼るのはもっと厄介なので、何とか凌ぐしかない、とスーパーの前までやってくる。 すると、嫌な予感がした。立ち止まって辺りを見回すと、見知らぬ人と目が合う。少年はその昏い瞳に一瞬で恐怖と危険を感じ、一目散に逆方向へ走り出した。 少年が五歩走った時、後ろで悲鳴が上がる。次に女性の甲高い悲鳴、辺りが一瞬にして騒然となり、やめて! とか、逃げろ! と怒号が飛んだ。 少年はその中に同じくらいの歳の子の、子供の声を聞きつけ、グッと息を詰める。 お父さん、お父さん、とその子は泣いていた。辺りは騒然としていたのに、何故かその声だけはハッキリと聞こえて、少年はギュッと拳を握りしめて走り続けた。 「……っ!」 ガバッと音がする程勢いよく、茅場(かやば)颯太郎(そうたろう)は起き上がった。 見渡すとそこはいつもの見慣れた下宿先のアパートの部屋で、颯太郎は自分のベッドに座っている。ワンルームのリビング兼寝室は余計なものは一切なく、勉強する為のローテーブルと、バイト用のパソコン、教科書を入れる本棚と、必要最低限の服しか入っていないチェストがあるだけだ。 心臓がバクバクしている。脂汗も浮かんでいて、夢か、と独り言を言って時計を見ると、朝の四時を示していた。起きるには早い時間だけれど、あんな夢を見てしまってはもう眠れない。颯太郎はベッドから降りると顔を洗いに洗面所へ向かう。 母親譲りの綺麗な黒髪、きめ細かい肌、黒目がちな目に長いまつ毛。しかし颯太郎はその顔が好きではなかった。鏡も見ずに髪の毛を手ぐしで整えると、顔を洗って気持ちを切り替える。 洗面所から出た廊下がキッチンになっており、冷蔵庫から『訳あり品』のシールが貼られた、カステラの切れ端が入った袋を取り出す。それを満足するまで食べて、牛乳をパックから直接飲んで流し込むと、朝食は終了だ。 (あれから、十年か……) 颯太郎はリビングに戻ると、ベッドを背もたれにして座る。 後から人づてに聞いた話だけれど、一人の死亡者と、十人の重軽傷者が出たらしい通り魔事件。颯太郎はずっとあの時の事を後悔している。 自分が嫌な予感がした時に、声を上げていたら結果は違ったのではないか、と。 あの時颯太郎は犯人と目が合った。一番に目をつけられたのは自分だったのに、真っ先に逃げ出したから、颯太郎の近くにいた見知らぬ人が犠牲になってしまった。 颯太郎は身震いする。 あの昏い瞳は自暴自棄になった人の目だ。真っ黒な感情に覆われていたからこそ、颯太郎は気付くことができた。 禍々しい当時の光景を思い出さないように首を振る。あんな昏くてどす黒い感情には、二度と会いたくない。 颯太郎はふう、と息を吐くと、少し勉強しよう、と教科書を開いた。 颯太郎はここから電車で二駅行った所にある大学に通っている。奨学金制度を利用して通っているので、成績もそうそう落とせない。専攻しているのは外国語学科の英語だが、別にそれを活かした職に就こうなんて思っていなかった。 しばらく勉強して、時間になったら着替えてアパートを出る。今日は一限からあるので、颯太郎はグッと身体に力を入れた。 外は秋らしく高い空で晴れており、雀が数匹、颯太郎の頭上を飛んでは去っていく。その忙しなさに口元を緩めると、これからくる憂鬱な時間がほんの少しだけ、楽になった。 駅に着くと、颯太郎は周りを見ないように、一点だけを見つめて歩く。 (人混みは、苦手だ……) 自分の意識が、すうっと奥底に引いていくのが分かる。歩くことに集中していれば、周りも気にならなくなった。 颯太郎は昔から、人混みというか、人と関わるのが苦手だ。トラブルは避け、人と話すのも必要最低限。それは幼い時から徹底していて、そんな颯太郎と仲良くしようなんていう物好きはいなかった。 何故徹底しているのか? 颯太郎は嫌な予感がする方向を避け、エスカレーターではなく、階段を使って下へ降りていく。 すると、エスカレーターの方で「通り道塞いでんじゃねーぞ!」と怒鳴り声がした。颯太郎はそちらを見もせず、怒鳴り声を聞かないようにまた歩くことに集中する。 ホームへ降りると、ふう、とため息をついた。一瞬顔を上げてしまい、そこに見えた景色に目眩がする。 赤、青、紫、ピンク……目が痛くなるほどの色の多さに、颯太郎は慌てて視線を落とした。 先程の颯太郎は予知能力でも何でもなく、感情を「見た」に過ぎない。強ければ強い程色は濃くなり、負の感情な程、黒い色が混ざる。赤い怒りと攻撃性の黒が混ざった色を(まと)った男性がいたから、エスカレーターを避けただけだ。この能力は小さい頃からあって、気味悪がられたので秘密にしている。 颯太郎はハッとして電光掲示板を見た。もうまもなく自分が乗りたい電車が来る。慌てて列に並ぶとすぐに、電車がホームへ入ってきた。 この時間は通勤通学ラッシュだ、身動きが取れないほどではないけれど、それなりに混んだ車内に乗り込むと、目の前に黄色が見えた。 綺麗な黄色だ、と颯太郎は顔を上げる。黒のダメージジーンズに黒のTシャツ、顔は見えないけれど、綺麗な明るい茶髪はアシンメトリーで左側だけ長い。ヘッドホンで音楽でも聴いているのか、時折足でリズムを取っている姿は、同じくらいの歳の男性かな、と颯太郎は思う。 すると、視界の端に黒い色が見えた。颯太郎が警戒しているとその人は、黄色の隣にジリジリと近寄って並ぶ。 「……っ」 黒い色が強くなった。その色を纏った男はヘッドホンの男の左手にしている時計に手を伸ばす。 (スリか……っ) 颯太郎は止めるか迷った。けれど、目の前で犯罪が犯されようとしているのに止めないのは、また後悔の種が増えてしまうだけだ、と一気に緊張した心臓を抑えて、黒い色の男の手を取る。 「あなた今、何をしようとしてたんですか?」 颯太郎が喋ったことでヘッドホンの男の黄色は驚きの赤に変わった。黒かった男性の色も焦りの青に変わり、黒いくすみは薄くなっていく。 「えっ、いや……突然なんなんですかっ」 男性は青から今度は赤に変わった。犯行を止められて怒った、というところだろうか。 「いえ、この男性とお知り合いですか? 何も言わず手を繋ごうとしていたので」 颯太郎は表情を変えずに言うと、言われた男性は次に怒りと恥ずかしさの混ざった赤になる。そしてフンッと颯太郎を睨んであっさり去って行った。 「あの……?」 ヘッドホンの男は困惑した顔をして颯太郎を見ている。ああ、と颯太郎は説明した。 「多分左腕の時計。狙われてましたよ」 「えっ」 驚いたヘッドホンの男性は、とても綺麗な顔をしていた。ファッションといい、ヴィジュアル系のバンドにいそうな整った顔は、次の瞬間、とても明るいオレンジ色に包まれる。 「本当ですかっ!? ありがとうございます! これ、すっごく大事にしてる時計なんですよ!」 狭い車内で、ぐい、と彼の顔が近付いた。颯太郎は後ずさりをする事ができず、思わず背中を反る。彼は颯太郎よりも少し背が高く、その威圧感に颯太郎は思わず顔を逸らした。 「そうでしたか。じゃあ、俺はこれで……」 目的の駅に着くところだったので降りようとすると、待って俺も、と開いたドアから二人ともホームへ降りた。 「あ、ここで降りるって事はもしかして大学生?」 ホームを歩き出した颯太郎に、ヘッドホンの男性は付いてくる。彼の色は先程より濃いオレンジ色になっていて、表情も楽しそうだ。 しかし人付き合いが苦手な颯太郎にとって、付いてくる彼は邪魔だった。無言で足を早めると、あ、おい、とやっぱり付いてくる。 「……何ですか?」 駅から出たところで鬱陶しくなって足を止めると、ヘッドホンの彼はニッコリ笑って「お礼させて」と言ってくる。 「……いらないです。スられたならともかく、未遂だった訳だし」 そう言って颯太郎はまた、足を進めた。ヘッドホンの彼はしつこく隣りに付いて歩き、キャンパス内に入っても付いてきた。 「未遂でも、俺の命同然の時計を守ってくれたんだから、あなたは命の恩人同然だ」 相変わらずずっとオレンジ色を纏っている彼は、表情も変わらずニコニコしている。普通なら、これだけ素っ気なくされたら、少しは気分を悪くするはずなのに、彼にはその兆しすらなかった。 (とんでもなく真っ直ぐな奴なのか、それともとんでもなく単純なのか) どっちかだな、と颯太郎はため息をつく。あまりにもしつこいので、お礼って何? と聞くと彼は笑って「何でも」と言うので、颯太郎はまたため息をついた。 「……それで俺が無茶を言ったらどうするんです?」 そこまで気が回らなかったのか、ヘッドホンの彼はあっ、と声をあげる。オレンジ色が少し薄くなったが、すぐにまた元の強さに戻った。 「うん。今すぐ死ね以外なら何でも」 「分かった」 颯太郎はそう言うと、ヘッドホンの男は目を輝かせた。またオレンジ色が濃くなり、これは前者だな、と颯太郎は息を吸う。 そして、ハッキリと彼に言った。 「だったら、付きまとわないでください」

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