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プロローグ

 科学者たちによってヒトゲノムが完全に解読され、その編集が合法となった世界。  太古は神として崇められ、近年では動物好きたちの羨望の的だった『獣人』が、ペットとして流通し始めていた。  だがまだ研究は実験段階を終えたばかりで、価格は一頭数千万ドルと、金持ちの道楽の域を出ない。  そんな中、等身大の培養カプセルの中で、『それ』は誕生を待っていた。  全裸の『それ』には、基本的な人間の五体の他に、人間にはない器官が備わっていた。  頭の上に、猫科独特の大きな三角耳。尾てい骨の付け根から、長い尻尾。毛並みは髪の色と同じ、ブルーグレイだ。やや長めの髪が、水の中で美しくたゆたう。  ――ゴボボ……。  透明な人工羊水の中に気泡が弾け、急速に水が抜けていくと、浮かんでいた身体が徐々に沈む。  閉じられた目尻は『猫目』というに相応しく切れ上がっていたが、長い睫毛が震えやがて開くと、ぱっちりと愛らしいライムグリーンの瞳だった。  完全に羊水がなくなると、あとにはペタリと尻をついてM字開脚する『それ』が残った。羞恥心は感じられない。ただぼんやりと、初めて見る景色に戸惑っている。その中心にある器官から、『それ』は『彼』であることが分かった。  無機的だった景色に、不意に有機物がカットインしてくる。四十歳前後とおぼしき、あまり身に着けた白衣の似合わない、痩せ型の男性だった。似合わないのは、風貌のせいだ。  大雑把に後ろに流されたサイドバックの黒髪は長い前髪が切れ長の目に降りかかり、研究者というには色が立ち過ぎる。  加えて、左頬から首筋にかけてうじゃじゃけた古傷があり、それはワイシャツの下まで続いているのだろうと想像出来た。  だが彼は培養カプセルのオープンボタンを押してから、凄みさえ感じる容姿からは想像も出来ない、優しい声音を出した。 「おはよう、ベンジャミン。この腐りきった世界へようこそ」 「ベン……ジャ?」 「ベンジャミン。お前の名前は、ベンジャミンだ」 「ベン、ジャミン」 「そうだ。良い子だ。おいで」  男性が右手を差し出した。その手の甲にも、古傷がある。  ベンジャミンが恐る恐るその手を取ると、グイと長身に引っ張り上げられた。バランスを崩し思わず男性に抱き付いてしまうと、彼は思いもかけない力強さでベンジャミンを抱き留める。濡れた素肌の肩に顔を埋めるようにして、囁いた。 「私のことは、ドクターと呼べ。お前は今日から、私のものだ」 「ドク……ター。ドクター。ベンジャミン、ドクターのもの……」 「そうだ」  顔を上げ、ベンジャミンは返しのある舌でドクターの左頬の古傷をひと舐めした。  ――ザリッ。  紙ヤスリを当てたような感触がする。それは、猫科獣の愛情表現のひとつだった。 「ベンジャミン、ドクターのものになる!」  ドクターは、ただ黙って目を細めた。そして、胸板に三角耳を擦り付けるベンジャミンの顎の下をかく。   「お前のことを待っているマスターたちが、沢山居る。まずは、お前のその姿と声で、マスターたちを癒やして差し上げろ」 「うん。俺、ドクターの為に頑張る。頑張ったら、ご褒美くれるか?」 「そうだな。耳の後ろをかいてやろう」  ベンジャミンはうっとりと目を閉じて愛撫に酔っていたから分からなかったが、そう言ったドクターの表情は、何処か陰りのあるものだった。  ゴロゴロと喉を鳴らすベンジャミンに、まずひとつ目のギフトとして、ドクターは鈴付きの首輪を贈ったのだった。

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