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1. Happy birthday to you

 ウミネコの鳴き声が、秋晴れの空で弧を描いている。ミャウミャウという音色はまさに『猫』で、海を知らなかったドクターは当初、それが頭上から聞こえることの不思議に首を傾げていた。  だがこの自然豊かな田舎町に住んで、もう十年だ。潮風の心地良い海岸に面したウッドデッキで、日記をつけるのがドクターの日課になっていた。万年筆の手を止めて、ドクターは長い前髪の隙間からウッドデッキ横の庭を眺める。  そこには、ヤブツバキ、ビワ、サンゴジュといった潮に耐性のある木々が植えられていて、ベンジャミンにとっても気に入りの場所になっていた。幹で爪を研ぎ、スルリと梢まで登って、赤く熟れたサンゴジュの実の香りを注意深く嗅いでいる。 「ベンジャミン。その実は、食べられないぞ」  もう何度目になるか、ドクターは微かに苦笑しながら注意した。  数日前に生まれたばかりのベンジャミンは、見るもの全てに興味津々で、目を離すと何をするか分からない。  ドクターの声を聞いたベンジャミンは、サンゴジュの実から顔を上げて、ニッと歯を見せた。糸切り歯が、八重歯のように尖っている。 「ドクター、良い景色だぞ~!」  その弾んだ声には、言外に一緒に見たいという願望が含まれていた。これも何度目になるか、ドクターは切れ長の目を細める。 「良かったな。私は登れないから、何が見えるか教えてくれ」 「え~っと……デッカい水たまり!」 「海、だ」 「あと、俺と鳴き声の似た、白黒のやつ」 「それは、ウミネコという」 「あと、茶色いもふもふした毛玉」 「ん……犬だろうか。海岸が散歩コースの犬は多いからな」 「ドクター物知りだな!」 「ベンジャミン。サンゴジュの実は食べられないぞ」  男所帯にまたひとりベンジャミンが加わってからは、日がな一日、そんな調子で時間は過ぎていく。  何もかも効率化された二〇七一年において、そこはまるで二十世紀初頭で時を止めたような、だだっ広い木造の平屋だった。  十年前からこの家に住み始め、寝食を惜しんで理想とするペットの創造に人生を捧げてきたドクターの研究が結晶したのが、ベンジャミンだ。  ここ数日、ドクターは彼に振り回されっぱなしだった。サンゴジュの実を食べないように言い含め、あまり上まで登ると枝が折れることを教え込み、カウチで爪を研いではいけないとルールを作る。  まるで母親だ、とドクターは小さく吐息する。この数日で彼は、世の子どもを持つ親たちをいたく尊敬するようになっていた。  せわしなく木々の上を移動していたベンジャミンだが、小さな打楽器の音を大きな三角耳で鋭くとらえると、樹上からドクターの方をジッと見詰める。そのライムグリーンの大きな瞳には、新しいものへの好奇心が爛々と光っていた。  三メートルほどの高さから、体重を感じさせず身軽にウッドデッキまで大ジャンプする。着地する時シャン、と鈴が音を立て、ドクターは顔を上げた。  先ほどまで高みから自分を見下ろしていたベンジャミンが、木製のテーブルの下に立て膝をつき、手元を覗き込んでいることに驚く。 (これほどの身体能力とは……) 「これ、何だ?」  だがベンジャミンの無邪気な問いに、現実に引き戻される。 (ああ、しまった。夕食のあと、ケーキと一緒に贈る予定だったのに)  ドクターは数瞬、心の中でそう嘆いたが、その予定は家主のアルが立てたものだ。アルが仕事を終えてから、夕食前にラッピングすると言っていた。  しかしベンジャミンは止まりかかって微かに音を発しているそれを、ちょいちょいと拳でいじって確かめている。興奮している証拠に、黒い瞳孔が真円に開いていた。  彼は、人間の子どもとは違うのだ。十分に楽しんでいるのが見て取れて、ドクターは種明かしをしてしまおうと考えた。 「ベンジャミン」 「何だ?」 「見ていろ」  そう言って、小さな木製の四角を押さえ、横に突き出たレバーをつまんでネジを巻く。メロディーが流れ出した。『Happy birthday to you』の旋律だった。  ドクターは深いバリトンで、鼻歌交じりにハミングする。 ベンジャミンは、その古ぼけた四角とドクターの顔を何往復も見比べて、長い尻尾をピン! と立てていた。猫が尻尾を立てるのは、機嫌の良い時だ。 「ドクター、何だそれ! すっごく楽しい!」 「これは、オルゴール。メロディを奏でる。曲は、『Happy birthday to you』だ」 「お誕生日おめでとう?」 「そうだ。誕生の記念として、私はお前に、首輪とピアスを贈った。これは、アルからのプレゼントだ。彼が生まれた時に、両親から贈られたものらしい」 「アルにも、アルのドクターが居たってことか?」 「ああ……人間は、ベンジャミンみたいに培養カプセルからは生まれない。父と母が居て、母親の胎内で育って生まれる」 「へええ……! 人間って凄いな!」 「そうだな。大切な品を貰うのだから、あとできちんと礼を言うんだぞ」 「うん! 分かった」  その時、猫の鳴き声が聞こえた。その去勢した雄猫特有の高い音階は、腹が空くとこのウッドデッキの置き餌を食べにくる、ラックだった。黒猫の『Black』から『B』を足りなくして『Lack』、転じて『Luck』と名付けられた通い猫だった。  ラックは、ひょいとウッドデッキに乗ってきて、ひと声鳴いた。ベンジャミンとは誕生初日に挨拶を済ませていて、相性が良い。  今日は腹が減ったというわけでなくベンジャミンに会いに来たようで、二人は鼻先を合わせて『猫のごきげんよう』をした。  そのままラックは籐で編まれたカウチに乗って、昼寝をしようとベンジャミンを誘う。それに応えて、ベンジャミンは腹にラックを抱き込むようにして、横たわった。二人分のゴロゴロが、耳に心地良い。  古いオルゴールはすぐにネジが切れて、止まってしまう。ベンジャミンが、甘えた声を出した。 「ドクター。オルゴール、もっと聞きたい」  その言葉に、ドクターは何か言いたそうに薄い唇を開きかけたが、結局何も発さずに小さく笑った。苦笑ではなかった。それはほんの僅かなほころびだったが、十年目にして初めて、ドクターには春の季節が巡ってきたのかもしれない。  オルゴールが三回鳴り終わった頃、ベンジャミンは幸せそうに腹を見せてカウチの上で眠りについた。身を寄せ合って眠る二人に肌掛けをかけてやり、ドクターはその寝顔を覗き込んで、少し切なげに微笑んだ。

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