5 / 8

2. ただいま

 夕暮れが近付く秋の空は、仄かにオレンジ色に染まっている。ウミネコたちはねぐらに帰り、辺りには微かな波音だけが響いていた。その不規則な音の連続は、睡眠導入に最適だという。  ウッドデッキのカウチで、それを体現している人物がいた。仰向けに横になった身体はひょろ長く、スニーカーを履いた足の方がカウチからはみ出している。ゆうに百八十センチは超えるだろう。  ジーンズにラフなカラーシャツを羽織り、顔の上にハードカバーの本を載せている。軽いいびきが聴いて取れた。 「アル!」 「ごふっ」  その腹に、ブルーグレイの爆弾が落ちてくる。ベンジャミンだった。  元々アルの気に入りの昼寝場所だったそのカウチを、ベンジャミンも気に入ったようで、しばしばこういった光景が見られるようになっていた。  本が顔の上から床に落ちて、アルは眼鏡をかけた寝ぼけまなこをシパシパさせる。くせ毛の金髪に碧眼の、二十代の男性だった。  ベンジャミンは、カウチを譲って欲しいのと甘えたいのが一緒くたになっているらしく、アルの薄い腹筋をふみふみと両手で押しては鼻先を埋めている。 「ベンジー~~~……」  恨めしそうな声を出してから、アルは口元を押さえて大欠伸をした。  アルは、この家の家主だ。両親から家と家業を引き継ぎ、この田舎町で一軒きりの、獣医をやっている。家畜の往診からペットの預かり、最近では母数は少ないが獣人の診察も行っていた。  獣人は基本的な作りは人間と変わらないが、種類によって違う特性を持っているため、医師としての腕が問われるところだ。幼い頃から両親の仕事を手伝い、十六歳で独り立ちしたアルは、すでに十二年目のベテランになる。  町の住民は彼を頼りにしており、家畜の出産などで深夜に往診することも多い。その為、寝られる時に寝溜めするのがアルの習慣になっていた。  そんな彼を叩き起こしておいて、ベンジャミンは無邪気にアルの腹に甘えている。それは母親の乳房を押してミルクの出を良くする為の動きで、母親のいないベンジャミンにも、本能として備わっているのだった。  長く尾を引く欠伸を終えると、アルは声に出して嘆きの溜め息をつきながら、ベンジャミンの頭をポンポンと撫でる。  ベンジャミンとカウチの奪い合いをする事はよくあるが、本気で怒るような真似はしないのが穏やかな彼らしい。  ベンジャミンは言わば、生まれたての赤ん坊のようなものだ。基本となる言語や生活習慣はあらかじめインプットされているが、それを『実体験』して『経験』として『獲得』していく事によってのみ、成長できる。  アルはもうひとつ欠伸をかみ殺しながら、彼に問いかけた。 「ベンジー」 「ん~?」 「寝てる時に起こされたら、どう思う?」 「ご飯の時間かなって思う!」 「ハァ……そうきたか」  アルは眉間にしわを寄せ、そのしわを押さえるように指先を額に当てた。 「じゃあ……すっごく疲れてて、とっても眠い時に、めっちゃ乱暴に起こされたらどう思う?」 「おやつくれなきゃ、かみ付いてやるって思う!」 「そうだよな」  そう応えると、アルはおもむろに腹を押しているベンジャミンの左手首をつかみ取り、その指に甘くかみ付いた。 「いてっ。何するんだよ、アル!」 「そういう事だ、ベンジー」 「……ん? どういう事だ?」 「君は今、かみ付かれたんだよ、ベンジー」 「うん」 「その前に、何をしたか覚えてる?」 「アルに撫でて貰った」 「惜しい。そのもう少し前」 「ん~……あっ!」  眉尻と尻尾を下げて、ベンジャミンは申し訳なさそうな顔をする。 「ひょっとして……すっごく疲れてて、とっても眠かった?」 「正解」 「ご、ごめ……」 「ああ、良いんだよ。ベンジー。次から気を付ければね」  泣きそうに大きな猫目を潤ませるのを見て、アルは再度、三角耳のあるブルーグレイの頭をわしわしと撫でる。 「ごめんね。アル」 「ん。でも起きてる時の、君とのカウチ争奪戦は楽しんでるから、しょげないでくれると嬉しい。……今日は、一緒に寝る?」 「良いの!?」  ベンジャミンはパッと顔を輝かせ、長い尻尾をピンと立てた。その言葉以上に雄弁に気分を物語るベンジャミンの尻尾に、アルは可笑しそうに微笑んだ。  細い背中を背もたれにつけ、腹側にスペースを空ける。そこを手のひらで示すと、ベンジャミンはまるでチェス盤の上を歩く猫のように、注意深く空いたスペースに長く伸びてぴったりとはまった。  秋の日暮れは、少し肌寒い。ベンジャミンは、伝わる肌の暖かさに、ゴロゴロと喉を鳴らした。  ポッと、明度感知式のランプが点いて、ウッドデッキを柔らかく照らす。  少しあってから、ウッドデッキに続くリビングの窓が開いた。 「……何をやっているんだ」  キュウキュウに引っ付いてカウチで眠る二人を見付け、ドクターは呆れた声を出す。  ベンジャミンが嬉しそうに提案した。 「ドクターも、一緒に寝るか? みんなでくっついたら、きっともっと幸せだぞ~」  アルが、くつくつと笑いながら調子を合わせる。 「名案だ、ベンジー」 「な!」  ドクターは、視線を落として大仰に溜め息をついた。ベンジャミンが誕生してから、この十年間の空白を取り戻すように、感情が生まれ動いている事に彼は気付いているだろうか。  十年を共にしたアルは、如実にそれを感じていた。それが嬉しくもあり、自分には与えられなかった感情の揺らぎを生まれたばかりのベンジャミンが与えている事に、少し妬いてみたりもする。けして口には出さなかったが。 「何処に私の入る隙間があるんだ。ベンジャミンが真に受けるから、あまり人をからかうな、アル」  不真面目そうなルックスなのにその実、根が真面目なドクターは、苦情を上げる。そして本題を切り出した。 「夕食はどうなってるんだ、アル。朝も昼もシリアルだったから、夕食ぐらいお前の手作りが食べたいのだが」 「俺も、朝も昼もキャットフードだった。アルのご飯、食べたい!」  その時、ベンジャミンの腹が盛大に鳴った。『ご飯』という言葉にペットが敏感に反応するのは獣人も同じなようで、ドクターとアルは目を見交わして小さく吹き出す。  ようやくアルは上半身を起こし、両拳を上げて大きく伸びをした。 「昼休みに、カブとミートボールのトマト煮を仕込んでおいたから、今ごろ味が染み染みになってる。温めるだけで食べられるよ」 「やった! アルのご飯、大好き!」  現金なもので、ベンジャミンも起き上がり、アルの頬をひと舐めした。  ドクターは、二人を手招く。 「夕食にしよう。さっき、入院だった犬をご婦人が迎えに来たから、久しぶりに揃ってゆっくり食べられる」  それは、アルにとって意外な言葉だった。入院の動物が居ると、どちらか一人は当番制でこまめに様子を確認しているので、ドクターとアルがゆっくり食事を摂ったのはベンジャミンが生まれる前だった。  彼がそれに不満を漏らした事はなかったから、てっきり二人――今は三人――で摂る食事など、重要視していないと思っていたのだ。ベンジャミンの誕生が、何もかもをスムーズに動かしていると思えた。 「ほ」  アルは思わず、安堵のかたまりのような一音をこぼす。ドクターが聞きとがめた。 「ほ?」 「いや。何でもない。みんなで夕食にしよう」  三人揃って、家に入る。自宅が仕事場でもあるから『帰る』という表現は当てはまらない筈なのだが、トマト煮の香りがキッチンに立ちこめる頃、アルは『帰ってきた』事を強く意識するのだった。

ともだちにシェアしよう!