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第一章【1】

 春は始まりの季節。  始業式を終え、帰っていく生徒たちを職員室から眺めながら、矢神はふとそんなことをぼんやり考える。  生徒たちは今日から新学期を迎えていた。  今年度のクラス担任を受け持つことがなかった矢神は、少しだけ時間を持て余していたのだ。  六年教師を務め、三年間同じクラスの担任を受け持ち、矢神にとって自信を持ってもおかしくない時期だった。  しかし、内心はクラス担任を任されなくて良かったと安心していた。  今の自分がクラスをまとめられるわけがない。  クラス全員を卒業させることができなかった。そのことが矢神の頭から離れることはない。  自分の生徒を退学させてからというもの、上の空でいることが多く、集中力に欠けていると実感していた。  あの日も酔い潰れたせいで、朝起きた時には前夜の記憶が全くなかったのだ。  どうやってホテルに行ったのか、一人ではなく相手がいたのか、まるで覚えていない。  思い出そうとしても、慣れない酒が残っていて頭痛だけが矢神を襲ったのだ。  こんな軽率な行動は珍しいことだった。  自分が校長だったら、この教師には任せたくない。  実際のところはわからなかったが、今回はクラス担任を外されたと矢神は思っていた。 「矢神先生、お疲れ様です」  ふいに声を掛けられ、その声の主の方を振り向いた。  クラス担任を受け持っている教師が次々と職員室に戻ってくる中、遠野だけが矢神の机の前まで来て満面の笑みを浮かべている。 「……お疲れ、さま……」  不思議に思いながらも返事を返すと、更に笑みを深め、言葉を続けた。 「びっくりしました。二年になった途端、生徒たちが急に大人びて見えて、オレ、どうしたらいいですかね?」 「どうしたらって……」 「一年の時は何とか担任を務めることができましたけど、これから不安ですよ」  明るい声とは裏腹に、少し心配を抱えているような表情にも見えた。  遠野は昨年と同じクラスの担任を受け持つことになり、二年目ということで戸惑っているようだった。  先輩としてアドバイスするべきなのかもしれないと思ったが、すぐにその考えは頭の中で打ち消される。 「遠野先生らしくやればいいんじゃないですか」  ものすごく適当な言葉を並べて矢神は言った。 「オレらしくですか?」 「そう」 「オレらしくって、どんなんですかね」  適当ではあったが、自分の言った言葉で話が終わると思っていた。だから、遠野が話を続けたことに頭を抱えたくなった。 「いつものように明るく生徒と接すればいいと思うけど……」  とにかく面倒で、ぱっと思ったことを口にした。  すると、遠野はすごく嬉しそうに照れたように笑って言う。 「矢神先生はオレのこと、そんな風に思ってくれてるんですね」 「は?」  突然話題が変わったような気がして、遠野の顔をまじまじと見てしまった。 「オレ、明るいですか?」 「ああ、うん……」 「そうですか」  遠野は笑顔のまま、なおも矢神の傍から離れようとはしない。  褒めたつもりはなかったが、どこまでポジティブ思考なのだろうかと思った。  どちらかというと矢神は、ネガティブな思考の持ち主だったから、こういうところが合わないと感じていた。  一向に動く様子のない遠野に矢神は言った。 「遠野先生、二年の担任はこれから打ち合わせでしたよね?」 「よく知ってますね」  普通は把握しているだろうと思ったが、あえて口に出すことはしなかった。  もう話すこともないだろうと机に視線を戻すと、再び名前を呼ばれる。 「矢神先生」 「なんですか?」  まだ用事があるのだろうかと、矢神の表情には迷惑というのが出ていたに違いない。  しかし、遠野の方はそんなことは気にもせず、言葉を繋げた。 「今日の夜、予定ありますか? 新学期も始まったことですし、頑張ろう会しませんか?」 「がんばろうかい?」 「ただの食事なんですけどね」 「ああ、食事ね……」  一瞬どうしようかと頭を悩ませていると、遠野に呼び出しが入る。 「遠野先生、打ち合わせの時間ですよ」  声を掛けてきたのは、遠野と同じく二年の担任を受け持つことになっている嘉村だった。 「今、行きます。あっ、嘉村先生も一緒に食事どうですか?」  遠野が嘉村に誘いを掛けると、矢神の方をちらっと視線を移してきた。その為、目が合ってしまう。  何か言われるかと身構えていれば、すぐに遠野の方に視線を戻した。 「予定があるんで」  嘉村はそう一言呟いて、職員室から出て行った。  矢神は、密かに安堵の溜め息を吐いていた。  自分の中では終わったことだと処理していたが、最近は用事がない限り、ずっと嘉村のことを避け続けている。  憎んでいることはなかった。これでも割り切っているつもりだった。  だが、喋りが得意な方ではなかったから、何を話せばいいのかわからずにいた。  今までは普通に話していたこと全てが、自分たちの地雷になるような気がして頭の中が混乱するのだ。 「最近、嘉村先生、忙しそうですよね」 「そうだな……」  矢神が嘉村と距離を置いてからは、三人で食事に行くこともなくなった。遠野は不思議に感じているのかもしれない。  食事に行く時は、決まって嘉村が矢神を誘っていた。滅多なことがない限り、矢神から誘うことはない。  遠野と食事に行くようになったのは、誘わないのは悪いような気がした矢神が、何となく声を掛けたのがきっかけだった。  それからはずっと、食事に行く時は嘉村が矢神を誘い、矢神が遠野に声を掛けるというパターンになっていた。  だから、遠野から食事に誘われるのは珍しいことではあったのだ。 「あ、矢神先生」  遠野が更に話を続けようとしたので、矢神は自分の腕時計をトントンと指差しながら言った。 「行かないとやばいんじゃないの?」 「そうなんですけど、今日の夜、二人じゃダメですか?」 「え?」 「嫌ですか?」  遠野の表情が困ったように曇ったのを感じた。 「嫌では……」  本音を言うと、遠野と二人で話をするのは疲れるから苦手だった。  嘉村と三人なら遠野の相手を全て自分が受けなくていいのだが。  しかし、前回も遠野の誘いを断っている。そのことが脳裏を過った。  あの時は精神的にまいっていたから仕方がないとして、あまりにも何度も誘いを断るのも悪い気がした。  遠野のことは苦手だが、嫌いではないのだ。 「いいよ、どうせ予定ないし……」  矢神の答えに、遠野の表情は一気に明るくなる。 「良かった。じゃあ、楽しみにしてます」  嬉しそうに笑った遠野は、まるでスキップするかのように軽やかに職員室を出て行った。  男と食事するのを楽しみにされても困る。

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