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第一章【15】

「すげえ、ごちそうだな……どしたの、これ」 「お祝いです。矢神さんが二年の担任になるので」  遠野はにこやかに、大皿に乗ったサラダや揚げ物などを次から次へとテーブルに運ぶ。 「お祝いって、祝うことでもないだろ。それに担任に就くのは二学期からだよ」  大げさすぎる遠野の行いに若干呆れていれば、子どものように目を輝かせて満面な笑みを浮かべる。 「オレはすごく嬉しいですよ。同じ二年の担任で心強いです。頼りにしてますよ、矢神先生!」 「無理難題押し付けんなよ……」  日向に会ってから、一週間が経っていた。  矢神は、二年の担任を受け持つことを決意し、今日、正式に校長に話をしたのだ。  校長は矢神の答えを聞いた後、すぐに職員室に足を進め、皆にそのことを報告した。職員室にいた教員は、なぜか拍手をし、ほっとしたような安堵の表情を浮かべていた。  嘉村はというと、 「ここまで来るのに随分時間がかかりましたね。みんな、矢神先生の優柔不断さにやきもきしてましたよ」  と、嫌味を並べた後、 「まあ、同じ二年の担任なんで、よろしくお願いします」  そう、表情を変えずに言った。  言い方はあまりいいものではなかったが、たぶん他の皆と同じく嘉村も、二年A組の担任がどうなるのかと心配していたのだろう。  矢神の迷いが晴れたのは、日向と会って話をしたことが大きい。  彼の笑顔を見た時、自分に何ができるかわからないけれど、もっと生徒の力になって皆を笑顔にしてやりたいと強く思った。そして、改めて教師という仕事が好きなんだと実感したのだ。  単純だろうけど、人というのは何かのきっかけで、案外簡単に立ち直ることができるものなのかもしれない。 「これで生徒たちも安心してくれますね。榊原先生が辞めるって聞いた時、泣いている生徒もいましたから」 「だろうなあ。後任がオレだって聞いて、生徒が泣いたっていうのも聞いた」 「そんなことあるわけないじゃないですか」  遠野の聞いたことのない真剣な声色に少し驚いた。 「あるんだよ。オレは榊原先生みたいに優しくないからね」  まだ経験が少ないからなのか、榊原先生のように厳しい指導をしても受け止め方が全く違うのだ。 「矢神さんは優しいですよ。厳しくするのは、その人のことを思っているから厳しんですよね? オレ、知ってます」 「……あっそ」 「矢神さんのことあまり知らない生徒は、怖いっていうイメージがあるみたいですよね。でも、担任になったクラスの生徒は、矢神さんのことすごく慕ってますよ。日向くんとかもそうでした。矢神さん、一生懸命だから、それが伝わるんでしょうね」  遠野のわかったような口ぶりに、少しだけ苛立ちを覚える。 「なあ、何でおまえ、オレのことそんなにわかるわけ? オレでもわかんないのに、勝手なこと言うな」 「え? それは……」  急に照れたように俯き、「いつも見てますから」と小声で言った。  危険な話題を振ってしまったと、思わず固まってしまった。  おかしな雰囲気になる前に、話を変えなくてはいけない。  咄嗟に誤魔化すように笑い、話を逸らしてみた。 「と、とにかく、飯にしようぜ。腹減った」 「そうですね」  上手く話題が逸れたようで、再び遠野が皿を並べ始めたので、ほっとした。  相手は男。それでも、好かれていることに悪い気はしなかった。  この間のように抱きしめられたりするのはどうかと思うが、教師同士、普段通りの接し方ならば、何も問題はない。遠野の気持ちに対して、答えを出さないといけないわけでもないのだから。  それどころか、今回の後任のことを決意できたのは、日向を説得した遠野のおかげと言っても過言ではなかった。  日向が会いに来てくれなければ、勇気が持てず、たぶん後任を断っていただろう。もしかしたら、そのまま教師を辞めていたかもしれない。  遠野が矢神のために動いたかどうかははっきりしないが、それでも結果的には遠野のおかげなのだ。  お礼を言うべきではないだろうか。  矢神はそのことをずっと考えていた。 「今日は鶏ごぼうの炊き込みご飯にしてみました」  目の前に、ほかほかの炊き込みご飯が味噌汁と一緒に出された。  この食事だって、矢神のことを思って作ってくれているのだ。とても有難い。  矢神は一呼吸置き、意を決し言葉にすることにした。 「あの、ありが……」 「そうだ! 矢神さん、聞いてください!」 「と、え?」  遠野がその場でじたばたと足踏みするように、大きなリアクションをしながら話し始める。 「さっき、ペルシャにご飯あげようと思ったら、頭を触らせてくれたんですよ! いつもはそんなことを絶対にさせてくれないのに。すごいと思いませんか? ペルシャもオレのことを認めてくれたってことですよね」  大きな動作と勢いよく一気に喋る遠野に、唖然として思わずぽかんと口が開いてしまう。 「嬉しいなあ。これからもペルシャに気に入ってもらえるよう頑張りますよ、って、あれ? もしかして今、何か言いかけましたか?」 「……別に」  タイミングを失い、気恥ずかしくてもう一度その言葉を口にすることはできなかった。  遠野は全く気づいていないようで、矢神とは正反対に上機嫌のままだ。 「それじゃあ、冷めないうちにいただきましょう」 「いただきます」  すっかり遠野のペースに乗せられている矢神だった。しかし、慣れなのだろうか、最近ではそれも、案外嫌なものではないなと思い始めていた。遠野の料理を食べていると温かい気持ちになって、いろいろ悩んで考えるのもバカらしい気がしてくるのだ。 「漬物もどうぞ」 「うん」  もう少しだけ、このままでもいいかなって――。 「矢神さん、口にマヨネーズついてますよ」  遠野が笑いながら腕を伸ばし、人差し指で矢神の口元のマヨネーズを掬った。そして、その指を咥えてちゅっと吸い、へへっと笑う。  そのシーンがあることを連想させた。なぜか胸が熱くなるのを感じる。 「何か新婚――」 「そんなわけないっ!」  遠野の言葉を遮るように、矢神は大声を出した。  食事を作ってくれるこの状態が楽で、いくら心地よいからといって、馴染んではいけない。  頭を抱えて唸るように声を上げれば、遠野が心配そうな声をかけてくる。 「矢神さん、大丈夫ですか?」  このままでいいなんて思う方が間違っている。遠野に丸め込まれそうになっているだけだ。  遠野はどうであれ、男同士でどうにかなるなんて考えは矢神の中にはないのだ。 「からしマヨネーズサラダ、辛かったかな。矢神さんの好きな甘い玉子焼きも作りました。こっちを食べてください」  顔を上げれば、ふんわり微笑んだ遠野が、目の前にあったサラダと玉子焼きが乗った皿を交換した。  サラダのことではないのに、遠野は勘違いしている。 「いいよ、サラダも食べる」  奪い取るように皿を取り、サラダを無造作に頬張った。  遠野に悪気はない。だからこそ、安易に心を許してはいけない。 「今度はもう少し辛味を抑えますね」  あの一瞬、矢神は自分自身がわからなくなった。  危なく戻ってこられない場所に行き着きそうになって、怖かったのだ。

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