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第二章【5】

 本格的に熱が上がってきたのか、矢神が家に帰る頃には寒気に襲われ、身体の震えが止まらなかった。何とか震えを治めようと自分の両腕を抱くが、まるで意味がない。  そのままふらふらと自分の部屋に足を進め、ベッドに腰をかけた。 「矢神さん、大丈夫ですか?」  不安そうな顔をして、遠野が矢神の傍に来た。喋るのも辛くて、大丈夫というように頷いてジャケットを脱ごうとすれば、手を貸してくれる。 「悪い……」  遠野は脱がしたジャケットをハンガーにかけた後、再び矢神の傍に来て手を伸ばしてくる。具合が悪くて即座に反応できなかったが、遠野はネクタイを緩め始めたのだ。 「……何してんだ」  手を払いのければ、にっこり笑って言う。 「着替えた方が楽ですよ」 「わかってる。一人で着替えられるから」 「でも……」  唇を尖らしながら、今度は首の後ろに手を当ててくる。そして、ぐいっと顔を近づけてきた。思わず目を瞑ってしまう。  その瞬間、矢神の額に遠野の額がくっついた。 「さっきよりも、すごく熱いです」 「おまえ、近いよ。うつるだろ」  あまり力が入らない手で、遠野の胸を押して身体を離した。 「大丈夫です。ほら、何とかは風邪ひかないって」  何か嬉しそうにへらへらと笑っている。 「ああ」  いい加減に返事を返すと、遠野は納得しないような表情をする。 「ひどい、矢神さん、そこは『そんなことないよ』って言ってくださいよ」 「めんどくせーな……」  ため息をついて、頭をかきむしった。遠野のせいで、もっと熱が上がりそうな気がしていた。 「熱測った方がいいですよね。体温計ありますか?」 「いいよ、測らなくて……」 「どうしてですか」  不思議そうに首を傾げる遠野に、矢神は言いにくそうに口にする。 「測ってみて本当に熱があったら、余計に具合悪くなる……」 「子どもみたいなこと言わないでください」  若干呆れたような顔をした遠野に、矢神の頬は更に熱くなった。 「うるさいな。寝たら治るよ。オレのことは放っておけ」  そのままベッドに潜り込めば、遠野が騒ぎ立てる。 「ダメですよ、着替えてください。ご飯もしっかり食べないと!」 「おまえが向こうに行ったら着替えるよ。ご飯は食べたくないからいらない」 「何か食べないと治りませんよ。オレ、お粥作ります」  布団をめくり、矢神は顔を出す。 「お粥は好きじゃない。飯を食わなくてもすぐに治るんだ。だから、気にするな。オレは寝る」  あまりにも騒がしいので、拒絶するように言葉を並べた。  だが、遠野はそう簡単には引き下がらなかった。 「どうしてお粥好きじゃないんですか?」 「……味気ないだろ」 「白がゆが苦手なら、お味噌で味付けしますよ。卵も入れます。卵、好きですよね?」 「好きだけど……」  矢神の言葉に、一気に遠野は上機嫌になる。 「じゃあ決まりですね。すぐ作ってきますので、それまで休んでてください」  浮き浮きとした様子で遠野が部屋を出ていく。何がそんなに楽しいのか、矢神には全く理解できなかった。  しばらくの間、矢神は布団をかけても寒くて寝られずにいた。だが、どのくらい時間が過ぎたのだろうのか。いつの間にか眠りに落ちていたようだった。遠野の呼ぶ声で目が覚める。 「矢神さん、できましたよ」  器を乗せたお盆を持っていた遠野は、優しい眼差しでこちらを見つめていた。 「……うん」  身体を起こすと、熱のせいなのか身体の節々が痛かった。思わず顔をしかめれば、すぐに遠野が反応する。 「どこか痛いんですか?」 「大丈夫だって……」 「何かあったら言ってくださいね。オレ、すぐ病院に連れて行きますから」 「大げさだな、子どもじゃないんだから」  呆れるように言えば、遠野が口元を緩めて笑う。 「子どもですよ。熱測りたくないとか、わがまま言って」 「……おまえ、今日は生意気だな」 「矢神さんが熱を軽く見てるから、ちょっと腹が立ったんです。もっと自分の身体を大切にしてください」 「わかったよ……」  いつもとは反対で、矢神が遠野に説教されるという状態だ。正当な意見だから、矢神も言い返せない。あまり深く考えていないような遠野が、そんなことを言い出すとは思わなかったから、半ば驚いていた。 「ご飯食べて、早く元気になってください」  遠野はお盆をサイドテーブルに置いた後、椅子をベッドに近づけてきた。そして、お粥を盛った器を矢神に渡すかと思いきや、そのまま椅子に座ったのだ。スプーンでお粥をすくい、ふうふうと冷ますように息を吹きかけている。矢神は嫌な予感がした。 「遠野……」  言葉を続ける前に、遠野がそのスプーンを矢神の口元に持って行く。 「はい、あーん」 「おまえ、これがやりたかっただけだろ」 「ダメですか?」 「ダメだよ、バカ」 「えー、いいじゃないですか、一口くらい。憧れてたのに」  予想通りの馬鹿げた行動。普段なら軽く受け流していたかもしれない。だが、体調が悪いせいか、すぐに頭に血が上ってしまった。 「だから、浮かれてたんだな。もういい、あっち行け! オレに構うな!」  またベッドに潜り込もうとすれば、遠野が慌てふためく。 「わわっ、ごめんなさい。お粥だけは食べてください、矢神さーん」 「おまえの趣味に付き合ってられるか!」 「許してください。『あーん』は、もうしませんから、食べてください。矢神さん、ごめんなさい」  遠野は、本当に悪かったというように何度も謝ってきた。  面倒だから、そのまま無視を決め込んでいたかった。しかし、理由がどうであれ、具合いの悪い矢神のために遠野はお粥を作ってくれたのだ。落ち込んだような声を聞いているうちに、食べない自分の方が悪者だと感じた。矢神はゆっくりと起き上がる。 「もったいないから、お粥は食べてやる。食ったら寝るぞ」 「はい」  はしゃぐような声で返事をした遠野から、お粥が入った器を受け取った。 「熱いですから、ふうふうしてくださいね」 「わかってるよ!」  幼いころ、風邪で熱が出るたびに、母親はお粥を作ってくれた。梅干しをひとつ乗せるのをいつも忘れない。  風邪の時は食欲が落ちるから、食べやすいようにお粥を作ってくれるのだろうけど、ごはんの味しかしないお粥は、子どもの矢神にとっては美味しい食べ物ではなかった。しかも食欲がないのに、治らないからと言われ、無理してでも食べなくてはいけなかった。そのせいで、お粥は好んで食べなくなる。  だから、この時、久しぶりにお粥を口にしたのだ。遠野の作ったお粥は、味付けしてあるからなのか、幼いころ味わったものとはかなり違った。  味噌風味でとても優しい味だ。生姜にネギも入っていて身体が温まる。卵でとじてあるから食べやすく、食欲がなかったのが嘘のように、不思議とするすると入っていった。 「どうですか?」 「……悪くない」  矢神は何となく、素直に美味しいと口にすることができなかった。それでも遠野は、嬉しそうに笑うのだ。 「良かったです」  どこまでも、人がいい奴なのだろうか。    食事を終えると、遠野は額に貼る冷却シートや氷枕などを目の前に広げた。 「そんなの、うちにあったか?」 「さっき、コンビニで買ってきたんです。使いますよね?」 「……なんか、大げさだな。だいぶ楽になってきたけど」  矢神は、自分の額に手を当ててみると、そんなに熱くないように感じた。しかし、遠野は見たことない怖い表情をする。 「何言っているんですか! 熱は夜に出るんです。これからが危険なんですよ!」 「……そ、そうなんだ」  あまりの剣幕に、矢神は若干引いてしまう。だけど、遠野が心配してくれているのはわかっていた。 「じゃあ、この冷却シートだけ貼って寝るよ」  冷却シートを額に貼り、矢神はベッドに横になった。でも遠野は、なぜか椅子に座ったまま動かない。 「何してんの? もういいよ。おまえ、飯食ってないだろ」 「矢神さんが寝るまで傍にいます」 「……だから、オレは子どもじゃないって」 「オレが、矢神さんの傍にいたいんです」  静かに微笑む遠野に、矢神はそれ以上何も言えなかった。とにかく眠ろうと目を瞑ってみるが、遠野のことが気になってしまう。  何か喋ってくれればいいものの、これから寝ようとする相手に話しかけてくるわけがなかった。  どうにも居心地が悪くて、遠野に背を向けた。そして頭まで布団をかぶり、顔を隠したのだ。  一人暮らしをしていて、こんな風に調子が悪くなると、普段はあまり感じないのに、無性に寂しくなることがあった。動くのも辛いから病院にも行かず、ベッドに寝転がったままで、食べ物もほとんど口にしない。苦しくて辛くて、このまま孤独に死んでしまうのだろうかと、そんな悪い方向に考えたりもした。  だから今、一人じゃないことにほっとしている。他人と住む、遠野と一緒に住むということは、自分のリズムが崩れるから鬱陶しいと思っていたのに。世話になるつもりはなくても、傍にいてくれるだけで不安がなくなるのだ。  ――ありがとう、遠野。  矢神は心の中で、そう小さく呟くのだった。

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