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第三章【4】

 休みの日、遠野と矢神は各々自分のやりたいことをやって過ごす。  食事は共にするが、それ以外は一緒にいることは少なかった。  その日も各部屋で過ごしていたが、珍しく矢神が遠野の部屋を訪ねた。 「なあ、昼飯、外で食わないか?」 「いいですね」  遠野の部屋は、物が辺りに散らばり、引っ越して来た時のようにダンボールが山になっている。部屋の片付けをしているようだった。  整理整頓は苦手らしく、部屋の中はいつも散らかっていたから、矢神は片づけろと何度も言っていた。  自分の部屋なのだから好きにすればいいのだが、目に入るとどうしても口うるさくなってしまう。 「やっとやる気になったか」 「はい。来月には引っ越すので荷物少なくしておこうかなと思って」 「引っ越し? 誰の?」 「オレです」 「引っ越し資金貯まったのか?」 「まだですけど、良さそうなところが見つかったので。敷金礼金なしで家賃も格安なんですよ。こんな感じです」  携帯電話を取り出した遠野が嬉々として画面を矢神に見せてきた。 「待て、待て、本当におまえ、ここに住む気か? かなり古そうだし、なんか出そうだろ」 「出るって、幽霊とかですか?」  建物と部屋の写真を数枚見せてもらったが、築年数が経っているからなのか、外見はもろお化け屋敷状態だ。部屋も日当たりが悪そうで薄暗い。 「オレ、幽霊とか気にしないですけど」  ぽかんとした表情でいる遠野は、矢神が思っているほど深く考えていないようだ。 「こんな部屋で身体が休まるか?」 「家帰っても寝るだけですよ」 「ここ、キッチンも狭いぞ。自炊しにくいだろ」  料理が上手なのに、これでは美味しい料理を披露できないではないだろうか。 「風呂とトイレは別の方がいいんじゃないか? 身体でかいんだし」  遠野の携帯電話を奪い、何枚もの写真を見ながらあれこれ言った。すると、珍しく不貞腐れた声を出す。 「もう、なんでそんなことばかり言うんですか」 「おまえがいい加減だからだ」 「でも、早く出てった方がいいですよね?」  確かに早く出て行ってくれた方が、快適な一人暮らしが舞い戻ってくる。だが、後輩の教師がおかしな部屋に住むのは黙って見ていられなかった。  それに、出て行ったら遠野の手料理が食べられなくなる。それが少し残念に思えた。 「引っ越し資金貯めてからでいいって言っただろ」 「それまで眞由美さん待てますか?」 「眞由美? なんであいつの名前が出てくるんだよ」 「この家で一緒に住むんですよね?」 「はぁ!?」 「元は、眞由美さんと住むためにここ借りたって言ってたじゃないですか」  なぜ、遠野は自分の情報をこんなにも知っているのかわからなかった。そして、次の言葉を聞いて一瞬思考が止まった。 「よりを戻したんですから、一緒に住むんですよね? もう、結婚の話とか進んでるんですか」 「……なんで、より戻したことになってんだよ」 「これからですか?」 「眞由美とは終わってるんだ」 「でも、眞由美さんは、まだ矢神さんのこと好きだと思いますよ」  この間から遠野の様子がおかしかったのも、眞由美とのことを勘違いしていたからなのだろう。 「眞由美とはよりを戻す気はない」 「そうなんですか? あんなに仲良さそうにしてたから、オレはてっきり」  あれからしばらく、眞由美は家に来ていなかった。  この間、おかしな雰囲気になったあげく、冷たい態度で傷つけたのだから、あたりまえだろう。  きちんと話し合いをすればいいのに、後回しにしていたのが悪いのだ。  このままはっきりしない状態では良くないとも思う。  だが、嘉村の話では、複数の男性と関係を持っていたようだし、今頃、愛想を尽かして他にいっている可能性もある。  それならそれでいい。元々、眞由美とどうこうなるつもりはなかったのだから。  今は、遠野に気を遣わせてしまったことの方が気に病んだ。 「引っ越しのこと、もう少ししっかり考えろよ。オレは、こんなお化け屋敷には遊びに行きたくないな」 「え? 矢神さん、オレの家に来てくれるんですか?」  こぼれるような笑みを見せられ、動揺した。 「た、例え話だよ。誰だってこんな家に行きたくないだろ」 「そうですね」 「ほら、用意しろ。飯食いに行くぞ」  このまま遠野は引っ越してしまうのだろうか。お金が貯まれば、いつかは出て行く。それでもこんなに早くいなくなるのは想像していなかった。何気ない日常がしばらく続くのだと。  すっきりしない思いを抱え、玄関で靴を履いていたら、チャイムが鳴った。 「あ、矢神さん、オレが注文してた荷物かも。受け取ってくださーい」 「たった今、荷物減らしたいって言ってたのに何買ったんだよ」  ぶつぶつ文句を言い、矢神は玄関の扉を開けた。  だが、そこには宅配業者ではなく、さっきまで話題に上っていた眞由美が立っていたのだ。 「こんにちは」  優しく笑う彼女に、矢神はすぐに挨拶を返せず、無言のままでいた。 「あのね、パン焼いてきたの。お昼まだだったら3人で食べない?」  突然の訪問は毎度のことだったが、休みの日に来たのは初めてだった。  料理らしいことは、ほとんどしなかった眞由美は、パンを焼くのは得意で、矢神はそのパンが好きだということを彼女は覚えていたのだろう。  追い返すのも気が引ける。パンだけ食べて帰ってもらうおうか。それとも遠野に相談してから。  ぐるぐると頭の中で考えていれば、眞由美の表情が変わる。 「あーや、話があるの」  笑みが消え、真剣な眼差しの彼女を見て、話の内容が想像できた。 「矢神さん、荷物じゃなかったですか?」  玄関に顔を出してきた遠野が眞由美の姿を見て「こんにちは」と挨拶をした。さらに、にこやかな笑顔で話しかける。 「すごくいい匂いしますね。眞由美さん、何か持ってきてくれたんですか?」 「パン焼いてきたんです。3人で食べようと思って……」 「わあ、いいですね」  遠野が今にも眞由美を家の中に入れそうだったから、矢神は眞由美に声をかけた。 「話ってなに?」  眞由美は、チラッと遠野の方を見た。それに気づいた遠野が気を利かせる。 「オレ、向こうに行ってますね」 「いいよ、すぐ終わるから」  その場を立ち去ろうとする遠野を止めた。  眞由美は遠野がいることで話しにくいのか、しばらく黙っていたが、次第にぽつりと話し始める。 「……この間ね、私、酔ってたの」 「ああ、オレも酔ってた」  答えながら、お酒のせいにするのは最も都合のいい言い訳だなと感じた。 「ごめんね。あーやに釣り合うような女になるって言ったのに。これからは――」  眞由美の話を遮断するように矢神は言葉にする。 「悪い。もうここには来ないでくれないか」 「え?」 「はっきり言わなかったオレが悪い。なあなあになってたけど、眞由美とまた付き合っていくとか考えられないんだ」 「待って、そんなすぐに結論出さなくていいから」 「考えは変わらない。一度の浮気なら許そうと思ったよ。だけど、嘉村のこと本気だって言ってオレと別れたのは眞由美だろ。あの時にもう終わったんだ」 「いやだよ、あーや」  そう言って眞由美は、しくしくと泣き出した。隣にいた遠野が、オロオロし始める。  被害者は矢神の方なのに、これではどちらが悪者なのかわからなくなりそうだ。だが、矢神は怯まなかった。ここで気を許せば、振り出しに戻るだけ。 「頼むから、これ以上眞由美のことを嫌いにさせないでくれ」  矢神は眞由美の細い腕を掴んで、玄関の扉を開けた。 「今まで、ありがとう」 「やだ、やだよ!」  涙をボロボロと流しながら、眞由美は縋ってくる。一度は本気で好きになった人だ。その姿は見るに堪えがたかった。  腕を引っ張る力をなるべく抑えながら、外に追いやる。 「さよなら」  最後は彼女の方を見ることができず、強引に扉を閉めた。  胸がぎゅっと締め付けられるように苦しくなる。自分が傷つくのは嫌だが、人を傷つけるのはもっと嫌だった。  それでも期待を持たせているよりは、この方がずっといいはずだ。そう自分に言い聞かせるしかなかった。 「矢神さん……」  遠野が悲しそうな震える声で名を呼んだ。 「悪かったな、変なところ見せて。眞由美の性格上、第三者が傍にいた方がいいと思ってさ。2人きりだと、うまく話を逸らされそうだったから」 「オレは大丈夫ですけど……」 「あ、昼飯……なんか、外で食う気分じゃないな」 「チャーハンでよければ、作りますか?」 「悪いな」 「待っていてください」    遠野は「簡単なものですけど」と言い、チャーハンとわかめスープを作ってくれた。  食べる気力がなかったのに、目の前に出されたら、いい香りにつられて思わずスプーンを手にしていた。  口に運べば、ほっとする味が広がった。遠野の料理はやっぱり美味しいと実感する。 「眞由美とのことは、はっきりさせたから、おまえは出ていかなくていいぞ」 「……オレ、ここにいていいんですか?」  この間から、こんな風にしおらしい態度をする。眞由美が来ていたことにより、居心地が悪かったのだろう。遠野には本当に申し訳ないことをした。 「同居する時に言っただろ。引っ越し資金貯めてからでいいって。それじゃないとおまえ、ろくでもないところに住みそうだからな」 「でも……」  遠野は困ったように口ごもる。もじもじとして、らしくない態度だ。 「なんだよ、まだなんか気になることあるのか?」 「オレ、矢神さんに迫っちゃいますよ」 「はあ!? んなの、我慢しろよ!」 「えー、我慢にも限界があります」 「なに、開き直ってんだよ」  矢神は、はっとする。  ――あれ? ちょっと待て。遠野に対しても、はっきりさせないといけないんじゃなかったか?  眞由美のことでごたごたしていたせいで、すっかり忘れていた。  遠野に告白をされて、返事を待つと言われたわけではない。だが、眞由美同様、中途半端な状態は良くないと考えていた。この機会にきちんとするべきだ。 「遠野、話が――」 「そうだ、キムチもらったんですよ。食べます?」 「え? 食べるけど、誰にもらったんだよ」 「スーパーでよく会うみどりさんです。自家製キムチ美味しいんですよ」  遠野はスキップするごとく嬉しそうに冷蔵庫に足を進めた。  『みどりさん』という名は初めて聞くが、こういうことはよくあることだった。  誰とでも簡単に仲良くなれる。矢神とは正反対の性格なのだ。 「おまえってすごいよな」 「何がですか?」 「いや……」 「はい、どうぞ」  ほくほく顔で小皿に入れたキムチを矢神の前に出してきた。 「ありがと……」  切り出すタイミングを失い、途方に暮れる。いつものパターンだ。  ずっと曖昧な状態では悪いと思いつつも、何も答えを出さないでここまで来てしまった。  遠野の気持ちが本気ならなおのこと、はっきりさせるべき。それはわかっているのに、結局後回しにするのだ。

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