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第16話

 初めて遅刻するかもしれない。それもよりによって立花との待ち合わせにだ。自分から花火を観ようと誘っておきながら遅れるなんて言語道断だ。自宅を出る直前に確認した時刻から計算し、走ればまだ間に合う可能性もあると自分に言い聞かせる。  そろそろ家を出ようと、服を着替え、鏡の前で身なりを整えていたとこまではよかった。ところが自分の格好を眺めていると、やけに堅苦しいような感じがした。気に入って着ているシャツと、合わせて履いたパンツで綺麗にまとめたはずが、何だか変に意気込んでいるようにも見える。一旦そう見えてしまうと、違和感が拭い切れなくなってしまった。結局、パンツをカジュアルなものに履き替えて落ち着いたものの、その時点で予定していた出発時刻を五分も過ぎていた。  ただ混雑具合も考えて予定を立てていたこともあり、会場の最寄り駅には遅れることなく到着することができた。  駅のホームに降り立つと、既に人でごった返していた。想像以上の状況に、立花と無事合流できるのか一抹の不安が過ぎる。  駅前の待ち合わせ場所まで、思ったよりも時間がかかりそうだ。立花に連絡しようとスマートフォンを見れば、彼からメッセージが届いていた。今から十分も前に到着しているという。返信を打ちながら、人の波に乗って駅構外へと出た。  オブジェの前へと向かうと、すぐに立花の姿が目に入ってきた。隣には浴衣姿の女性がいて、何やら親しげに話をしている。  友人なのか、それとも同僚だろうか。小柄で可愛らしい人だ。あれだけ急いでいたというのに、突然足が重くなる。  そんな自分の姿を目敏く見つけ出した立花が手を振ってくる。隣の女性も気付いて会釈してきた。  小さく息を吸ってから、人の間を縫うようにして二人の元へと歩み寄る。 「すみません、遅くなりました。そちらの方は?」 「彼女、タチの悪い奴に声かけられててさ。見るに見かねて、恋人のフリして声かけたんだ」 「本当にありがとうございました。私の方も、もうそろそろ来ると思うので」  彼女が人を探すように辺りを見渡すと、誰かを見つけたようだ。つられて見遣れば、長身の女性が人混みを掻き分けながらこちらに駆け寄ってくる。 「ごめんっ。遅くなって……!」  ショートヘアを振り乱した彼女は息を整えつつ、俺と立花を見て露骨に眉を顰めた。 「誰?」 「違うって。変なのに声かけられて困ってるところを助けてもらったの。こちらはそのお友達さん」  すると一変、罰が悪そうに腰を折って深々と頭を下げた。 「大変失礼しました。助けていただいて、本当にありがとうございました」 「いえいえ。こういう場所だと、どうしてもそういう輩も多くなりがちですから」  お役御免とばかりに、立花が「行こうと」と目配せしてくる。  彼女達と別れ、俺達は会場へと向かう人波に向かって歩き出した。 「人助けしてたんですね」 「何、ナンパしてると思った?」  「ヒドいなぁ」と隣の彼がへらりと笑う。茶化されると、なおさらほっと安堵できた。浴衣姿の女性とは本当に何もなかった。それだけで肩の力がみるみる抜けていく。 「規模が大きいだけあって、本当に人が多いよなぁ。ちょっと想像以上かも」  億劫な言葉とは裏腹に、立花の声音は弾んでいる。人混みを眺める瞳も輝いていて、騒々しい雰囲気をむしろ楽しんでいるようだった。  突然トンっと自分の太股辺りに柔らかいものが当たった。視線を落とすと、はしゃいでいた男の子に体当たりをされたらしい。父親が「すみません」と頭を下げながら、子供の手を引く。  ニコニコと笑顔を振りまく男児がこちらを見上げてくる。隣を歩く立花も、内心ではこんな顔をしているにちがいない。微笑ましくなって口元を緩めたら、子供はすんと大人しくなって父親の後ろに隠れてしまった。 「何したんだ?」  一部始終を見ていたのか、立花が訝しげにこちらを覗き込んでくる。 「何もしてませんよ」  そんなつもりはなかったのに、語気が少し強くなってしまった。  人の波が動きを止める。赤信号だろうか。警備員の誘導する声が喧騒に紛れて遠くの方から聞こえてくる。  人が密集していることもあり、少しばかり息苦しく感じて視線を上げた。陽もようやく落ち始め、暮れゆく空は青から紫へと色を変えつつあった。雲一つ無く、思わず見入ってしまうほど見事なグラデーションだ。 「坂本君、カメラ持ってきてないの?」  不意に立花が尋ねてきた。澄んだ眼差しは不思議そうに俺を見つめている。  元々撮るつもりもなく、久瀬にも「写真はいらない」と散々念を押されてしまった。純粋に花火を観に来たため、小さめのショルダーバッグには貴重品しか入っていない。 「はい。持ってきてません」 「そうなんだ。花火の写真撮るのかとって思ってた」 「………………」  立花にもそう思われていたのか。その事実がやけに心に深く刺さった。 「撮りませんよ。花火を観に来たんで」  ぶっきらぼうな物言いになってしまったと、口にしてから気が付いた。慌てて隣を見れば、相手は感情の読めない顔付きで「そっか」と相槌を打った。  人波が動き出した。流れに身を任せてのっそりと進み、徐々にではあるが河川敷が見えてきた。結局、観覧エリアに辿り着いたのは開始時間まで三十分を切っていた。  長机とパイプ椅子が並んでいる中から、指定された番号の席を探し出す。エリア内には露店も併設されていて、何かアテがあった方がいいだろうと立花に訊いてみた。 「俺、飲み物買ってきます。何か食べますか?」 「それなら、俺が」 「いえ。俺が行ってきます。立花さんはゆっくりしてて下さい」 「でも」 「今日誘ったのは俺なんで、これくらいさせて下さい」  乞うように頼み込めば、相手はくすぐったそうに笑みを浮かべた。「缶チューハイとフランクフルトが食べたい」とリクエストをもらって買い出しに向かう。  エリア内の人しか利用できないこともあって、屋台はどこも空いていた。さして時間もかけずに買い揃えることができた。 「お待たせしました」 「ごめんね。ありがとう」  フランクフルトを差し出すと、立花の目が嬉々として輝いた。 「こういう所に来ると、無性に食べたくなるんだよねぇ。ただのフランクフルトだっていうのに、美味しく感じるし。不思議だよなぁ」  上機嫌で齧り付き、美味しいと唸る。ゆっくりと味わう姿を眺めながら、自分も缶ビールを呷った。 「坂本君も、食べたくなった?」 「え?」 「フランクフルト。ずっと見てるからさ。買ってきてあげようか?」  無垢な瞳に見つめられ、慌てて自分用に買っていたからあげ串を手に取った。肉の塊を頬張れば、「遠慮しなくてもいいのに」と立花は目を細くする。  欲しがっていると勘違いされたことより、見ていたことを指摘されたことの方が居たたまれなかった。頬張ったからあげを必要以上に咀嚼してから飲み込んだ。  祭囃子のような音楽に重ねて開演前のアナウンスが流れ始めた。「それでは、お楽しみ下さい!」との言葉とともに観客席から自然と拍手が沸き起こる。自分と立花も拍手をしながら空を仰いだ。いつの間にか陽も完全に落ちて、暗闇が広がっていた。  爆発音が鳴り、数秒の間を置いて大きな火花が散った。  川岸が近いこともあって、打ち上がる花火との距離は近く、とても迫力があった。腹に響くような破裂音と、煌めく閃光が次々に咲いては散っていく。  数年振りに見たこともあり、思わず見入ってしまった。空一面を覆い尽くすほど大きく、様々な形の花が間髪入れずに咲き乱れ、歓声もどんどんと盛り上がっていく。  立花もさぞ楽しんでいるに違いない。  そう思って視線を隣へ向けた。すると彼の目もこちらを見ているではないか。  自分も、そして相手も驚いてしまい、一瞬見つめ合ってしまった。花火の閃光が彼を照らす。  先に動いたのは立花だった。視線が外れる。 『ごめん』  誤魔化すように唇がそう動いた。声は爆音に掻き消され、こちらまで届かなかった。  辿々しく夜空を見上げた彼を見つめ続ける。執拗な視線から意識を逸らせないのだろう。男の首は固定されたように動かない。  衝動的に、彼の方へと身を寄せた。気配に驚いた立花がこちらを向いて、体を仰け反らせる。意識し過ぎているのがありありと見て取れた。思わず頬が緩む。  連続して打ち上がる音をどこか遠くに感じる。身を屈め、そっと相手に耳打ちする。 「綺麗ですね、花火」 「あ、ぁ……うん……そう、だな……」  しどろもどろに何とか返事を返してくれる。彷徨う視線がふらふらと落ちていくのを見つめながら、どんな言葉をかけようかと思案する。  もっと彼の反応を見てみたいなんて、意地の悪い考えが頭を過ぎる。  瞬きすらさせまいと、意識して相手の目をじっと見つめた。 「どうしたんですか?」 「な、んでもないって。ほらっ。花火、上がってるから」  「だから?」なんて言葉が口を衝いて出てしまいそうになった。既のところで食い止める。  俺の肩を押し返し、立花は空を指差す。明後日の方向を向いてしまった彼を、それでも飽きずに見つめてしまう。  可愛いな。  唐突にそんな感情が湧き上がる。既視感を覚えて、ふと彼と映画を観に行った日のことを思い出す。広場で話をしていた時、同じようなことがあった。  ただ、今はあの時のような単純なものではなく、惹き寄せられるような何かがあった。  立花の目がちらりとこちらを見遣る。期待に反して見続けていたため、目が合った途端、驚愕した様子で大きく見開かれた。 「だからっ……! こっちじゃなくて、あっち見ろってっ」  情けなく叫ぶ声はど派手に打ち上がる花火の爆発音によって掻き消されていく。それでも自分にはしっかりとその声が届いていて、思わず破顔してしまった。拳が肩に飛んできたが、軽いものだったため痛みは全くない。  力の抜けた男の手がチューハイの缶に添えられる。  その手をすくい取って、握りたい。  突如、辺りが一際明るくなった。金色の花火が何発も打ち上がっていて、爆発音がけたたましく鳴り響く。地上すれすれまで火花が垂れ下がっていく様は壮観だった。 「うわぁ…………綺麗だな……」  光輝く夜空に立花の目は吸い込まれてしまいそうだった。惚れ惚れと見上げる彼の横顔は、頭上で咲き乱れる花火よりももっとずっと輝いて見える。  せっかくのフィナーレもそっちのけで、俺は男の姿を眺め続けていた。

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