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chapter1 再会 ①

 目的の家を見つけて、ようやくフランツ・ツェーゲラーはほっと息をついた。  イタリアの首都ローマのドイツ大使館に、この春武官として赴任することになったフランツは、まずスイスに住む両親に報告し、苦笑交じりの祝福を受けてから、部屋のレターケースに仕舞っていた手紙の束をひっくり返した。幼い頃、両親の仕事の都合のためイタリアで暮らしていて親しくなったビアンチ家の手紙を見つけ出し、それに書かれていた電話番号を回した。およそ十数年ぶりなので、相手が忘れていなければいいがと緊張気味にイタリア語で名乗ったのだが、それは杞憂に終わった。 『まーあ、フラーンツ?!』  受話器の先で、エリザベッタ・ビアンチはびっくりしたような大きな声をあげた。 『フラーンツなの! あの可愛いフラーンツ?!』 「……ええ、あのフランツです。お久しぶりです」  耳から少し受話器を遠ざけて、フランツは丁寧に挨拶をした。懐かしいイタリア語と声のでかさに、昔の思い出が甦って顔がほころぶ。 「覚えていて下さって、嬉しいですよ。エリザベッタおばさん」 『まあまあ! 忘れるものですか! 可愛いフラーンツ! まあ元気なの! 何年ぶりかしら! レギーナとミヒャエールはお元気?! あの頃のことはいつでも思い出すわ! 私のパスタ料理をとても美味しそうに食べてくれたわね! またいつでも食べにいらっしゃい!  そうだわ!  今度ご近所に引っ越してきたイングランド人のご夫妻を家にお招きするから、フラーンツもいらっしゃい! 老夫婦の方なのだけれど、イングランド人だから、ちゃんとした料理を食べていないのよ! あの国の料理って、本当に地獄だわ! 夫のジャンネーロが若い頃イングランドにいたのだけれど、もうまともに食べられるものがなくて、餓死しそうだったって今でも言っているわ! でも一軒だけイタリア料理のレストランを見つけて、そこで飢えを凌いでいたそうよ! でもお菓子は美味しかったって言うわ!  そうだわ!  今度ジェラートを作るからフラーンツも食べにいらっしゃい! それに……』 「……」   フランツは受話器を握ったまま、石のように固まっていた。久しぶりのイタリア人との会話に、軽く眩暈がした。延々と喋り続けるイタリア人は、いったいいつ呼吸をしているのだろうか。誰か科学的に解き明かして「サイエンス」か「ネイチャー」にでも載せてくれないだろうか? イタリア人、脅威の呼吸の仕方、とか…… 『もしもし! フラーンツ!?』 「……あ、おばさん。ぜひ食べに行きますよ。今度イタリアに住むことになって……」  エリザベッタおばさんの口が息を吸っている間に、フランツは手短に自分の近況を喋った。今、ベルリンにいること、仕事でローマに赴任することなど、簡単に喋った後で、電話をかけた最大の目的を口にした。 「それで、パウロのことなんですけれど」 『まあ、パーウロね!』  アルプス大山脈の向こうで、大きく頷くような仕草が聞こえた。 『うちのパウロならミラノにいるわよ! 私たちとは一緒に住んでいないけれど、ここを離れていないわ! パウロはミラノを愛しているのよ! だって、ミラノで生まれて育ったんですもの! 当たり前よ!』 「ええ、そうですね」  何故力いっぱい強調されたのかわからなかったが、一応あわせた。 「じゃあ、ミラノにパウロはいるんですね? パウロは元気ですか?」 『元気よ! 私から連絡しておくわ! パウロも喜ぶわよ! あの子はフラーンツのことが……』 「待ってください!」  慌ててフランツは、イタリア流に大声で遮った。 「エリザベッタおばさん! 気持ちは嬉しいんですけど、どうか自分のことは内緒にしてもらえませんか!」 『あら! どうしてなの、フラーンツ!』 「彼をびっくりさせたいんです! 突然現れて、驚かせてやりたいんです!」  フランツは記憶のページをめくって、最後に会ったパウロの姿を思い返した。駅構内でお互いに手を振って別れたパウロ。チョコレート色をした瞳が、哀しげに潤んでいた。 「パウロに会うのは、別れた時以来だから、目を丸くして、喜んでくれると思うんです……」  きっと、フラ! と両腕を広げて、抱きしめてくれるに違いないと思った。久しぶりだな、会えて嬉しいよと言いながら。自分もパウと呼びながら、抱きしめ返す……  エリザベッタおばさんは物分りは良かった。 『いいわよ! 二人で再会を祝いたいのね! もちろん、邪魔しないわよ! あとで二人で私のジェラートを食べにいらっしゃい!』 「ええ、おばさん、ぜひ」  フランツはほっと胸を撫で下ろして、あともう一息頑張った。 「それで、パウロの住所を教えて欲しいんですが……」  それをメモッた紙を確認して、目の前の家を見上げた。  ローマから日本車を運転してきたのだが、よく無事に着いたと思った。道路には信号という世界共通のルールがあるはずなのだが、イタリアではただのオブジェなのか、ほとんどの車が無視していた。赤信号でも車が来なければそのまま通過。交差点で青信号のフランツがスピードをゆるめず走っていたら、赤信号でとまるはずの車が曲がってきて、あやうくぶつかりそうになった。フランツは窓を開けて抗議しようとしたが、なんと相手から「ばかやろう! 気をつけろ!」という罵声が返ってきた。ドイツでは考えられない、とハンドルを回しながら、憤った。赤は止まり、青は進む。なぜこの常識的なことを守って怒鳴られなければいけないんだ!  そういうゴタゴタのあとで、ようやくミラノに到着し、近くの駐車場に車を預けて、目的の家まで歩いた。ミラノはローマに次ぐ大都市で、イタリア経済の中心地である。その歴史はたいへんに古く、ローマ帝国時代まで遡る。中世はミラノ公国として大いに栄え、ローマやフィレンツェ同様にルネサンス文化を花開かせた。現在は、ファッションやサッカーの街としても名高く、ヨーロッパでも有数の観光地である。  フランツは石を引き積めた昔からの街路地を歩きながら、通り過ぎる人々や景色を新鮮な空気のように吸い込んだ。高層ビルなどはなく、中世の時代より息づく古い建物が街中を埋め尽くしている。遠くに見える大きな教会は、有名なドォーモだ。  懐かしさで胸が温かくなった。華やかで洗練された都市ミラノ。子供の頃育った街とはいえ、目のするもの全てが新たな感動を呼ぶ。通りを賑わす大勢の観光客と一緒になって、フランツは楽しみながら歩いた。すれ違うミラノの人々は、女性であれ男性であれ、モデルのように艶やかである。  きっとパウロも素敵なミラノの男になっているに違いない。  フランツは幼い頃のパウロ・ビアンチを思い浮かべた。まるで初恋の人に会うように、胸がドキドキしている。幼馴染みに会うだけなのに、どうしてこんなに緊張しているのかと少々苦笑いしながら、エリザベッタに教えてもらった家を見つけ出した。  街の中心部から少し離れた通り、こぢんまりとした地元向けの店が軒を連ねている界隈に、周辺とそう年代の変わらない古い建物があった。その玄関口の石段をあがって、フランツはドアを見上げる。アパートメントではなく、一軒家のようだ。エリザベッタの話では、パウロはここで仕事をしているのだという。 『何の仕事をしているかですって?! それは会ってみればわかるわ!』  お喋りなおばさんにしては、ストレートに教えてくれなかったが、逆に好奇心がわいて、フランツはあれこれ考えた。パウロは走ることが大好きだった。いつも先頭をきって走り回っていた。イタズラした時も、一番に走って逃げていた。きっと何かアスリート関係の仕事をしているに違いない……  フランツは玄関の中央に吊り下がっている真鍮のリングで、ドアを叩いた。ベルはこれしかない。少し待ってみて、もう一度強く叩いた。  この界隈は人通りもそう多くはなく、いかにも地元の人間たちが集まっているような感じだった。ドアの前で待っている間にも、中年の主婦たちが大きな手振りでお喋りしながら通り過ぎてゆく。電話で喋ったエリザベッタおばさんもあんな風に横に膨らんでいるのかなと、ふと思った時、ドアが開いた。  現れたのは、若い男だった。

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