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バレンタイン・キス⑨

 レモネードを飲み干すと、はぁ、と満足げな吐息が自然と落ちる。  わざわざ用意してくれた涼さんに「ありがとう」とお礼を言うと、「どういたしまして」と俺からグラスを受け取り、涼さんはベッドの端に腰を下ろした。 「結構遅くなっちゃいましたね。体の方はどうですか? オレ、盛っちゃって、無茶な抱き方しちゃったし」 「ん、へーき。といっても、まだベッドから降りてないから、動けるか分からないけど」  緑川と別れてから十年近く、誰とも交わっていない。  若々しい涼さんに深く穿たれた体が、今どうなっているのか疑問しかないのだ。まあ、ほぼ確実に自立できないだろうな、というのは腰の痛みで予測できるが。 「それなら、一度立ってみて無理そうなら、オレが下まで抱っこして降ろしますから食事にしませんか? お昼天むすだけだったし、お腹空いたでしょ?」 「あー、そうだな。できれば動けばいいんだけど」 「え? オレに抱っこされるのイヤなんですか?」  俺の発言に涼さんの幻の耳と尻尾が元気なく垂れる幻覚が見える。 「いや、そうじゃなくて。最近有給取ってばかりだし、年度末で忙しくなるから、困るなぁと思って」 「あ、そういう事ですか。すみません、オレが無茶しちゃったから……」  しょんぼりとしている涼さんの手をぎゅっと握り、そうじゃない、と口を開く。 「大切にされたの実感したし、あんなに気持いいの初めてだった。俺、涼さんに抱かれて幸せだと感じたから、もう謝らないでほしい」 「健一さん……」 「まあ最悪、有給はまだ残ってるし、帰って起きてから決めようかな」 「え? 帰るってどこに?」 「勿論、自分ちのあるマンション」  幸せそうに目を細めていた涼さんが、俺が家に帰ると聞いて瞠目している。  いや、こんなに心地良い場所で寝泊りできたら最高だけど、仕事に行くならスーツ家にあるし、どっちみち帰らない事には執筆もできない。  ウェブ連載分はスマホでやってるから問題ないけど、書籍用の作業は自宅のパソコンでしかデータがないのだ。  そろそろプロットの方も出さないといけないから、あんまりのんびりできないんだよなぁ。  そういった事を含めて涼さんに説明すれば。 「それなら、晩ご飯を食べてから一緒に帰りましょう。オレ、車出しますので」 「え……でも……」  わざわざ狭い単身者用のマンションに帰らずとも、これだけ立派な家があるのだから、戻ればいいのにと思う。  今だって不便な環境で俺の世話をして、こっちに戻ってきてお店までやっているって、涼さんに負担がかかりすぎている。 「俺は沢山面倒見てもらってありがたいし、嬉しいけども、涼さんが大変じゃないのか? 幾ら恋人になったからと言っても、食事を作る契約は生きてるし、できるなら涼さんに負担をかけたくないんだけども」 「健一さん」  自分に言い聞かせるように、これ以上の迷惑をかけるのは避けたいと告げれば、やけに硬い涼さんの声が言葉を遮る。 「健一さんのマンションの更新っていつですか?」  強ばった顔で問うには不思議な質問。 「えっと、次の四月だったかな。うち、三年更新なんだよ」 「それなら丁度良かったです。健一さん、この家で一緒に暮らしませんか?」 「は?」  素直に答えたら、返ってきたのは同居の提案だった。 「この家、元がファミリータイプのデザインなんですよ。にも拘らずオレひとりで暮らしてるから、部屋が傷みやすくて困ってたんです。一応、週に二回クリーニングは入ってますし、メンテナンスも定期的にやっているんですけどね。ですから、健一さん。オレと一緒に生活しませんか?」 「え……。で、でも、俺が住むのはどうかと思うけど。涼さんの家族もなんて言うか分からないし」 「ああ、それなら大丈夫です。この家は別に両親からの生前分与ではないですし、祖父から直接譲り受けた土地なので主導権はオレにあるんです。それに、うちの姉は健一さんがここに住むのを大賛成していましたよ」 「はい?」  涼さんの姉というと、白井戸さんの事を指しているのだろう。でも、どうして彼女が……はっ!? 「ちょ、ちょっと、待って! 涼さん、俺との事、白井戸さんに……」 「言いましたよ? 健一さんがオレの恋人だって」  まあ、フライングでしたけども、と爽やかに笑う涼さんに、俺はがっくりとうなだれる。  長年ゲイだと隠して生きてきた俺の存在意義が、こうもあっさりと崩されてしまうとは。  しかもノンケであった涼さんを巻き込んで。 「うぅ……胸が痛い……」 「えっ? 突然どうしたんです!? 大丈夫ですか? 病院行きます?」 「もう生きるのつらい……」  ええ!? と涼さんは持っていたグラスを放り投げて、それはもう大慌てするものだから、何とか落ち着けさせ気持ちを伝える事にした。  これまで自分がゲイである事を家族だけでなく、周囲にも悟られないように生きてきたこと。  このままひとりでひっそりと生きていこうと考えていたこと。  きっかけは偶然だったけど、涼さんと出会って、次第に心惹かれたこと。  それでも涼さんはどう見ても異性愛者だから、思いを伝えないと決めたこと。  だけど白井戸さんを恋人と勘違いして、果てに悩みすぎて倒れてしまったこと。  結局、自分は涼さんが好きだと再認識したこと。  こうして恋人になれただけでも夢のようなのに、一緒に住むなんてどうしたらいいのか分からなくて混乱してること。  しかも家族が賛成してることに困惑してること。  とつとつと、時々言葉につっかえながら言い切ると、涼さんが俺をギュッと抱きしめてくれた。 「今までひとりで頑張って凄いですね。そんな健一さんを尊敬します。でも、ひとりで背負ってた荷物、少しでもいいのでオレにも背負わせてくれませんか? パートナーってそういうものじゃありません?」 「ぱーとなー……」 「そうです。オレは一生、健一さんを離すつもりありませんから。言ったでしょ? オレから逃げようとするなら、健一さんに首輪と鎖をつけて監禁するって」 「あれって本気だったんだ……」  ポツリと呟いて、しまったと思った時には時既に遅し。 「本気ですよ。なんなら、今からしましょうか?」  にっこりと笑っているのに、怖い。目の奥に狂気が見え隠れしていて、背筋がゾッとなる。  どうやら俺は薮をつついて蛇を出したらしい。  まずい、まずい、マズイ! これは別に意識を変えないと、とんでもない結末が待ってる気がする! 「あ、あ、あの、さ! すっかり忘れてたんだけど、俺、チョコを……涼さんにあげようと思って、鞄にチョコ」 「えっ!?」  パッと喜色を浮かべる涼さんに、俺は内心で安堵の息を深く吐いた。  浮かれていて気付かなかったけど、もしかして涼さんってヤンデレ気質なのか……?  惚れた欲目で浮かんだ考えに蓋をして、部屋に放置していたせいで少し溶けたチョコレートをふたりで分け合った。  それから涼さんのシャツ一枚を羽織らされ、更に涼さんに抱っこされて連れられたリビングダイニングで、チョコレートが隠し味というビーフシチューに舌鼓を打ち、幸せな時間を堪能したのだった。  これが俺と涼さんの初めてのバレンタイン。  まさかその後、あんな出来事が来るとは、俺たちは予想もしていなかった──

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