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第7章 カトレアの花(3)
カトレアはその後、しばらく目を覚まさなかった。
ミハイルとプラチナは協力して、ラドラムとカトレアの世話をする。レトルトミルクを温め、オムツをかえ、栄養剤を点滴し、身体を清拭した。
いつもキラキラと何かにときめいていたカトレアの重い瞼が上がったのは、二日後だった。もうそのフォレストグリーンの瞳には、星は瞬いていなかった。
「ミハイル……私、どうしちゃったのかしら。動けない、の……」
ミハイルは、ずっと考えていた。そして出した答えは、辛いだろうが、カトレア自身に自分の幕引きを選ばせる方法だった。
誰かの生き方を、人が決めるべきではない。それがミハイルの考えだった。
ベッドサイドの椅子に座り、両手でカトレアの手を握ってさすりながら、ミハイルは切り出した。
「カトレア……辛いだろうが、落ち着いてよく聞いてくれ」
「ええ……ミハイル、私、死ぬのね……?」
その言葉にミハイルが驚愕して目を見開くと、カトレアが微かに笑った。
「やっぱり、そうなのね……。貴方って、本当に嘘がつけないのね。そこが、好きになったんだけど」
「カトレア……」
「どれくらい、もつの? 一ヶ月? 一週間?」
「平均二ヶ月だそうだ」
そう言った瞬間、カトレアは確かに幸福そうに微笑んだ。
「良かった。じゃあ私が頑張れば、ラドラムの一歳のお誕生日まで、生きられる……!」
だが選択肢はもう一つある。再び、ミハイルはカトレアの手を握り締めた。
「今すぐコールドスリープすれば、治療法が見付かり次第、治して貰う事も出来る」
「え……? 嫌よ。何十年も、何百年も先でしょう? 貴方とラドラムが居ない世界なんて、死んでるのも同じよ。私、ラドラムの一歳のお誕生日パーティーを見てから、死にたいわ……」
「……分かった。盛大に祝ってやろうな……」
それからは、カトレアの発作との闘いだった。
次第に間隔の短くなる発作と、逆に長くなる意識不明の期間、ミハイルとプラチナは共闘した。
つきっきりで看病と育児をこなし、ミハイルは疲れ切っていた。そんなミハイルを見かねて、カトレアが言ったくらいだ。
「ミハイル……私の事はいいの。ラドラムをみてあげて……」
「馬鹿言うな。どっちも俺にとっては大切なんだ。諦めるなんて、お前らしくないぞ、カトレア。お前は、カトレアの花言葉が似合うような柄じゃないだろう?」
いつしか、笑う事も少なくなっていたが、その言葉がカトレアの笑みを取り戻した。
「ふふ……そうね。私、上品に育つように、ってカトレアと名付けられたけど、今まで一度も似合いの名前って言われた事ないわ。『似合わない』ってハッキリ言ったのは、貴方が初めてだったけど。幾ら嘘が苦手でも、女性には多少のお世辞くらい言うものよ」
「嘘で誉められても、嬉しくないだろう?」
「そうね。貴方の、嘘がつけない所が好き。……ね、今日は何日? ラドラムのお誕生日まで、あと何日?」
「あと四日だ。頑張ったな、カトレア」
その時交わされたキスが、最後の暖かいキスだった。直後にカトレアは激しく痙攣して発作を起こし、意識不明となったのだ。
動かないカトレアに声をかけ、世話をし、ラドラムの育児もキッチリこなし、合間に寝食を惜しんで、ミハイルは艦橋中を金銀の房飾りや色紙の鎖飾りで華やかに飾り立てた。
そして、プラチナに言い置いて十分ほど留守にした。
「pt、ちょっと買い物に行ってくるから、カトレアとラドラムを頼む」
「はい、分かりました。ミハイル」
ラドラムはしばらく、ガランとした空間にミハイルを探し求めて辺りを見回していたが、動かなくなったカトレアしか居ない事に気付くと、ぐずり始めた。
即座にプラチナがベビーベッドを優しく揺らしてあやしたが、急に寂しくなって、柵に掴まって立ち、ベッドから出てミハイルを探そうと身を乗り出した。
不意にラドラムの視界が一回転した。ベッドから転げ落ちたのだ。
「大丈夫ですか、ラドラム」
プラチナの心配そうな声がしたが、まだ身体の柔らかいラドラムは、びっくりしただけで何処も打ってはいなかった。
その時、四日ぶりにカトレアが目を覚ました。ベッドの外にいるラドラムに驚き、声を振り絞る。
「ラドラム……! ミハイル、ミハイル!」
「カトレア。ミハイルは買い物に行くと行って、六分五十六秒前に船を出ました」
「何でラドラムがベッドの外に居るの?」
「転がり落ちたのですが、泣いていませんし、何処も痛くはないようです」
「ママ!」
「ラドラム……!!」
その時、ミハイルが帰ってきた。
目を覚ましたカトレアと、その傍らに立つラドラムを見て、急いでベッドサイドに駆け寄る。
だが先に口を開いたのは、カトレアだった。
「ミハイル、今ね、ラドラムが歩いたの! ここまで一人で! 私の枕元まで!」
その久しぶりのリフレインは、嬉し涙に濡れていた。
「そうか……! 二人とも頑張ったな。カトレア、今日はラドラムの一歳の誕生日だ。ケーキを買ってきたから、みんなで食べよう」
「ええ、そうね、そうね……!」
小さなホールケーキにキャンドルを一本立てて、灯りを消した。
カトレアのベッドサイドにテーブルと椅子をせり出して、ラドラムを膝に乗せたミハイルが座り、その魂そのもののような儚く揺らぐ炎を見詰める。
そして二人で、ハッピーバースデーの歌を歌った。
「ハッピバースデー・ディア・ラドラーム……」
「ア!」
ラドラムが丸まっちい手で、ケーキの苺を手に取った。
その拍子に、キャンドルが倒れて炎が消える。
「あ、こら、まだだぞラドラム!」
慌てるミハイルに、カトレアが笑った。
「ふふ……まだ意味が分かってないのよ。しょうがないわ、ミハイル。ラドラム、美味しい?」
「んまー」
「そう、良かった……」
だがそう微笑んだのも束の間、カトレアは胸を押さえてラドラムと揃いのフォレストグリーンの瞳を見開いた。
「ミハイル……ミハイル!」
「どうした、カトレア」
「私……私、死ぬわ……」
「何言ってるんだ、カトレア! しっかりしろ!!」
「愛してるわ……ミハイル、ラドラム……!」
おおよその位置だけつかんで語っているのか、二人を見るカトレアの視線は、微妙に焦点が合っていなかった。
「俺も愛してる、カトレア! まだ早い、逝くな、逝くなカトレア……!」
ラドラムの視線は、その時何を思ったのかは分からなかったが、カトレアをジッと見詰めていた。
その瞬間、カトレアは微笑んでいた。天国への門が開くのが、見えるような微笑みだった。
「私の分まで生きて……愛してるわ、ミハイル、ラドラム……愛してるわ……」
何度も『愛している』の言葉が繰り返される。
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