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固まった地にもまた雨は降る 第1話

 久しぶりに飲みに行かないか、と(たける)充希(みつき)を誘ったのは、繁忙期でしばらく立て込んでいた充希の仕事が一段落したと聞いたのと、それを話す電話越しの充希の声がひどく疲れているように聞こえたからだった。 『飲みかぁ……そういや仕事の絡まない飲みってしばらく行ってないな……』  疲労の色の濃い声が、ため息混じりに呟く。  いや、ため息をつきたいのはこっちですよ、と健は内心思う。なぜならひと月近く、充希と会ってもいないのだから。  企業の監査で近県を飛び回っていた充希が帰宅したタイミングで、少しでも会いたいと健は希望していたのだが、『忙しい』『疲れているから』と、充希は一切応じてくれなかった。  一ヶ月もすれば落ち着くから、とは言われていたが、じゃあおとなしく我慢します、と黙って待つしかなかった健はかなりのフラストレーションをためていた。  決して身体的な接触だけを求めているつもりはない。五分十分だけでも、会って、直接顔を見て、声を聞くことができるだけでも満たされる部分があるではないか。疲れてささくれだったところが宥められたりするではないか。  けれど、健が充希の部屋へ出向くと言っても、充希は『来るな』とにべもなかった。怒らせたくはなかったから、それ以上は健も食い下がりはしなかった。  まあ、健も互いの相手に対する熱量が同等だとは思っていない。発酵と熟成を重ねて濃度も粘度も高まった十年ものの充希への恋心は、健に対する充希のそれよりも、きっとかなり比重が大きい。そんなことは重々承知だ。そのアンバランスについて議論する気もさらさらない。  それにしたって、少しは会いたいと思ってくれてもいいではないかと、健の胸には拗ねた気持ちが凝っている。  情けなくて、とても口には出せないけれど。 「店、どこにします?」  余計な言葉は飲み込んで、久々に会える喜びだけを前面に、明るい声を健は張った。  週末、仕事終わりに健が向かったのは馴染みのゲイバーだった。  いわゆる発展場ではあるのだが、店内の雰囲気は落ち着いていて、マスターの人柄が良く酒も旨いので、カップルで飲みに来る客も多い。知らない店は緊張するし、人目を気にしたくないという充希の希望もあって、今夜の河岸はここに決めた。  その店内で、だいたいいつもその付近に座るカウンターに着いて、ふと見やった隣の客に健は目を見開く。 「あれ」  思わず声を上げ、相手もこちらを振り向くと、見覚えがあったその相手はやはりチカだった。 「あー! タケルさんだぁ」  人懐っこく破顔したチカは、明るかった髪色を黒く染め、身なりもずいぶんと落ち着いた、悪く言えば地味な雰囲気になっていて、ワンナイトを繰り返していた頃とは見違えるようだ。 「びっくりした、誰かと思った。久しぶりだな」 「ほんと、久しぶりだよねー。タケルさん、ずっとここ来てなかったでしょ」 「うん。半年以上は来てなかったな」 「やっぱりー。俺たちはねぇ、ちょこちょこ来てるんだよ」  『俺たち』と言ったチカが、健の反対側の隣に座った男性の腕にしがみつく。健が首を伸ばしてみれば、向こう側にはやや存在感の薄いもっさりとした雰囲気の男が座っていた。  細身の体はたぶん長身なのだが、猫背で縮こまって見え、目を覆いそうな長い前髪が暗く地味な印象を強めている。 「えへへ。こちら、彼氏の町田(まちだ)くんー」  照れ笑いを浮かべて、チカがてのひらで示して紹介した男は、困惑げに小さく会釈をした。 「ども……」  正直なところ、若干意外ではある。大学で彼氏ができたと嬉しそうに語っていたチカだが、こういうタイプが好みだったとは。チカからモーションを受けていた健は、自分とはあまり共通点がないように感じた。  その町田に視線を向けられて、チカは今度は健を手で示す。 「えっと、こちらはタケルさん。この店で知り合った、えー……、飲み友達だよ!」  そこは言い淀むなよ、と内心で焦りながら健はにっこりと笑顔を作った。 「どうも。チカにはずいぶん恋愛相談に乗ってもらって、世話になったんだ。お陰で僕も今日は恋人とここで待ち合わせしててね」  体の関係があったなどとは少しも匂わせない健全な間柄を強調して、さりげなく健は指輪のはまった左手をカウンターに置いた。 「わー! タケルさん、それペアリング?」 「ん? ああ、そうそう」  指摘してくるように仕向けておいて、健はひらりと左手の甲を見せつける。  ほら、ちゃんと別にステディがいますので、アナタの恋人とは何の関係もないですよ、という余念のないアピールだ。要らぬ嫉妬心を持ち出されて揉めるなんてことは御免被りたい。  けれどそれを見た町田はフーンといった様子で関心は薄め。あまり嫉妬とかはしないタイプなのかもしれない。 「恋人って、あの本命さんだよねぇ。よかったねぇ、ストーキングの成果が出て!」 「ストーキングって言うな!」  町田に対しては特に取り繕わなくても厄介な事態にはならないかも、と読んだ健は気を緩め、迂闊にもチカの髪に手を伸ばしてしまった。 「しかし髪の色で雰囲気変わるもんだな。だいぶ明るかったのに、何か心境の変化?」  頭を撫でられて、スキンシップに慣れたチカはされるがままに健に肩を寄せる。 「就活だよーう。俺も町田くんももうすぐ四年だからさぁ。町田くんはこれ地毛だけど、俺はあの色で面接とかまず無理っしょ」  そのまま二人が会話を続けていたその背後で、店のドアが開いた。  何気なく振り返ったチカが、顔色を変えて固まり、それに気づいた健も後ろを振り向く。  ドアに手を掛けて無表情に立ち尽くす充希と、チカの髪に触れたままの健とが、目を合わせて三秒――チカの体感的にはたっぷり十秒。目礼した充希は、店に足を踏み入れることなくそのドアをそっと閉めた。 「わーっ!! やばいやばいやばい絶対なんか誤解してる、タケルさん早く追っかけて!!」  先に我に返って健の手を振り払い、声を上げたのはチカだった。健の腕を引っ張って、スツールから追い立てるように立ち上がらせる。 「えっ、俺ら、今日ここで飲む約束……」 「だから誤解してるって言ってんじゃん、なに悠長なこと言ってんの。あんた今浮気疑惑かかってるよ!」 「えぇ!? 違っ……」 「いーから釈明は彼氏の前でやんなよ!!」  荷物を持たせて健の背中をぐいぐい押して、店を出ていくのを見送ったチカはやれやれと首を鳴らす。 「……はー。あの二人、変に揉めないといいけど」  そう言って座り直したチカの隣で、町田は空になったグラスの氷を揺らしてカランと音を立てた。 「そうだね。そして俺たちも揉めないといいよね」  静かに呟く町田の声に、ぴりっとチカの背中の毛が逆立つ。 「飲み友達、だそうですけども。とはいえ、髪とかさぁ、他の男に簡単に触らせていいと思ってるのかなぁ、俺の彼氏は」 「や……ご、ごめん、ね?」 「……チカちゃんはさぁ、オトモダチのことより自分の心配をした方がいいんじゃないかな?」  カウンターの下でチカの手を握った手が異様に熱い。  にこ、と口角を上げた町田の前髪から覗く目は全く笑っていなくて、来店した充希を見つけたときよりも蒼白したチカは、今夜これからのことを覚悟して引きつった愛想笑いを浮かべることしかできなかった。

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