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朱夏 7
なるほど、いちいち母屋に戻るよりもここから出入りした方が随分と楽だ。
「荷ほどきもあるでしょうから僕はこれで。隣にいますからいつでも声をかけてください」
翠也が頭を下げると、さらりと烏の濡れ羽色の髪が音を立てる。
白い肌を犯すように流れるそれがやけに目について、「ありがとう」と返すのが精いっぱいだった。
荷物の中から一番に取り出すのは何を置いても画材だ。
梱包が不得手な為に心配をしていたが、丁寧に運んでくれたらしく傷一つない。
工房として使うためにか、わざわざ作りつけてくれたらしい簡素な飾り気のない棚に岩絵の具を一つずつ色目を分けて並べて行く。
胡粉 の白、
辰砂 の赤、
孔雀石 の緑、
藍銅鉱 の青、
日本画は色を混ぜては作らずに粒子の粗さで色を決める。
ゆえに色の数だけ絵の具があり、一つの色目だけでもかなりの数を並べることになった。
一つ一つ、色と粗さを見比べて並べる作業は面倒だと思っていたはずなのに存外と面白く、夢中になって荷を広げた。
膠や絵の具皿を出し、がらんどうとしていた工房にぽつりぽつりと色の灯る嬉しさに浮足立つ。
この空間が自分のものだと、荷を広げるに従ってまるで犬が縄張りを主張しているかのような満足感に充たされて……
かつて住んでいた部屋の不便さと狭さ思い出し、この恵まれた場所を見渡した。
古さが自慢だった家は、中に入ると更に古臭さに磨きがかかり、床に置いた筆が独りでに転がって行くことは勿論、隙間風に雨漏り、歓迎し難い虫などで落ち着いて絵が描けると言う言葉とは無縁の場所だった。
これで、思う存分作画に没頭できる。
そう思うと心が弾むも、わざと思い出さないように努めていた事柄が胸の辺りを刺した。
多恵、
もうその名前は口に出すまいと息巻いてみても、気づかぬうちに脳裏に浮かぶものはどうしようもない。
友人にさんざん慰めを言われたにもかかわらず未練がましい、女々しいものだと嘲笑が零れる。
美しい女だった とは、言わない。
そう言う女ではなかった。
けれど、心根の優しい女だった。
「離れてなお思い出すなんて、未練がましいな」
筆を揃えていた手が止まり、うすぼんやりと蜉蝣のような女の姿を思い描いた。
あの絵だ。
あの、竹に絡む藤、その下の女。
あれがすべての始まりだ。
それを描かずにいれば……と、思わなかったわけではない。
「だが、それでこれを手に入れた」
さわりと女を撫でるように床を撫でてやると、木目の柔らかで優しい感触が掌をくすぐる。
古い畳では感じることのできない、青い藺草の放つ芳香がこちらまで漂う。
今までの生活と、雲泥の差があるのは否めない。
今日来たばかりでこの屋敷の何を知っているのだと笑われようが、それでもこの瞬間、与えられた物や居場所に満足している自分がいるのは事実だ。
「多恵……」
つぃ と言葉が突いて出た。
「──すまない」
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