36 / 192

闇夜の皓 12

「ところで、だ」  捲っていた手が止まり、川蝉が姿を現す。  それをこちらに投げながら「紹介はしてくれないのか?」と焦れたように翠也の方に顎をしゃくってみせた。 「あぁ、南川翠也くんだ」  翠也を手招いて肩に手を置く。 「言わなくてもいいことなんだが、こいつは田城玄上。しがない絵描きだ」 「おいっ」  そう声を荒げるが、声音とは裏腹に顔はにやにやと笑ったままだ。 「ほらよ」  もう一冊、写生帳を投げて寄越す。 「でもあれだ、鴛鴦って言ってなかったか?」 「あれはもう仕上がるよ」  手の中の二冊の写生帳を見ると、今にも飛び立ちそうな霍公鳥と川蝉が幾つも描かれている。 「これは次の依頼の分だ」 「へぇ、お前にしちゃ早く描いたな。次の依頼もあって、いいことだ」 「翠也くんから依頼をもらってな。これ借りて行くぞ」 「やるよ」  そう言うとはぁと息を吐いてまた首筋を伝う汗を拭く。 「それで?」 「それでって、これだけだ」  目的のものは手に入れたし、翠也が工房を堪能したらさっさと帰りたい。 「俺はてっきり、その子のことかと思ったぞ?」  急に話を振られ、大人しく座っていた翠也はぎょっとして玄上を見上げた。 「君、どこか画廊に出入りしてるのかい?」 「え……あの……」 「どこにもって言うなら、俺の馴染みのところを紹介しようか?」  訳のわからない翠也が俺に縋るような目を寄越す。  玄上の言葉を噛み砕いて教えることもできたけれど、胸の内に過ぎたひやりとした思いにそれを止めた。 「玄上、からかってやるな。翠也くんはそう言う冗談が苦手なんだ」 「いや、お前……」  言いかけた玄上はふんと鼻を鳴らして肩をすくめる。 「感心せんぞ?」  そう言う玄上を睨み、手元の川蝉に目をやった。  玄上の言いたいことは良くわかる。  俺がしたのは、画家として翠也が一歩踏み出せる機会を握り潰したのだから……  視線を逸らして黙り込んだ俺に呆れかえるような溜め息が聞こえる。   「…………まったく。それ、気に入ったのかい?」  声は俺を飛び越えて翠也に向けられていた。  そろりと様子を窺う犬のような気分で視線をやると、翠也は真剣なまなざしで壁にかけられた匂菫を見詰めている。  その目は、きらきらと見たことがないほど輝いていて…… 「はいっ」    勢いのいいはきはきとした返事をする翠也を、俺は初めて見た。 「まるで香りがここまで届くようです」  その姿が新鮮と思うと同時に、胸に湧いた黒い感情の当たりどころを見つけられずにぐっと唇を噛んで下を向く。

ともだちにシェアしよう!