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藤の女 1

 そう長い時間を並木の屋敷で過ごしたわけではなかったので、来る時に中天にあった太陽はあまり大きくは動いてはいなかった。  目が眩みそうになる暑い日差しに辟易し、どこかで冷たいものでもと誘うが、 「疲れました……卯太朗さんだけで行ってください」  そう素気無く断られた。 「いや、そうか。君が行かないなら帰るか」  肩透かしを食らった気分で返す。  普段、屋敷に籠もりがちな翠也が外に出たのだから……と、気を利かせたつもりだったのだが。 「いえ、僕のことは気にせずに……」  笑顔を作るために口角を上げてはいるが、その目は薄暗くて今にも雨を降らしそうだ。  慣れない外出が疲れたのか、視線も合わせずに帰路は黙々と足を運ぶだけで。  行き道はあんなにも元気で二人楽しく外出できたと思っていたのだが……  屋敷に着いて工房にと誘おうとした時も色の悪い顔で俯き、「少し横になりたいので」と断られてしまった。  からりん……と軽く儚い音を立てて仕上げ用の筆が転がる。  背中をずらし、壁の冷たい部分を探して落ち着くも、そこもあっと言う間に体温でぬるみ、再び体をずらして涼を探す。  後わずかで完成と言うのに、筆が乗らなくなってしまった。  目の前の鴛鴦よりも、廊下を挟んで向こうにいる翠也のことが気にかかってしかたがないからだ。  息を潜めて翠也の気配を探ってみるも、ことりとも音がしない。 「……陽射しが、きつすぎたか」  申し訳ないことをしてしまったと思うと気が滅入り、どうにも絵に向き合うことが苦痛だった。  ごろんと横になると、向かいの壁に涼を留めた絵が見える。 「……いい……絵だな」  伸ばして届くはずはないのに、指を伸ばして触れたくなった。  まったくもって……参る。  同じ洋画を描く人間ならばどうだろうか?  翠也の才能を前に、俺よりももっと落ち込むんだろうか?  玄上ほど自信と実力が拮抗しているのであれば、そんなことはないのかもしれない。  ふと玄上が翠也に言った言葉を思い出して気が滅入る。  そう、翠也の絵はどこに出しても恥ずかしくない、いや……むしろ世に出すべきなのだろう。    けれどあの絵を額に入れずにこのままにしておきたいと思うように、翠也もこの工房の中に閉じ込めておきたかった。  これは……独占欲だ。  翠也もその才能も、絵も、誰にも見せたくない。  他の誰にも翠也の絵を評価させたくなかった。  すぐに恥じらう姿を知られたくない。    あれは、俺だけが知っていたい。  ……そう、俺だけが。 「…………」  執着しているのだと知り、鼻白んだ。  

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