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真新しい画布 3
「金をちらつかせて、脅しつけて……旦那様が首を縦に振りもしないのにお嬢様を無理矢理 っ」
きぃっと上がりそうになった悲鳴を堪えるために、志げは両手で顔を覆った。
「……あの時、私が目を離さなければねぇ」
はぁと肩で息を吐く姿は、開きそうになった記憶の蓋を再び押さえつけることができたように見える。
「手籠めておいた癖に、男爵よりも子爵の血筋だと……お嬢様をっ」
落ち着いたはずの志げの声が再び荒くなった。
自身ではどうしようもできない激情を押さえるために、その萎んだような……けれど重荷を背負い続けた背を撫でる。
「落ち着いてください」
そうとしか言えない俺の言葉に、志げは曖昧に頷き返す。
「捨て置いてくれればいいものを、元の家名があるために放り出しもしてくれんで……落ちぶれて、傷をつけられて……それでも家を守ろうとしたお嬢様には他に何もできんかった」
ただ甘んじて、あの男の妾になるしかできなかった……と呟くようにいい、志げはすべてを吐き出しきったかのように肩を落とす。
だからなのか……と、萎んでしまったように見える志げを眺めながら思う。
峯子はこの家を再び甦らせたいからこそ翠也に小言を繰り返し、折に触れて外へ連れ出そうとするのか。
「そんなことが 」
「だから、昔からいる使用人はああなるのさ」
重い責任の一端を担った彼女の吐露は、わずかでもその心を軽くすることができたのだろうか?
俺に事情を教えたいというよりは、いって肩の荷を下ろしたかったのではと思った。
翠也に抱いていた、共に正妻の子ではないと言う親近感に近いような感情が微かに薄れてしまったように感じた。
端から欲を吐き出すための相手と言うのではなく、一度でも妻にと望まれた母から産まれたのでは……雲泥の差だ。
自分勝手に、どこか裏切られたような気分になりながら工房へと戻る。
「 そうか」
翠也は、妾腹とは言えこの家を継がなくてはいけないのか……
眺めた庭に咲いていた花は寂しくなり、代わりに向こうの方に秋に咲く花が風に揺れているのが見える。
多恵も、翠也も、実は自分のような人間が傍に居ていい相手ではないのかと、ふと思い至って膝を抱えた。
偶々に、偶然に、運よく認められた画家の端にいるような人間には、まるで縁のない世界だ。
その事柄に、目が回る。
また俺は手に入らないものを欲しがろうとしていたのかと思うと、無性に寂しさが込み上げて……
願わくば、比翼の鳥のように共にありたいと思ったが、けれど俺と翠也では翼の大きさが違いすぎて、俺の小さな翼では支えることもできずに墜ちるだろう。
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