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第1話

「椿が死んだ」  同い年のいとこの燕からの電話、開口一番に彼女はそう言った。  受話器をきつく握り締めた雪斗が、「そうか」とだけ答えると、うん、と彼女は言い、それから通夜や葬式の日程を教えてくれた。双子の兄を亡くしたというのに、数年ぶりに聞く彼女の声は震えていなかった。 「燕」 「なに」 「……絶対、葬式、行くから」  雪斗の言葉に、燕は、「待ってるね」とだけ言った。そして、じゃあ、と二人は通話を切った。受話器を置いてから、やっと息を吐いたけれど、それでも行き場を失った残りの重たい息が喉奥をきつく締め付けた。  廊下に置かれた電話の前で、どれだけ立ち竦んでいたのだろう。玄関のドアが開く音、仕事から帰ってきた母親の声にさえ、気づかなかった。 「雪斗? どうしたの?」  自分の横に立って、不思議そうに顔を覗き込んだ母親の顔を見て、我に返った。 「椿が、死んだって」  母の息を呑む音が、冬の空気で冷え切った廊下に響いた。そうしてやっと、これが夢ではなく、現実なのだと、雪斗は思った。  五年ぶりに見る熱海の海は、空を覆う鈍色の雲と同じ色をしていて、昨晩から降り続く雨がいつ雪に変わってもおかしくないような寒さだった。東京よりも暖かいイメージがあったけれど、今日は東京よりも冷え込んでいるかもしれない。 「……なんか、まだ実感が湧かないわね」  新幹線の車窓から、視線を隣に座った母に向ける。気にかけていた甥を亡くして、いつもよりずっと口数が少なかった。 「いくらなんでも、早すぎるわよ」 「……そうだね」  新幹線がゆっくりと速度を落として、駅のホームへと入っていく。最低限の荷物を荷台から降ろして、二人はドアへと向かった。 「雪斗、おばさん」  改札を通って、聞こえた声に顔を上げると、華奢な少女が立っていた。焦げ茶色の長い髪を胸のあたりまで垂らして、色素の薄い瞳はこちらをじっと見つめていた。肌が白いためか、寒さのせいで赤らんだ頬の色がやけに目立った。 「燕ちゃん、迎えに来てくれたの」  と、母が挨拶の代わりに彼女を抱き締めて、彼女も戸惑ったように微笑んで抱き締め返した。それから、燕は雪斗を見て、 「ユキ、背、伸びたね」 と笑った。最後に会ったとき、ふたりの背丈があまり変わらなかったことを思い出した。それから、ユキ、という、彼女と、彼の兄しか呼ばないあだ名の響きが懐かしかった。 「二年も経って、伸びてなきゃ困るだろ」 「はは、そうだね」  予想していた以上に、燕は元気そうだった。いや、そう見えるだけだ。双子の片割れを失っても、気丈に振る舞う彼女に胸が痛くなったのは、雪斗だけではなかった。母親が、燕の両手を自分の両手で包み、大事そうにぎゅっと握り締めた。 「燕ちゃん、無理して笑わなくてもいいのよ」  叔母の言葉に、燕は微笑んで、「ありがとう、おばさん」と答えるだけだった。そして、 「タクシーを呼んであるの。行こう」 と叔母の手をそっと離して、駅の出口へと足を向けた。  タクシーの中で、雪斗は口を開かなかった。隣に座った母親と燕の会話、それからカーステレオから漏れる地元FMのラジオパーソナリティーの話し声が混じるのを聞きながら、窓の外を見つめていた。休暇も終わった時期のためか、観光地とは言え、閑散としていた。見覚えのないコンクリート壁のホテルが建ち並んでいて、そこになにがあったのか、もう思い出せなかった。 大通りを過ぎて、急な坂を少し上ったところに、こぢんまりとした旅館に辿り着いた。タクシーは駐車場の隅に停まり、運転手と雪斗でトランクに積んだ荷物を下ろした。 それから、燕の案内で大広間に向かった。親戚が一堂に会して食事をする際に使っていた大きな卓袱台も、床の間に飾られていた大きな花瓶もなくなっていた。 その広い部屋の真ん中に敷かれた布団の上に、彼はいた。その体には白い布が掛けられていた。立ち込めたそのにおいは、死のそれだった。焚かれた線香の煙が、細く、細く、揺れていた。 「……私、お葬式の準備、手伝ってくるから」  燕は、雪斗の背中に声を掛けて、部屋から出ていった。その後ろ姿を見送ってから、そっと、彼の横に座る。陶器みたいに白い肌は、さらに白くなっていた。今にも血管が透けて見えてしまいそうだと思うほど。伏せられた瞼を縁取る長い睫毛も、つややかな黒髪も、どこか作り物みたいに見えた。ツバキの花のように赤かったはずの唇の色は褪せてしまっていた。 「……椿、」  そう囁いても、不機嫌な声は返ってこなかった。死人の様子を眠っているようだと人々はありきたりな描写で喩えるけれど、そんな陳腐な描写を選ぶべきではなかった。椿の魂は、もう、どこにもない。燃え尽きる直前のような、火の粉を散らしながら燃える炎に似た彼の魂は、音もなく消えてしまったのだ。 「おまえ、死んだの」  目元にかかった長い前髪を払ってやったとき、触れた皮膚はひんやりとしていた。体温のない椿の身体に、やっと、死を実感し始める。椿が死んだ。椿が、とうとう死んでしまった。包丁で三百回刺しても死なない、というような顔をしていたあの男が、死んだのだ。 :  椿は、からだの真ん中に通った芯と、それを包む肉体のバランスがうまく取れていないような少年だった。生まれつき彼の心臓に病魔が棲みついているのと同じように、彼は生まれたころから短気で、乱暴だった。それでいて、人を惹きつけるなにかを持っていた。きっと、その心臓の奥で燃え滾る炎が大きく揺らぐたび、ちりちりと火の粉が舞って、消えまいと耐える美しさが、彼の姿に現れていたのだろう。  そんな彼と血肉を半分に分けた、彼の双子の妹の燕も、控えめではあるものの、意思の強い少女だった。椿と対等な立場でいられるのは、後にも先にも彼女だけだ。  そして、その双子と血のつながりを持つ雪斗は、生まれたときから父親の転勤で東京に引っ越すときまで、正確に言えば十五歳の頃まで、双子と四六時中一緒にいた。  体が成長するにつれて、発作が起こる回数も少なくなったため、椿は雪斗や燕と同じように中学校へ通った。それまでは、体調が優れる日でも保健室登校をしていたため、同じ学年であっても、椿を知っているのは、ほんのわずかの生徒だけだった。  椿は、初対面の人間に対しても、容赦しなかった。それゆえ、不良グループに目をつけられた。 子ども同士の喧嘩、と言うほど、かわいいものではなかったと今になって思う。  夏のある日、放課後のことだった。水泳部だった雪斗は部活を終え、友人と帰宅しようとしていた。そのとき、サッカー部の友人が雪斗を呼び止めた。 「おまえのいとこ、不良の奴らと喧嘩してるって」  サッと血の気が引いた気がした。友人たちを置いて、雪斗は駆け出した。濡れた水着やタオルの入ったカバンがやけに重たく感じた。濡れた髪から滴る水滴が、プールの水なのか、自分の汗なのか、わからなかった。 現場となった体育館裏には、人だかりができていた。人混みをかき分けて、雪斗は息を呑んだ。 「もういっぺん言ってみろ」  生徒たちの円の中心に、椿はいた。その右手には金属バットが握られていて、血がついているのがわかった。長い前髪の下に隠された瞳は、彼の目の前で尻餅をついたような体勢で椿を見上げる不良グループのリーダーを見つめていた。 「さっきと同じこと、もう一回口に出したら、おまえのこと、このまま、殴り殺してやる」  しん、とした空間に、椿の低い声が響いた。明確な殺意を含んだ声を、雪斗は聞いたことなかった。足が竦んだ。  そのときだった。人混みの中から一人の少女が出てきて、椿と不良のリーダーの間に立つようにして、椿に向かい合った。パン、と乾いた音を聞いてから、その少女――燕が、椿の頬をつよく平手打ちしたのだと理解した。不意の彼女の行動によろめいた椿の手から、燕は金属バットを奪った。 「この人の言う通りよ、椿の体、もうボロボロだよ」  そのバットについていた血が、燕の制服のスカートを汚した。 「人を傷つけることしかできない弱虫のくせに、『殺してやる』なんて、笑わせないで!」  燕のあんな怒気を孕んだ大声を聞いたのは、そのときが初めてだった。兄妹喧嘩をするほど仲が良い双子ではなかった。学校では他人のように振る舞っていたのに、と思った。 「おまえになにがわかるんだよ」 と、椿が燕の胸倉を掴み、その拍子で燕は後ろに倒れ込む。それに構うことなく、椿は燕に馬乗りになって、体を揺すった。 「健康に生まれたおまえに、なにがわかるんだよ」  今にも燕に殴りかかろうとする椿を見て、雪斗の足はやっと動いた。椿を羽交い絞めにするようにして抱え、彼女から引き剥がすと、「雪斗、てめえ、邪魔するな」と喚き散らした。雪斗が何も言わず、椿の細く、軽い体を引きずるようにして保健室へと向かおうとしたとき、やっと教師たちがやってきたのだった。 :  葬式が始まる前、玄関先に見知らぬ青年を見かけた。椿にはこれといって仲の良い友人もいないから、と近しい親族だけを集めて、自宅で葬式を挙げる予定だったから、思わず、 「椿の知り合い?」 と、声を掛けた。  こくりと肯いた男は、自分と同い年くらいに見えた。制服に黒いコートを羽織り、ふわふわした黒い癖毛と大きなアーモンド形の瞳が印象的だった。白い頬と血色のない唇が彼を不健康そうに見せていた。 「線香、上げに来てくれたのか」  そう尋ねれば、彼はまた肯いた。喪主である椿の両親は葬儀屋とずっと話し込んでいるようだったし、彼の知り合いかもしれない燕も、彼女の両親に代わって買い物へ出てしまった。椿の友人ならいいか、と彼を連れて、大広間へと向かう。  線香を上げて、手を合わせてから、彼はじっと椿を見つめた。 「……椿、本当に死んだんだね」  初めて聞いた彼の声は、感情の読めない声だった。悲しさとか、怒りとか、悔しさとか、そういうものもまったく感じ取れなかった。 「……おまえ、椿の友達なのか」  雪斗を振り返った青年は、その大きな瞳を細めて、友達ではないよ、と言った。「じゃあなに」と訊くと、彼は黙って椿の唇に自らの唇を重ねてみせた。遺体には菌があるんじゃないか、と思ったけれど、直後にそれは人にうつる病気のときだけか、と白血病で死んだ祖父のことを思い出した。 「……時雨、」  背後から聞こえた声に、ふたりはハッとして振り返った。そこには、右手に買い物袋をぶら下げた椿が立っていた。つばき、と名前を呼び掛けて、その音を呑み込む。その手から買い物袋が落ちて、畳の上で重たい音を立てた。時雨、と呼ばれた男につかつかと歩み寄った椿――ではなく、髪を切ったせいで彼に見間違えるほどの容姿になった燕が、思い切り、その右手を目の前の青年に振り下ろした。  パン、と乾いた音が響く。ああ、なんだか、昨夜見た昔の夢で、似たような光景を見たな、と雪斗はぼんやりとした頭で思った。平手で強く打たれた青年は、頬を抑えて、それから、燕を見上げた。 「燕、それ、なんの真似」  そう青年が呟きたくなるのもわかった。あんなに椿と血がつながっていて、顔がそっくりなのを嫌がっていたくせに、とんだ嫌がらせをするものだ。横にいる椿と、見分けがつかないほどだった。 「あんたには関係ない」 「双子なのに、似てないね」 「どの面下げて来たの」  すっと通った鼻筋も、顎から耳にかけての輪郭も、耳の形も、長い睫毛が下瞼に落とす影さえも、鏡に映したようだ。思えば、椿と燕は声もよく似ている。椿が声変わりする前まで、ふたりの声色は、家族でも聞き分けるのが難しかった。 「……誰のせいで、椿が死んだと思ってるの」  首を絞めかねない勢いで、燕は時雨の胸倉を掴んだ。 「あんたのせいで、あんたのせいで椿は死んだのよ!」 「燕、やめろ」  と、雪斗は燕を羽交い絞めにする形で彼から引き剥がしたが、彼女は上擦った声で叫ぶのをやめなかった。 「あんたが椿を殺したのよ、あんたが、あんたが死ねばよかったのに!」  それから、ふっと糸が切れたように脱力した彼女は、雪斗に凭れかかるようにしてしゃがみ込んだ。それでも、目の前にいる青年の表情は変わらず、彼がなにを考えているのか、わからなかった。ゆっくりと立ち上がり、脱いでいたコートを羽織った。 「……ごめん」  もう、来ないから。  そう言い残して、彼は縁側から出て行った。嵐が過ぎ去ったような静寂が戻り、雪斗と、燕と、黙って横たわる椿だけが取り残された。 :  いちばん古い、椿に関する記憶は、たしか、五歳の頃のものだ。 「ユキ、海に行こう」  真夏の昼間だった。エアコンと扇風機の羽が回る音、病室のベッドのシーツの白色と、点滴に繋がれた細い腕が雪斗の服の裾を引っ張ったのをよく覚えている。  どうしてその部屋に親も、看護師も、医者もいなかったのか、その言葉に自分がなんと返事をしたのかは思い出せないけれど、その会話の後、椿は点滴の針を自分で引っこ抜いて、病室のベッドを抜け出した。それが椿の何度目の脱走か、もう誰にもわからない。ただ、それは、死がさらに彼へ近づいた出来事のうちのひとつだった。  台風が近づく中、椿は荒れる海を見に行った。親族、近所の人、椿の家の旅館の利用客、病院の関係者が椿を探し、半日が経つ前に警察も捜査に参加した,  椿がベッドを抜け出した次の日の夜、テトラポットや岩場に隠れるようにして蹲っている椿を、近所の消防隊員が発見した。衰弱しきった彼は集中治療室に運ばれて、丸二日間、目を覚まさなかった。ようやく意識を取り戻した椿は、厳しい父親にも、優しい母親にも抱き締められて、声を上げて泣かれたが、それでも、涼しい顔をしていた。薄情者、とはこういう奴のことを言うのだと、今になって思う。  美人薄命、とはよく言ったもので、彼は美人だった。男に美人、という言葉を当てはめるのもおかしいかもしれないが、端正な顔立ちや細く長い手足、光を透き通すような瞳や髪、神さまが丹精込めてつくったような容姿をしていた。小さい頃から天使だなんだと周りからもてはやされ、祖父から与えられた名前が花を冠していたことで、昔はよく女の子に間違えられていた。彼の乱暴さには、それらも少なからず影響していたのだろう。 :  文字通り、椿が灰になったその夜。午前三時を回っても、眠気が訪れなかったため、ダウンジャケットを羽織り、マフラーを巻いて、寝静まる家をそっと抜け出して、坂の下の浜辺へと向かった。  踏み出す一歩が重たく感じる。さらさらとした白い砂は、粉骨を思い出させて嫌になった。遠くの灯台の光が大きくなり、それから小さくなって、何度もそれを繰り返していた。  明日は、冬にしては珍しく、大雨が降る予報だった。そのためか、海も荒れていた。上にホテルを乗せた岸壁に、白い波が打ち付けていた。  椿が死んだのだと実感するたびに、自分の中にあるなにかが欠けていく気がした。椿にとっても、“いとこ”という微妙な関係性や距離感がちょうどよかったのだろう、他の人に対する態度に比べ、雪斗に対するそれは少し柔らかかったと、今になって思う。学校での喧嘩の後、また病院に連れ戻された椿は、ベッドの上で雪斗を見つめた。 「俺が死んだら、ユキは泣くなよ」  誰が泣くか、と返したら、彼はけらけらと笑った。 「湿っぽい葬式は嫌なんだよ、じいちゃんのときみたいに」 「……おまえ、じいちゃんの葬式には出てないだろ」  雪斗がそう返すと、彼はまた笑って、それから苦しそうに心臓のあたりを抑えて、激しく咳き込んだ。細い喉がひゅうひゅうと鳴っていた。慌ててナースコールを押して、それからのことは、よく覚えていない。  雪斗がこの街を離れてから、二年のうちに、椿はなにか変わったのだろうか。少なくとも、燕との関係は前と比べたら良好になっていて、あの感情の読めない友人ができたのは事実だった。  あの椿の友人のことを思い出しながら、ふと、海に目を向ける。真っ黒に染まった海の中、ちらりと人影が見えた気がした。  見間違いだろう、とふたたび階段に腰を掛けようとして、やめた。  燕が、時雨、と呼んだその男の後ろ姿にそっくりだった。「ユキと入れ替わるみたいにして、この街に来た。どうして椿と仲良くなったのかは、よく知らない」とのことだった。それ以外は、なにも知らない。ただ、その後、「……髪、切らなければよかった」と泣いた燕を思い出して、時雨まで失ってはいけないと思った。彼女には、椿との思い出を共有できる誰かが必要だと思った。たとえ、それが、彼女が憎む相手であっても。  気づけば、マフラーを解き、重たいダウンジャケットとスニーカーを脱ぎ捨てて、海へと飛び込んでいた。おい、待て、と何度も繰り返して、それから、 「時雨!」 と彼の名を叫んだ。  そこでやっと、荒波の中を藻掻くように進んでいた彼が足を止め、振り返った。同時に、大きな波が彼に覆い被さった。  波に揉まれながら、手探りで彼の腕を掴み、引きずるようにして浜辺へと向かう。いつもよりずっと高く、黒い波は、何度も何度もふたりを連れ戻そうとする。ぐっしょりと濡れた服が肌に張りつき、鉛のように重かった。  やっと辿り着いた砂浜に、時雨を突き飛ばした。雪斗は倒れこんだ彼の薄い腹に馬乗りになり、その両肩を掴んで揺すった。 「馬鹿野郎! 死にたいのか!」  そう叫ぶと、気管支に入り込んだ海水が喉を締めて、ひどく咳き込んだ。時雨は感情の読めない瞳で噎せる雪斗を見上げた。二人分の荒げた呼吸が混ざる。吹きすさぶ風が二人の体温を奪っていくのがわかる。怒鳴る気力も失って、雪斗は時雨の肩に頭を凭れた。  時雨は、泣きじゃくる子どもをあやすように、雪斗の濡れた髪を撫でた。 「……椿が、向こうにいたから」  その言葉に、全身から力が抜けていった。抱き留めるように、掠れた声でそう呟いた時雨の体に縋っても、彼はじっと海を見つめていた。 「……助けてって、言ったから、今度は間違えないようにって、思ったんだ」  どくどくと心臓が脈打つ音が聞こえる。それが自分のものなのか、それとも時雨のものなのか、雪斗にはわからなかった。 「……椿、海に入ったんだ、あの夜。一緒に海に行こうって言われて、手を引かれたけど、僕は行かなかった。今日みたいに寒くて、波も高かったから。首を横に振ったら、椿は僕に向かって『薄情者、』って、言って、そのまま、向こうに行っちゃった。その後、燕とか、近所の人たちが来て、捜索の船を出した漁師の人たちが見つけて、引き上げられて、でももう、椿は息をしてなかった」  時雨の腕が、雪斗の背中に回る。ぎゅう、と力を込めた彼の両の拳は震えていた。 「……僕は、あの手を、振り解いたんだ」  静かに泣いた時雨を抱き締め返して、雪斗は、燕の言葉を思い返していた。「あんたが殺した」。きっと、椿を追いかけなかった時雨を責めたいわけではないのだろう。誰かのせいにしたくて、たまたまそこに居合わせたのが時雨だったから。寂しがり屋の椿が選んだのが、時雨だったから。 : 「おまえ、なんで海に行きたがるの」  時雨が街を出る前夜、雪斗と椿はふたりで囲炉裏を囲んでいた。三月といっても夜はまだ冬のように冷え込んでいて、ここが家の中で最も温かい場所だった。 「なんでそんなこと訊くんだよ」 と、毛布にくるまった椿はからからと笑った。祖母が注いでくれたホットミルクを「不味い」と顔を顰めながらも飲み干して、じっと雪斗を見つめて、静かに答えた。 「海が呼んでるから」  詩人の霊でも乗り移ったのか、と冗談を言いかけて、やめた。雪斗が至極真剣な顔をしていたから。 「……ベッドに横になるたび、鮮明に聞こえるんだ。波の音とか、砂が擦れる音とか、そういうのが。眠るたびに海の向こうの景色を見るんだけど、起きたら忘れてる。俺は、それを見に行かなきゃいけないんだ」 「……それ、俺も一緒じゃ駄目なの」 「うん、俺だけが見れる。俺だけを呼んでるから。おまえでも、燕でも駄目」  そうか、とだけ言えば、彼は、うん、とだけ言った。 「……この話するの、後にも先にもおまえだけだからな。他の奴らには絶対言うなよ」  そう念押しされて、黙って頷いたのを、なんとなく、帰りの新幹線の中で思い出していた。 : 「時雨が死んだ」  同い年のいとこの燕からの電話、開口一番に彼女はそう言った。  受話器をきつく握り締めた雪斗が、「そうか」とだけ答えると、「うん」と彼女は言った。  時雨、と名前を声に乗せれば、鮮明に彼の姿が浮かび上がる。三か月前、いとこの椿の葬式の日に出会った、彼の友人。 「……交通事故に、遭ったらしくて」  三か月ぶりに聞く燕の声は、弱々しく震えていた。彼女を慰める言葉を見つける代わりに、最後に見たあの海を思い出していた。なんの穢れもない、澄み切った真っ青な冬空を映して、穏やかに揺らめいていた。新幹線の車窓から見えた白く光る水平線の向こうに、椿はいるのだろうか。あの先に、いつか辿り着けるのだろうか。  でも、いくら瞼を閉じても、どうしても、彼がまだその海の手前で笑っている姿しか見えなかった。あのとき、新幹線のタイヤが擦れる音と空気が切れる音に掻き消されて、波の音も、もう聞こえなかった。

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