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続・模武たちの平行線 (3)

 打ち合わせ室に入ると、神崎室長は、扉に続いてブラインドも閉めた。  六人掛けのテーブルが真ん中にあるのに、座ろうとはしない。  私たちは、人ひとり分の距離を挟んで向かい合った。 「すみません、お忙しいのに」 「いや、大丈夫。支社長がいない秘書室は、案外暇なんだ」  神崎室長の冗談めいた声は、労わるように穏やかで、優しい。  ああ、やっぱり全部バレてる。  それにきっと、室長の心ももう決まってる。  それでも、私は言わなきゃいけない。  前に進むために。 「神崎室長」  見上げたふたつの瞳に、自分の姿がくっきりと浮かび上がった。  あまりに真っ直ぐに見下ろされたせいで一瞬怯んで、でも、負けるもんかと精一杯の勇気を振り絞る。   「私、室長のことが好きでした。初めて見た時から、ずっと」  もう何週間も前から覚悟を決めてたはずなのに、声が震えた。  この思いを過去のものにすることを選んだのは自分自身なのに、いざ言葉にするとまた抗いたくなってきてしまう。  だめだ。  制御できなくなる前に、早く、当たって砕けなきゃ。 「一度で良いので、私を抱いてくれませんか……っ」 「えっ」 「思い出がほしいんです。お願いします……!」  勢いよく折りたたんだ身体の上で、室長が息を呑む気配がした。 「あ、え、と、あ、あー」  室長の言葉になってない言葉が、後頭部に降り注ぐ。  その後も、しばらく「あ」とか「う」とか「その」とか、これまで室長からは聞いたことのない声と音が続いた。  さすがの室長にも、こんな告白経験はなかったってことだろうか。  室長の記憶の中の〝その他大勢〟にならずに済んだかもしれないと思うと、ちょっとだけ嬉しくなる。  折り曲げていた身体をゆっくりと元に戻すと、への字口の室長と目が合った。  ふぅ……と戸惑いを押し出すようなため息に続いて、室長の唇が真一文字に変わる。 「模武野さんの気持ち、すごく嬉しいよ。でも俺……」 「わかってます」  ずっと見てきたからわかる。  神崎課長には、大切な人がいる。  みんなは「女除け用のダミーだ」なんて噂してるけど、私にはわかる。  あのシルバーリングは本物だ。  室長が手の甲を見つめている時は、その人のことを想っている時。  これは、最初から叶うはずなんてなかった恋なのだ。 「入社した時から、今日までずっと室長のことが好きでした。私は、きっともう東京には戻りません。だから、きっぱりフラれておきたかったんです。自分勝手な理由で困らせてごめんなさい……っ」  室長の前で、いったい何人の女がこうやって涙してきたんだろう。  どこにでもいる女に成り下がりたくなくて絶対に泣かないと決めていたのに、一度溢れ出した思いは全然止まってくれない。 「ありがとう、模武野さん」  ぼやけた世界の中心に、ふいにグレーの四角が割り込んだ。 「応えられなくてごめんな」 「室長……」  差し出されたハンカチにはきっちりとアイロンがかけられていて、真四角に畳まれていて、しかも、淡い花の香りまでした。  もしかして、指輪の彼女がアイロンをかけたんだろうか。  柔軟剤のチョイスは、彼女に違いないーー最後の最後までそんなくだらない嫉妬をさせられてるのかと思うと、悔しくて悔しくてたまらなってくる。  どうせもう返すこともないんだから、思いっきり濡らしてやろう。  そう心に決め、私はその完璧なハンカチを室長の手から奪い取り、遠慮なく顔を埋めた。 「どんな人、なんですか」 「え」 「その、指輪の人」    どんどん色濃くなっていくハンカチでぐしぐしと鼻を拭いながら見上げると、神崎室長は左手を口元に当てた。  細いリングに埋まっている小さな石が、きらりと青を反射する。 「次の日の朝、目覚める楽しみを与えてくれる人……かな」  ……ああ。  ああ。  完敗だ。  思い浮かべるだけで、こんなにも優しい気持ちを与えてあげられる人に敵うわけがない。  悔しい思いはまだまだあるけど、求めていた結末を得られたからか、少しずつ心が落ち着いてくる。  涙はしばらく乾きそうにないけれど、心のどこを探しても、未練はもうどこにもない。  残っているのは、これまで感じてきたたくさんの思い。  室長と出会ってから、全てが変わった。  室長の姿を一目見られただけで、その日は大吉。  室長と挨拶できたら前世の徳を確信して、  室長に名前を呼ばれたら天にも昇る気持ちになって、  室長にガッカリされたくないから、仕事も一生懸命できた。  こんな気持ちがあることも、  自分がそれを感じられることも、  私は知らなかった。  恋をするだけで、  こんなにも人生に彩りが増えることも。  楽しいことばかりじゃなかったけれど、  今なら笑顔で言える。  私、室長と出会えてーーよかった。 「……室長」 「ん?」 「今まで、ありがとうございました」  私を見下ろすふたつの目が、ふるりと震えた。  薄い唇が何かを紡ぎだそうと歪んで、でもなにも言わないまま、室長はただかっこよく微笑んだ。  

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