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春のソナター2

『温室』と呼ばれていたその場所は、温室というよりも庭園といった方が近い様相だった。ドーム型の広い空間は入口と同じように芝生が敷き詰められ、天井には柔らかな光を放つ照明が備え付けられている。そんな『温室』の中心を陣取っているのはアンティーク調の美しいグランドピアノだ。ひと目で大切にしているのが分かるほど丁寧に磨かれたそれは、明かりを反射し輝いている。そしてそのピアノを囲むように両側には大きな階段状の花壇があり、春の花や花木が所狭しと植えられては鮮やかな色彩で『温室』を彩っていた。それに目を奪われながら奥へと進めば、大きなテラステーブルが現れる。更には簡易的なシンクと食器棚まで置かれており、まるで海外にあるティーガーデンのようだった。そんな夢のように美しい温室で、楓は現在背筋に冷汗を流しながらテラステーブルに付いている。目の前では淹れてもらった紅茶が温かそうな湯気を甘い香りと共に漂わせているのに、楓の周りの温度だけ真冬のように低い。それは単に、楓に向けられている三人分の冷たい視線のせいだ。 「高等部2年の花宮月(はなみやつき)。園芸部部長です。改めてよろしくね。」 そう嬉しそうに自己紹介をしてくれた彼は楓の来訪を心の底から喜んでくれているようだった。手ずから紅茶を淹れてくれ、にこにこと笑みを絶やさない。それに楓が浮かれていられたのは最初のうちだけだ。入っておいで、と招き入れられた温室で楓を待っていたのは月だけではなかった。 「いやー、良かったよ。今年も入部希望者がいなかったらどうしようかと思って。」 そう笑って月が紅茶に角砂糖を落とす。1つ、2つ、3つ…5つ。溶けきれるか分からない量の砂糖の塊が水面に当たって跳ねる音を聞きながら、楓は居心地悪く縮こまっていた。折角淹れてもらった紅茶も、少し前から湯気が見えなくなっている。 「入部希望者など居なくとも、俺たちがいるだろう。」 カチャリと陶器がぶつかる音が響いた。それに肩が跳ねるのを感じながら、そっと視線だけで音の鳴った月の左隣を伺い見る。その視線に気付いたのか、音の主はうっそりとした笑みで楓を迎え入れた。酷く優雅にティーカップから紅茶を飲みながら、好意の欠片もない視線を向けてくる癖毛が目立つ端正な顔立ちの少年。九条夜(くじょうよる)、と名乗ったその人は楓が入口で出会った少年だ。 「ダメだよ。お前ら、いくら教えても花の名前ひとつ覚えないんだから。」 「それはそうだけどさ。俺らも心配してんだよ、月。」 もうすっかり冷めたであろう紅茶に息を吹きかける月に、今度は柔和な声が話しかけた。夜の左隣に座る、少し垂れ目で明るい茶髪の優しそうな人。唯一楓に同情の視線を向けてくる天ケ谷紫苑(あまがやしおん)という名の先輩だ。彼は気遣うように眉を下げると、言いづらそうに口を開いた。 「また、一昨年みたいになったら困るだろ?」 「大丈夫でしょ。前も話したけど、良い子だったよ?」 ね、と同意を向けられてもどう反応すれば良いか分からない。そもそも楓には一昨年何があったのかも分からないし、分からなければ自分がそういう行動をしないとは断言しにくい。だからといってこの緊迫した雰囲気と楓に対する周りの警戒から、良くないことがあったことは流石の楓でも分かる。それを踏まえた上でなんと発言したものか。視線を彷徨わせながら思考を巡らせていると、苛立たしげな溜息が月の右隣から落ちた。その音に血の気が引いていく。この空間で楓が一番恐怖を感じている人物。温室に楓が入ってきた時から値踏みするように眉を寄せたまま、凍り付かせるような視線を向けてきた先輩。その人は、あの入学式の日に楓が怖いと感じていた生徒会副会長の少年だった。名を、清水蒼生(しみずそうせい)という。 「……大丈夫かどうかなんて、お前が決めることじゃないだろ。何かあってからじゃ意味が無いんだ。そもそも鍵掛けてたのに破って入ってくるか?立派な犯罪じゃないか。」 少し色素の薄い髪を乱暴に掻き混ぜて、蒼生は眉間の皺を一本増やした。精悍な顔つきが苛立ちで歪んでいる。しかし言っていることは正論で、楓には反論する余地もない。犯罪だと感じていたのは自分も同じなのだ。心臓が嫌な音を立てて鳴り続け、足が竦む。変な汗が背中に滲むのを感じながら蒼生の視線に耐えかねていると、ふいに楓の頭に暖かい手が乗せられた。驚く楓の耳にふふ、と柔らかな笑い声が届く。いつの間にか楓の背後に立っていた月が、楓を守るように蒼生を睨め付けた。 「あんま苛めるなよ。てか、お前がどうやって希望者募るかちゃんと言わないからだろ。あと頼んだ、って言ったのに。」 「あんな状況で言えるわけないだろ。それに鍵掛かってても本気で入部したけりゃ教師に尋ねれば良いんだよ。今日来たやつなんて全部、客寄せパンダの客だ。ただの野次馬ーー、」 「え?俺、パンダなの?」 蒼生の言葉を遮って、月が驚きの声をあげる。先程までの頼もしい様子とは一転、見上げた楓の視線の先でくるりと丸くなる瞳は子供のようだ。その変化についていけない楓の前で蒼生が苦虫を噛み潰したような顔で息を吐き出した。 「あのな。そんな事ひと言も言ってないだろ馬鹿。お前目当ての奴が居るから自衛しろって俺は言ったんだよ。一昨年みたいな事になったら俺が会長に怒られるんだぞ。」 「なんで蒼生が桂木に怒られるんだよ。俺が文句言いに行ってやろうか?」 「そうじゃなくて……!」 楓を挟んで二人の言い合いはどんどんヒートアップしていく。しかし聞いていると、話の論点を月が変な方向に転がすのでどうにも真面目な雰囲気になりきれない。最終的に押し負け口数を減らしたのは蒼生の方だった。 「……っ、の馬鹿!」 「馬鹿って言う方が馬鹿なんだからな。ばーか。ばか蒼生。」 最早小学生の喧嘩である。収拾がつかなくなってきた遣り取りに楓はオロオロと視線を彷徨わせるが、夜は我関せずと紅茶を飲んでいるし紫苑は苦笑を浮かべているものの止める気は無いようだ。その間にも益々幼稚になっていく二人の喧嘩を止めたのは、意外にも夜の揶揄い混じりの声だった。 「素直に心配していると言ったらどうだ、蒼生。」 「……うるさい。」 それまでの勢いを無くし、蒼生がバツの悪そうな顔で目を逸らす。ほんの少しだけ染まった耳に先程までの恐ろしい印象が形を潜めた。怖い事に変わりはないがこれまでの話を聞いていた楓としても、蒼生が真剣に月を心配している事は分かる。もしかしたら思ったよりも悪い人じゃないのかもしれない。そんなことを考えていると、二人が落ち着いたのを確認した紫苑が柔らかく口を開いた。 「月。さっきも言ったけど、皆んなお前のこと心配してんだ。でもお前が入部希望者を楽しみにしてた事も分かる。だから取り敢えず、その子に話聞こーぜ。それから考えても悪くないだろ?」 その言葉に全員の視線が楓に注がれる。それに一瞬身体が強張るが、月が宥めるように楓の肩を軽く叩いてくれたのでなんとか落ち着くことが出来た。ゆっくりと深呼吸をすれば身体の強張りも解けていく。楓はもう一度深く息を吸い込むと、向けられた視線に真っ直ぐ向かい合った。  楓が園芸部に興味を持った一番のきっかけは月の呼びかけがあったからだ。この学園に来て初めて出会った先輩。迷子だった楓を見つけて、助けてくれた。そのお礼がしたくて、もう一度あのピアノが聴きたくてここまで来たのだ。だけどそれが蒼生たちの懸念に触れないかと言われれば微妙なところだろう。下心がないというわけでは無いのだから。勿論、蒼生たちが思う邪な気持ちは無いが仲良くなりたいという思いはあった。だからそれを責められたらどうしようもないけれど。 「……それに、ちゃんと園芸部にも魅力を感じているんです。実家で、庭仕事は父と僕の役目で…世話をした分ちゃんと育ってくれる植物が好きだなって。ここの、温室の植物を見たら凄く手を懸けているんだって分かります。大切にしているんだって。素敵な場所だって思いました。僕もそのお手伝いが出来たらなって。だから、本当に勝手に入って来て申し訳ないんですけど……僕、園芸部に入部したいです。」 緊張しながらひと息に言ったものだから、最後の方は声が掠れて震えてしまった。心臓は耳に響いて痛いほど鳴っているし、握りしめていた手のひらは汗で湿っている。それでも言えたことにほっとひと息ついていると、ふと楓の背後で空気が揺れる音がした。月が笑ったからだ、と気づくよりも先に優しい声が落ちる。 「そう。……嬉しいなぁ。君みたいな子が来てくれて。俺のピアノもこの温室も、好きだって思ってくれたんだろう?……だったらきっと大切にしてくれる。君が来てくれて良かった。歓迎するよ、楓。あ、そうだ俺の事は月でいいよ。みんなそう呼ぶんだ。」 振り向いた先で、楓の髪をくしゃくしゃにした月が嬉しそうに手を差し出してきた。慌ててその手に自分の手を重ねれば、温かさに泣きそうになる。それをなんとか堪え、楓は笑顔で応えた。 「はい!よろしくお願いします、花宮先ぱ…えっと、月…さん。」 まだ口に慣れない名前は、きっとこの先たくさん呼ぶ事になるのだろう。そんな未来に心を馳せていると、楓の背後で盛大に息を吐く音が響いた。それに驚いて振り返れば、月以外の三人が脱力したように椅子にもたれかかったり、テーブルに突っ伏したりしている。その変わりように楓が目を白黒させている隣で口を開いたのは紫苑だった。 「あ〜〜良かったぁ!!良い子が来てくれて!夜と蒼生まじでこえーんだもん。しかも蒼生、月と喧嘩しだすしさぁ……俺、もうどうしようかと…。」 「いや……あれは月が悪いだろ…。というか俺怖かったか?夜の方がやばいだろ?」 不思議そうな蒼生に対し、幾分落ち着いた様子の夜が溜息を吐く。呆れた表情は先程までの冷たい印象とは異なり、どことなく楽しげだ。 「お前は一度鏡を見た方がいいな。真面目な顔のつもりだろうが、不機嫌そうで近寄りがたい。初対面でそれでは相手が可哀想だ。」 「悪口だろ、それ。……いや、もういい。お前と話すと疲れる。」 ひらりと手を振って蒼生は諦めたように息を吐き出した。憮然とした表情は変わらないが、不機嫌というよりは少し拗ねているように見える。その様子は夜が言うような近寄りがたい印象とはかけ離れているようだ。そのまま蒼生は自分の紅茶に口をつけると、チラと楓の方に目を向けた。考え込むような素振りに内心緊張していれば、おずおずとした笑顔を向けられる。楓の後ろで月が押し殺したように笑う声が聞こえた。 「……その、怖がらせてたなら悪かった。そういうつもりじゃなかったんだ。ただ、月…そいつ、無駄に顔だけ整ってるだろ。」 「なんだよ蒼生。顔だけじゃないだろ。」 「お前は黙ってろ。……それでだな、園芸部入部希望者っていうと、そいつの顔に釣られて勘違いした奴がホイホイ来るんだよ。それで一昨年結構大事になって…。」 その時のことを思い出したのか、蒼生が苦々しく息を吐きだす。はっきりと分かるほどの嫌悪感に月の様子を覗き見れば、柔らかい笑みで返された。確かにこれでは周りにいる人間は気苦労が絶えないだろう。 「そっからはなるべく温室に鍵掛けるようにしたんだよ。そんで入部希望者は、月じゃなくて俺たち…俺と、蒼生と、夜な。そこを通してくれって事にしたんだけどさ。……今日はバタバタしてたからなぁ。」 黙り込んでしまった蒼生に代わり、紫苑が苦笑しながら説明を続けてくれる。思い返せば部活紹介の時、確かに月は何かを言いかけていた。それがこんな事情に繋がるなんて。鍵にしても、好意的でない雰囲気にしても、全ては仕方がない事だったのだろう。それが分かっただけで楓も安堵の息を漏らす事が出来た。 「ほら、やっぱり蒼生がちゃんと言ってないせいじゃん。」 「だから、あの状況で言える訳ないだろ……!お前こそ許可も貰ってないのに無茶苦茶しやがって……!!」 「仕方ないだろ。ああでもしなきゃ今年も誰も来なかったかもなんだからな!そもそもお前が毎回毎回入部希望者を追い返すから……!」 「それはお前が……!」 また言い合いが始まった二人を横目に、冷めてしまったからと紫苑が新しく紅茶を淹れてくれる。夜は相変わらず我関せずだが楽しそうなのも変わらない。どうもこれがこの人達の日常のようだ。 「あいつら何時もあんな感じだから気にしなくていーぜ。あ、茶菓子も食う?」 「俺にもくれ、紫苑。……まあ、これから先は俺たちともよく顔を合わせるだろうからな。よろしく頼む、後輩。」 「あー、俺ら何時もここにいるからなぁ。」 改めまして、と紫苑たちが歓迎の意を示してくれた。軽い世間話ついでに自分達のことも話してくれる。この四人は大抵この温室にいるらしいが、園芸部なのは月一人だけで他はそれぞれ別の部活や委員会に所属しているのだとか。蒼生は分かっていたが生徒会、夜は茶道部、紫苑は軽音部らしい。そう言われてみれば部活紹介で紫苑と夜の顔も見た気がする。世間は案外狭い。 「部活多かったろ?あれで新入部員確保すんの難しくてさー。軽音部、なかなか居ないんだよね。誰かクラスに良い子いたら紹介してくんない?」 「茶道部も最近は少ないな。まあ、こういうものは縁だから気にせずともいずれはどうにかなるさ。」 「……夜のそういうとこホント羨ましいわ…。」  そんな会話をしながらお茶を楽しんでいると、言い合いが終わったのか月が此方へと近づいてきた。テーブルの上のクッキーに目を輝かせる様子に、紫苑が笑いながら新しい紅茶を注ぐ。それにまた大量の砂糖を溶かす横で、蒼生が疲れたように息を吐き出した。多分今度も言い合いに負けたのだろう。見た限り、一番真面目そうな蒼生は月の奔放さに勝てないようだ。それでも気にかかるのか眉間に皺を寄せながら世話を焼いている。それが何処となく微笑ましい気がするのは、蒼生に対する恐怖心が払拭されたからだろう。 「あ、そうだ。楓は楽器の専攻なに?ピアノ弾ける?」 相変わらず紅茶に息を吹きかけながら月が首を傾げた。その表情にはありありと期待が浮かんでいる。それに苦笑しながら楓は小さく首を振った。 「すみません。僕、調律師を目指していて楽器はあんまり……。ピアノ、少しなら弾けるんですけど。」 「へえ。珍しいんだな。……いいな、そういう目標があって入学っての。しっかりしてるっていうか。」 ふ、と蒼生が軽く笑みを浮かべる。この人、本当に普段の表情で損しているかもしれない。柔らかな雰囲気は近寄りがたさなんて感じさせないのに。しかもさり気無く褒めてくれるのが嬉しい。蒼生の言葉に照れていると、紫苑が話を引き継ぐ形で口を開いた。 「そんじゃ、高等部入学か。調律師のコースって高等部からだもんね。入学式どうだった?初だろ。」 「あ、えと…凄かったです!豪華で、洗練されていて…!初等部のマーチは可愛らしかったし、中等部のコーラスもすごく素敵でした。それから高等部の演奏も!あんな演奏を聴けるなんて本当に贅沢で……。」 気さくな紫苑に乗せられながら、今日の入学式で感じたことを話す。マーチやコーラス、何よりオーケストラの演奏。初めての豪奢な入学式は一生の思い出に残るものだった。あの演奏は今でも耳に残っている。 「それから曲も…式に相応しい優雅さなのに明るくて、楽しげで。聴いていて心が暖かくなるような曲でした。」 初めて聴いた曲だったけれど、惹き込まれるような魅力が詰まっていた。例えるなら春が待ち遠しいと微笑む表情を見つめるような。息を呑みたくなる程美しいのに暖かい。 「ほう……。そうかそうか。だ、そうだ。月。良かったな。」 「え、」 「ふふ、ありがとう。やっぱ褒められると嬉しいね。」 「え?」 少し照れたように頬を紅潮させて月が笑った。その表情と言葉の意味が分からない。楓はただ入学式の感想を言っていただけなのに、それがどうして月の『ありがとう』に繋がるのだろう。そんな疑問が表情に透けていたのだろう。月は可笑しそうに笑うと、ほんの少し意地悪く目を細めた。 「いま君が褒めてくれた曲、作ったの俺だよ。」 「……え?」 ーーあの曲を、この人が、学生の月さんが作った……? 「え、えええ!?」 驚き過ぎて素っ頓狂な声をあげる楓に、月は相変わらず綺麗に笑うばかりだ。それでもその発言を訂正する人間はここには居ない。ならば本当にあの曲を作った人間は月なのだろう。固まる楓の前で月と夜は悪戯が成功したように笑い合っているし、紫苑と蒼生は溜息を吐き出している。そんな中で月はもう一度楓に目を向けると得意げに微笑んだ。 「俺、結構凄いんだぜ。知らなかったろ。」 「し、知りませんでした……。」 その答えに満足したのか、子供のような満面の笑みに楓まで脱力する。なんというか、凄い人と知り合いになってしまった。これからの学園生活、穏やかに過ごせることを願っていたけれどこの感じはどう転んでも劇的だ。なのに嫌じゃない。 あの曲のように弾む未来を想像して、楓は胸を高鳴らせた。

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