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15歳

 退屈だった。  高校生活が始まって一週間。思っていたより遥かに偏差値の高いエスカレーター校になぜか受かってしまった僕は、一体どれだけハイレベルな授業がされるのだろうと不安に思っていたのだけれど、少なくとも今のところ、すでに知っていることばかりが授業で取り上げられていた。  退屈だった。だから、机に落書きをして遊んでいた。すると、前に座る生徒――確か、斎藤くんと言ったはずだ――が振り返り、僕の机に肘をついて言った。 「なぁ、退屈じゃね?」  僕はそのタイミングの良さに、思わず少し吹き出す。 「確かに、ね」  今も、英語の授業で文法の話をしているけれど、既に何度も受験勉強でやった範囲だった。出てくる単語も、見知っているものばかり。斎藤くんは僕の返事を聞くと、正面に向き直って何かを書いていた。そして、後ろ手にそれを僕に回してくる。 『次の授業、サボろ♡』  その男らしい筆記とハートマークのアンバランスさに、僕はなんだか気が抜けた。次は今日最後の授業、数学だった。数学もこの調子であることは、この一週間の経験で十分に推測できた。僕は少し考え込んで、そのメモの裏に『OK』とだけ書いて渡した。  授業が終わって休み時間に入ると、僕たちはカバンに荷物を詰め込んで教室を抜け出した。勢いよく下駄箱へ駆ける斎藤くんを追いかける。靴を履き替える斎藤くんに追いつくと、 「サボるの、初めてだろ」  そう言われる。僕は上がった息を飲み込んで、何度か顎を上下させて返事した。 「だと思った」  斎藤くんが僕に笑った。僕が斎藤くんの笑顔を見るのはそれが初めてだった。笑った斎藤くんの顔は、意外とかわいかった。 「じゃ、行こうぜ」  斎藤くんはそう言って、下駄箱から玄関へ向かう。僕は後ろを行き交う他の生徒たちの視線が急に気になって、一瞬足がすくんだ。僕は、授業をサボろうとしている。その事実を急に重く感じた。本当にそんなことをしていいのか? 前を見ると、斎藤くんは立ち止まって僕を見つめている。その真っ黒い目が、とても綺麗だった。僕はそれに吸い込まれるように、一歩足を踏み出した。一歩踏み出せれば、歩くことは難しくない。 「いいのかな、こんなことして」 「いいんじゃね、分かってる範囲なんだし。別に律儀に出席しなくてもさ」 「変な話だよね。入試のレベルより全然低いとこから授業するなんて」 「ほんとだよなー」 「あの、さ」  僕は先ほどから気になっていたことを斎藤くんにぶつけた。 「どうして、僕?」 「え?」 「いや、斎藤くん、僕と違うグループだと思ってたから。いや、まだ入学して一週間だしグループも何もないんだけどさ」  席近いのにろくに話したこともなかったし、とはさすがに言わなかった。  斎藤くんはうーんとしばらく考え込んで、 「お前がたまたま後ろにいたから……?」  その回答に僕は呆気にとられたあと、気がつけば笑っていた。 「斎藤くん、それ、めっちゃ失礼だよ」 「え、そうか? でも、それくらいしか理由ないし」  失礼に失礼を重ねる彼に、僕はさらに笑う。腹が痛いほどだ。僕は笑いが収まると、不思議そうな顔をしている斎藤くんに声をかける。 「さ、行こ!」  そうして僕たちは学校を飛び出した。  初めての自主早退に、僕はなんだか高揚した気分になっていた。頭の中で何かが分泌されている感じがする。それに対し斎藤くんは至極冷静に振る舞っていた。 「斎藤くんは、今まで何度もサボったことあるの?」 「あー、まあ、何回か。中学じゃ学年トップだったから、サボっても先生も何も言えない感じだったな」  すごいなあ、斎藤くん。同じ学校の人間なのに、僕とは違う世界の人間みたいだ。僕は学校をサボるなんてこと、考えたこともなかった。 「ていうか」  斎藤くんが続ける。 「その『斎藤くん』ってのやめてくれよ。超むず痒いから」  そう言いながら僕の背中を勢いよく叩いた。 「俺も下の名前で呼ぶからさ、俺のことも下の名前で呼んでくれていいよ。俺、ユズキって言うんだ。植物の柚に夜の月でユズキ。女みたいな名前だろ?」 「僕は、シュウヘイ。修めるに平らでシュウヘイ」 「男っぽい名前で羨ましいよ。親のセンスだよな。変に凝った名前なんて、つけてくれなくて良かったのに」 「悪かったね、平凡な名前で」  僕がむくれると斎藤くんは慌てる。 「あっ! いや、そういう意味じゃなくて」 「でも、僕はさい……ユズキ、くんの名前かっこいいと思うな」 「えぇ? どこが?」 「なんか、ユズキくんと全然イメージ合ってないところが、逆に良いって感じ」 「それ、褒めてる?」 「褒めてるよ! 僕としては最大限!」  ユズキくんはぷふっと笑って、 「おう、ありがとうな」  とだけ答えて僕にまた笑いかけた。 「それで、今日はどうするの?」 「せっかく早引きしたし、どっか行くか」 「どっか?」 「新宿行かない? ちょっと行きたいところあるんだけど」  新宿はこの高校から電車で一本だった。僕はちょうど帰り道の途中だ。 「いいよ、どうせ家もそっちの方角だし」 「お、いいね」  そうして僕たちは、新宿方面行きの電車へと乗り込んだ。いつもの帰宅より少し早い時間の電車は、奇妙なほどにスカスカに感じた。ユズキくんの隣に座る。 「斎藤くんは、家こっちなの?」 「ううん、俺は反対側。でもよく新宿は行くんだ」 「何しに?」 「でっかい本屋あるだろ、新宿に。そこに行く」 「ああ、紀伊國屋?」 「知ってんだ。本とか読むの?」 「全然、全く。紀伊國屋にも参考書買いに行ったことくらいしか無いかなあ」 「そうかあ。ついてきてもらっていい? 今日」 「うん、いいよ」  僕は高揚感からか、普段全く行かない紀伊國屋に行くことがなんだか冒険のように思えていた。ユズキくんは、さながら旅のガイド役といったところか。  電車を降りて本屋にたどり着く。普段入らない小説のいっぱい売っているエリアに、ユズキくんはずんずんと踏み込んでいく。 「今日は何か買う本あるの?」 「うん、海外文学の新刊が出てるはずなんだけど……」  海外文学! 馴染みのなさすぎる響きだ。ユズキくんは少し奥まった棚へと入っていく。当たり前だが、著者名がみんな横文字だ。ロシア文学の棚のところをユズキくんは見ているようだった。こうして見てみると、本当にいろんな国の本が翻訳されているのだと感心する。 「日本語ってマイナーな言語だけどさ」  ユズキくんが本棚をなぞりながら、 「日本語に翻訳されてる本の数は超多いんだぜ」  へえ。それを知ってこの棚を見ると、なんだか違った感情が湧いてくる。一冊一冊、これを翻訳した人がいるのだ。見てみると、確かにあまり知らないような国の本も翻訳されていることがわかる。 「なんか、すごいね」 「そう、すごいんだよ」  そう言いユズキくんは僕の手の上に一冊の本を載せた。分厚いロシアの本だ。 「じゃ、それ買おうか」  僕はそれもいいかなと思う。買うか……そう思って裏を見ると五千円と書いてある。 「無理だよぉ」  ユズキくんはそんな僕の情けないリアクションを見て笑っている。  それからもたびたび僕たちは授業をサボった。三ヶ月ほど経ち、期末試験も近づいてきた頃、マクドナルドに僕を呼び出したユズキ――そのときにはもう呼び捨てで呼ぶようになっていた――はいつになく真剣そうな顔をしていた。 「どうしたの、ユズキ」 「いや、さ、お前にちょっと言っておきたいことがあって」  いつも飄々としているユズキの真剣な顔。何事かと思い待ち構えていると、ユズキはやがて意を決したような面持ちでこう言った。 「俺さ、小説書いてるんだ」  僕はしばらくどうリアクションするべきなのかがよくわからず、ただユズキの顔を見つめていた。するとユズキが続ける。 「俺、プロになりたいんだ。小説家になりたいんだよ」  僕はこの三ヶ月の付き合いの中で、あのとき以外にも幾度となくユズキが買いたい本があるからと僕を紀伊國屋書店に連れ出したことや、小島信夫や古井由吉とかいう作家の本を僕に貸してくれたことを思い出した。そして、その小説が僕にはよくわからなかったことも。だから、そう言われて僕は素直にそうなんだ、と思った。あんな本を読んでいるんだから、そりゃあそうだろうなと思った。 「そう、なんだ。だって、難しい本いっぱい読んでるみたいだしね」 「うん……」 「いつ頃から書いてるの?」 「中学、一年」 「今までに何作か書き上げたの?」 「うん、もう、何作かは」 「どこかに応募とか?」 「して、る」 「へえ! すごいね!」  僕が言うと、急にユズキは顔を両手で覆って机に突っ伏した。 「どうしたの」 「いや、ちょっと、感情がショートしてる」 「なんでよ」 「なんか、恥ずかしくて」 「何が恥ずかしいのさ」 「恥ずかしいよ。小説書いてるなんて、言えないよ」 「言ってるじゃん」 「お前が初めてだよ……」 「え、今まで誰にも言ってないの?」 「初めてだよ、人に言ったの。お前だけだよ」 「親には?」 「言うわけないだろ!」  ユズキはなぜか少し怒っていた。その迫力に僕が驚いていると、 「あ、ごめん……。それでさ、ちょっと相談があるんだけど」 「なに?」 「俺の小説、読んでくれない?」 「え、読む読む。読みたい!」 「できれば、感想とか聞きたくて」 「え」  そう言われて僕は止まってしまった。僕にユズキの小説の感想を言うなんてことができるだろうか? 僕は高校に入るまで国語の教科書くらいしか小説なんて読んできていないし、読書感想文にもヒィヒィ言わされてきた。 「感想、かあ」 「大丈夫、別にそんなかしこまらなくて。本当に、思ったことを素直に伝えて欲しい」 「いいけど……期末終わってからでもいい? 読むならちゃんと読みたいから、時間が欲しいっていうか」 「わかった、大丈夫」  そう言うユズキの顔はむりやりみたいな笑顔で、なんだかひどく傷ついているようにも見えた。  夏休みに入った。  僕は初めてユズキの家に招かれた。ユズキの実家は地方の大農家らしく金があるとのことで、ユズキはなんとその年で一人暮らしをしていた。道理で他の友人たちと比べて大人びた雰囲気になるはずだ。 「適当にさ、座って」  部屋を見回すと、ユズキの部屋だな、という感じがする。大きな本棚が一つあって、本がいっぱい詰め込まれている。綺麗に整頓されているのだけれど、そこから少しだけ本が手前に浸食しているのがユズキらしいな、と思った。それ以外の部分はすごく片付いていて、どちらかといえばさっぱりとした部屋だった。  置かれたソファに座ってサイドテーブルを見るとマックのノートパソコンが置かれていて、ああ、これで小説を書いているのかな、と思う。すると両手に麦茶を持ったユズキがやってきて、 「そのマック、合格祝いに貯金で買った」  と僕の視線に気づいて言う。 「これで小説書いてるの?」 「ああ、まあ、な」  目を泳がすユズキを、 「今更恥ずかしがってるぅ」  そうからかう。 「うっせぇな! 恥ずかしいもんはしょうがねえだろ!」 「俺なんかむしろ憧れちゃうけどな。小説書いてて、その年でやりたいことがちゃんとあるユズキに」  僕がそういうと、ユズキがぼそっと何かを言った。え? と聞き返したけど答えてくれなかった。多分、そんな良いもんじゃないんだけどな、と言っていたような気がする。  それからしばらく他愛もない話をしていたけれども、急にユズキが意を決したように立ち上がり、棚から紙の束を取り出した。そしてそれをテーブルの上に置く。その一番上の紙には、中心に『光のない星』とだけ、書かれていた。 「これって」 「俺の書いた小説」  おおー、と僕は冷やかすような口調で言いながらも、まるでこわれものを扱うような手つきでその紙の束を持った。 「すごい。重い」 「んなわけねえよ、60枚くらいしかないぞ」 「読んでいい?」  ユズキは一瞬逡巡したのち、「おう、頼む」と勢いよく言った。  僕はゆっくりと一枚目の紙をめくり、本文に目を落とす。  タイトルから一瞬ファンタジーなのかと思ったけれど、内容は全く違っていた。いじめられ、常にナイフを携帯している非行少年が主人公だった。周囲に溶け込みたいけど溶け込めない自分を、どうしようもなく持て余している。助けてくれ。誰か僕をここから救い出してくれ。そんな悲痛な叫びが紙の向こうから聞こえてきそうな作品だった。暗いと言ってしまえばそれまでなのだけど、ラスト、か細く見える光がある。本当に、本当に少しの光だ。だけど作者がその光を信じていることが伝わってくる。――そんな作品だった。  僕は夢中で読んだ。  読み終わってユズキを探すと、ユズキはベッドの上にうつ伏せに寝転がり頭を枕に埋めていた。そのままぴくりとも動かないユズキに声をかける。 「ユズキ?」  反応がない。――寝てるのか? まさか。 「読み終わったよ」  ユズキはがばりと起き上がると、ベッドの上にあぐらをかいて僕に正対した。 「どう――、どうだった」  そう口にするので、僕は素直に感想を述べた。 「すごいなって思ったよ。本当に、すごいと思った。僕は小説ほとんど読まないけど、ちゃんと、ユズキの世界があるっていうか、ユズキが書いたんだなってのが伝わってきて。やっぱりちょっと難しくてわかってない部分も多いけど」 「これを、さ」ユズキが僕の言葉を遮って言う。「お金出して、読む価値あると思う?」 「思うよ!」僕は前のめりに答える。「全然、本屋に売ってても違和感ないよ、本当だよ」  ユズキは露骨に嬉しそうな顔を噛み殺しながら、 「そ、そうか、それならいいんだ」  と返事した。 「じゃあ、残りの小説も読んでくれるか?」 「もちろん!」  そうして僕は、夏休みを存分に活用してユズキのそれまでの小説――中編三作と短編四作を読み終えた。  僕はユズキを深く知ったと思った。小説を読むことが、その人の内面に触れる行為でなければなんなのだろう。そして、今この世界でユズキの作品を全て読んだ人間は、僕だけなのだ。  その時僕が覚えた不思議な高揚感の名前は、優越感だった。  同時に、僕はいつの間にかユズキの小説世界にどっぷりと浸かってしまっていた。まるで初めて親鳥の顔を見た雛のように、他の小説を読み慣れていなかったことも原因だろう。ユズキの小説世界はどの作品を読んでも趣向が違っていて、毎回新鮮な驚きを与えてくれたけれど、それでもやはり通底する温度みたいなものがあって、まるでユズキのこころの奥底に触れたみたいな感覚になる。僕はそれが嬉しくて、浴びるようにユズキの小説を読んだ。  それから僕は、ユズキのことを強く意識するようになった。  僕はユズキの、誰も知らない部分を知っているんだ。  ユズキは、僕にとって特別な存在になっていた。その存在が、自分にとってどういうものなのか、しかし自分の中で整理がつけられないでいた。  何より、ユズキにとって僕がどういう存在なのかが分からなかった。ユズキはどうして、僕を読者に選んだのだろう? 『お前がたまたま後ろにいたから……?』そんなユズキの言葉を思い出す。  たまたま、なのだろうか。  そうではないと思いたい。だけれど、そんなことをユズキに聞けない。  だから、ユズキの家に行くたびに、変な緊張をしてしまう。その緊張を悟られまいと、余計に変な態度になる。そして、ユズキに気付かれてやいないかと不安になる。そのうちに、僕はユズキと二人きりになるのが怖くなってしまった。  新学期が始まって、席替えがあり、ずっと前後だった席が離れることになったのは好都合だった。僕は騒ぐクラスメイトたちを横目に見ながら、ユズキの影響で読み始めるようになった本を読んでいた。 「何読んでんだよ」  背中をぱしんと叩かれる。ユズキだった。 「あー、うん、あの、ミステリの賞の新しいやつ」  ユズキはごく自然に僕の前の席に座りながら、 「またミステリ読んでるのか? 俺の勧めた本も読んでくれよ」 「読んでるじゃん。この前も読み終えたし」 「まあそうだけどさあ」  ユズキは純文学を主に読んでいたが、僕はミステリやSFを中心に読んでいた。ユズキはそれが不満だったみたいだけど、僕はそれで良かった。僕にとっての文学はユズキの作品なのだ。 「な、次の授業サボろうぜ」  ユズキが言ってくる。一学期の終わりに近づくにつれ、周りの生徒たちのサボりもちらほらと見られるようになっていた。僕は久しぶりのユズキの誘いに、どうしたものかと少し戸惑う。僕が黙っていると、 「わりぃ、授業出たかった?」とユズキが言ってくるので、 「ううん、そういうことじゃなくて……うん、サボろっか」と答えた。  僕たちは授業をサボっていつものゲーセンに行き、スタバで時間を潰した後に近場の本屋に向かった。本を読み始めるようになった僕にとって、本屋は眠った宝物の山のように見えた。  どうにもユズキの様子がおかしい、と思ったのは、本屋にたどり着いてからだった。まるでトイレに行き忘れたかのようにそわそわふわふわしている。 「どうかしたの?」  僕が聞くと、 「いや、あのさ……」  と、僕を雑誌コーナーへと引いていった。そして、とある文芸誌を指差す。文芸誌なんてものの存在を知ったのも、ここ最近のことだった。 「ここに、小説出したんだ」  表紙には、受賞作決定、と書かれていた。まさか、と思った僕に、 「いや! 受賞は、してない。でも、予選通過作がこの号に載ってるんだ。電話もかかってきてないから、最終候補にもなってないんだけど……せっかくだからシュウヘイ、俺の代わりに名前が載ってるか見てくれよ」  本音を言うと断りたかった。そんな責任を負うことはできないと思った。だけれどユズキの真剣な顔を見ていると、断ることもできなかった。僕はかすかに震える手で雑誌を手に取って、ぱらぱらとめくる。受賞作、受賞のことばと巻頭掲載されていて、その次に『予選通過作発表』、とあった。  全部で二〇〇〇作くらいの応募があったと書かれている。僕は想像していたよりもはるかに多いその数に驚いた。そんな中で、予選を通過したのはこれだけなのか。  僕は一作一作指でなぞって確認する。その指が、あるところで止まった。 『○光のない星 斎藤柚月』  と書かれていた。○、は二次通過を表す文字らしい。 「あ、……あった」  ばっ、とユズキが顔をあげる。 「あったよ! あった! 二次通過!」  僕は興奮しながら雑誌をユズキに見せた。ユズキは僕の震える指の先を見て、 「おっ、お、おおおおおおお」  と興奮した声を漏らし、僕にがばりと抱きついてきた。 「やった、やた、やったあ」  僕の肩に口を埋めて興奮するユズキ。こんなときなのに僕はどぎまぎしてしまって、「よ、よかったね」、とだけ震える声で言う。それでユズキは、一気に正気に戻ったのか、僕からばっと一気に離れた。  ユズキの顔は真っ赤だった。 「雑誌、買ってくる」  ユズキは僕の手から雑誌を受け取るとレジへと向かった。  侃侃諤々の議論の末、文化祭の出し物は「幽霊喫茶」に決まった。お化け屋敷とメイド喫茶の融合という革新的な出し物だと発案者は言うのだが、さほど目新しいとも僕は思わなかったし、名前の「メイド」要素が消えてしまっているではないかと思ったが、つっこまないでいた。  文化祭当日、出欠を行事の前後にとるため僕たちは学校に拘束されていた。中には一度家に帰る猛者もいたが、僕とユズキは学校にいた。  他には誰もいないコンピュータールームに、キーボードの打鍵音が響く。ユズキが、十月末の締め切りに向けて小説を書いているのだ。前々からずっと取り組んでいた小説らしいが、先日雑誌に名前が載ったことで、より一層励みに磨きがかかっていた。僕は一席開けて隣に座って、本を黙々と読んでいた。時折、ユズキの様子を伺いながら。  小説の執筆は佳境に達しているようだった。あと少し細部を直せば完成するとユズキは言っていた。執筆には四ヶ月ほどかけたらしい。  僕はミステリを読み続け、二人目の被害者が出て、探偵が「さて」という段になり、ユズキの小説は完成を迎えた。  できたぁ、とユズキが少し気の抜けた声で言う。 「まだちょっと直したいとこなくもないけど、とりあえずは完成。こういうの、直し出すといつまでも直して訳わかんなくなるから」 「お疲れ様! 今回は何枚くらいなの」 「65枚くらいかな、原稿用紙だと。いつもより短めだから感覚がわかんなかった」  にっ、とユズキが俺に笑いかける。そのくしゃっとした笑顔を見て、僕は思った。  ユズキにキスをしたい。  その衝動は一気に燃え上がり、僕の中を焼き尽くした。僕は何かに取り憑かれたように体が動くのを、ぼんやり頭の奥の方で観察するしかできなかった。  僕は、ユズキにキスをしていた。  体を前に傾け、椅子に座るユズキに上から覆いかぶさるように。  ユズキは、全くそれを受け入れていた。  ユズキの、やわらかな唇。 「あっ、ご、ごめん、いきなり」  僕は体を起こしユズキから跳ね上がるように離れる。ばか、何をしてしまっているんだ。 「あ、ああ」  ユズキがぼんやり言う。とてもじゃないが顔を見れないのでどういう表情かはわからない。 「あっ僕担当の時間かも! ごめん教室戻るね」  ユズキをおいて、僕はコンピュータールームを出た。部屋を出て、その場にしゃがみこむ。  なんてことをしてしまったんだ。  僕はぼんやりした足取りで教室へ戻った。担当の時間まではまだあと四十分近くあった。 「どうしたんだよ、顔真っ赤だぜ」  クラスメイトが僕にそう言う。 「風邪でもひいてんのか?」 「いや、だいじょぶ……だいじょぶ」  僕は顔の前で手を振りながら、バックヤードに入る。 「斎藤となんかあったの?」  僕はぴしりと固まる。どう返事をすれば良いのかわからない。どうしよう、どうしよう。口をパクパクさせていると、 「なんもねーよ」  という声が聞こえた。ユズキが暗幕の入り口に立っていた。 「な?」  ユズキが僕にそう言う。僕は頷く。ふうん、とクラスメイトは興味なさげに去っていった。  意外にも幽霊喫茶は好評で、もうほとんどバックヤードの在庫もなくなってしまっておりやることなどほとんどなかった。 「本当になんにもなかったとは思ってないから」  ユズキがそう言う。僕が泣きそうな顔でユズキを見ると、 「思わなくて良いんだよな?」  そのユズキの確認に、僕は何度も頷いた。  林間学校だった。あれから、ユズキとの関係は進展していない。ユズキがあのことをどう思っているのか、僕はあえて確認する勇気もなく、それまで通りの関係が続いていた。ユズキは小説を書き、僕はそれを読んだ。  僕自身も、一歩を踏み出すことができないでいた。というよりも、僕自身が悩みの中にいた。なぜ僕は、ユズキにキスをしてしまったのだろうか? ユズキの唇の感触をまざまざと思い出す。僕は、ユズキのことが好きなのだろうか? ユズキは、男なのに? そして、ユズキは僕のことをどう思っているのだろう? あのキスのことをどう思っているのだろう?  悶々とした思いを抱えながら林間学校の非日常を過ごす。  サイクリングのレクリエーションで、僕とユズキは当然のように同じ班になった。 「なるべく遠く、行こうぜ」  そう言い、笑ったユズキに班員が言う。 「でもさ、帰って来れなくなったらどうすんだよ。こんなとこ初めてだし、本当に大丈夫か?」 「大丈夫だって、そんな不安がるなよ」  そう言い残すと、ユズキは勝手に自転車を漕ぎ出し、敷地の外へと繰り出してしまった。妙なテンションなのか、マイケル・ジャクソンみたいな叫び声まであげている。残されたメンバーは呆れたように肩を竦めると、しかし同じ高揚感に包まれてユズキの後を追いかけた。  気がつくと、僕とユズキが他の班員二人をだいぶ引き離し、見知らぬ土地を自転車で駆けていた。ユズキは両手を離して全身で風を感じながら自転車を漕いでいる。周囲を見回すと、山と田んぼしかない。二人きりだ。  僕はユズキに話しかけた。 「ねえユズキ」  並走しながら声をかけた僕の方をユズキが見る。 「んー?」  ユズキの綺麗な目がまっすぐ僕を見た。僕はそれを見ると、何も言えなくなってしまった。 「ごめんなんでもない」 「はは、なんだよ、変なやつ」  しかし、僕は確信した。  僕はユズキが好きだ。ユズキが男であっても、僕はユズキが好きだ。どうしようもなく。  自転車の風切音だけが、僕の耳の中でごうごうと鳴っている。  林間学校は滞りなく進み、最終夜を迎えた。その夜のビッグイベントは、終わりにふさわしいキャンプファイヤーだった。  みんなで組み上げた焚き木の中に、種火が差し込まれる。ぱちぱちと何かが爆ぜる音がして、徐々に火が大きくなった。火はやがて僕の身長よりも大きなものとなり、周囲を煌々と照らしあげた。  僕は周囲を見回した。みな思い思いに寛いで、燃え盛る火を眺めている。ユズキがやってきて、寝転がり僕の太ももの上に頭を乗せた。 「きれいだな」  ユズキが言った。火のことを言っているのだ。僕は火を正面から見た。  キャンプファイヤーは、めらめらと燃え上がっている。大きな炎が中心で踊るように揺れ、火の粉が散って周囲をひらひら舞い上がっている。  火は、どれだけ見ても飽きることが無かった。火をよく観察すると、その中に様々な色があることがわかる。橙、赤や青、黄色……。  常に形を変え、不規則に揺れる炎は、ゆらゆらと表現するには激しすぎ、まるで何かに苦しんでいるようにも見えた。何かに束縛され、そこから逃れようと燃え盛っているような。それともこの火は、自らの持つエネルギーを持て余し、自分の熱さに悶え苦しんでいるのだろうか? 火がこちらに向かって喘ぐたびに、その熱が直接伝わってきた。経験したことのないその熱に、僕の肌がひりひりと火照る。  そして自然とわかった。  ああ、これが僕の中にある。  ――燃えている。 「ユズキ」  太ももの上のユズキに言う。 「僕はさ、燃えてるんだ」 「え?」 「僕は、燃えあがってる」  めらめらと僕の目に灼きつくように炎が踊る。ごうごうと炎が燃え盛っている。 「僕は、君が好きだ。僕の炎が、ユズキを思って燃えている――あんな風に」  ユズキが、炎を見つめ続けたまま聞こえないくらい小さな声で言った。 「……ありがとう」  そして続けた。 「俺も、お前が好きだ」  こうして、僕たちはつきあいはじめた。僕たちの関係はもちろん周りには秘密だった。周りも気付いてはいないようだった。ユズキは時折僕と手をつなぎたがった。僕は応じるときもあったし、周囲の目が気になって拒否することもあった。僕は僕たちの関係をもっとオープンにできたら良いと思ったけれど、男子校でこの関係をオープンにするのは相当に勇気が、それ以上に覚悟が必要だった。 「なあ芝、知ってるか?」  ある日、クラスメイトにそう話しかけられて、 「何を?」  そう答えると、 「隣のクラスの木本さ、告られたらしいよ、同じクラスのやつに」  そんな話題を無邪気に提供してくるやつもいた。彼は決して「そういう」関係に否定的なことは言わなかったが、好奇の視線を向けることになんの躊躇もしていないようだった。それ以降も幾度となくそういった話題がクラスメイトたちの間に上ることがあった。その話し方のテンションを聞くたびに、僕は自分の行為の浅はかさと、それを受け入れてもらえた幸福を噛み締めていた。  ある日、ユズキと一緒にいたときにそういった話題になったことがある。 「それにしてもお前らも仲良いよな」 「ほんとはできてたりして」  僕はあたふたと何も言うことができず、ただ慌てていたが、ユズキは余裕の表情で、 「だとしたら、どうする?」  といい、僕の顎にそっと手を添えた。 「な、シュウヘイ……」  そう言いユズキがゆっくり僕の顔に顔を寄せると、クラスメイトはげらげら笑いながら、 「ばっか、やめろって。はは、めっちゃウケる」  と僕たちを制止した。  僕は、ユズキの見せた大人な表情にどきどきしてしまっていた。  つきあいはじめて一ヶ月、久しぶりにユズキの家に行った。つきあうようになってからは、ユズキの家に行くたびに緊張してしまう。緊張がユズキに伝わらないようにと毎回祈っていたけれど、恐らく感情はだだ漏れだっただろう。  僕は、ユズキとセックスがしたかった。  ユズキと体を交えたかった。  溶けるようにひとつになりたかった。  それでもしばらく我慢したのは、あまりにがっついたら体だけが目当てだったんだと思われそうで怖かったからだ。僕はユズキからの合図を待っていた。ユズキも僕と体を重ねたいのだと確信を得たかった。だからいつものように体を互いに触り合っているときに――ユズキが、 「しよっか」  と言ったとき、僕はそれだけで達してしまいそうなほど興奮した。だけど僕は平静を装って、 「う、うん」  と返事する。ユズキの手が僕の顔に伸びる。僕は手繰り寄せられて唇と唇を重ねる。重ねながらユズキが僕に問う。 「お前はさ、どっちがしたいの」 「え?」 「挿れるの、挿れられるの」  ああ、そうかと僕は思う。行為には立場が必要なのだ。僕は今まで散々ユズキでオナニーしてきたくせに、全然具体的に行為をイメージしていなかったのだと思う。 「僕は……」 「お前のしたいようにしていい」  ユズキが僕の股間を優しく握る。上下にさりげなく擦りながら、まるで僕の膨らみを確かめるように。僕は小さく喘ぎながらユズキを見つめる。僕がユズキにしたいこと。 「僕は、ユズキに挿れたい」 「おっけ」  僕の返事を聞くと、てきぱきとユズキは服を脱いだ。全裸になると両手を広げ、 「ほら」  と言う。僕も慌てて服を脱いで裸になると、ユズキの体と密着した。体と体がくっついて、互いに熱を交換する。僕たちは何も言わず、無言でしばらく互いを感じていた。 「ん」  ユズキがそれだけ言って、顔を差し出す。僕はユズキに甘えるようにキスをした。鳥のついばむようなキスから、舌を絡めるキスへと。  僕の股間が最高潮に隆起する。ユズキが、同じく興奮しているユズキのそこと、僕のそこを一緒に握りしごきあげる。ユズキのものが僕のものと擦れ合っている。僕は唇を噛んで湧き上がる声を殺しながら、全身を小刻みに顫えさせていた。ああ、ああ、僕が達しそうになるとユズキはぱっと手を離した。 「ほら、こっち来いよ」  ユズキがベッドに飛び乗って人差し指で僕を手招きする。僕は誘蛾灯に群がる虫みたいにふらふらとユズキの体に飛びかかった。 「慣らしてくれよ、はじめてだからさ」  僕は夢中になってユズキのそこを舐め、指を入れ、挿入の準備をした。 「ユズキ、きもちい?」  ユズキはこくこくと頷く。 「欲しい……お前の、欲しい……」  ユズキがそう言うに至って、僕はずっと勃起しっぱなしで先走りがとろとろに溢れているそこを、ユズキのそこにあてがった。 「入れる、よ」 「おう……」  僕はゆっくりとユズキの中に侵入する。ユズキが喘ぐ。僕が腰を振ると、ユズキはまるでそれに共鳴する楽器になったかのように反応した。  僕は、至上の幸福を感じていた。  好きな人と結ばれる。好きな人とひとつになる。その幸福に溺れていた。  ああ、しあわせだ。  僕はユズキの中に入って、ユズキに覆いかぶさって、全身でユズキを感じながら、しかし唐突に思った。  僕たちもいつか大人になる。体がたるんでしわができて、いろんなことを忘れてしまう。  そのとき、ユズキのとなりにいるのは誰だろう。  ――きっと、それは僕じゃない。  そう、僕は確信してしまう。  僕であってほしいと強く願うけれど、同時にそれは叶わないと思う。  僕たちの関係は激しく燃え盛るあの時の炎みたいで、見とれる程美しいけれどきっと長くは続かない。  その炎は、あらゆるものを燃え尽くして、そしていつか燃え尽きる。酸素と燃料を使って燃え盛って、あとに燃えかすを残すだけ。 「大丈夫か? シュウヘイ」  ユズキが僕に問いかける。「泣いてるぞ」  僕は頬を拭った。一筋涙が伝っていた。僕は答える。 「嬉し涙だよ」  こうして、僕たちの関係は高校を卒業するまで続いた。  そして、僕たちは大人になった。

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