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60歳

「あなたがシバシュウヘイさん、ですか」  呼び出された喫茶店に座っていた女性は、僕を見るなり頭を下げた。 「今日はお忙しい中ご足労いただきまして誠にありがとうございます」 「いえ、……それで、あなたは」 「わたしはサイトウカホです」 「はぁ」  曖昧に頷いた僕の頭に、一人の男の影が過ぎる。斎藤。 「まさか」 「サイトウユズキの妻です」  カホさんは表情を崩さずに言った。そういえば、あの日見た女の人の面影が確かにある。  ウェイトレスが注文を取りに来た。カホさんはあんみつを注文する。僕は、メニューにクリームソーダを見つけると、思わずそれを注文した。カホさんは、そんな僕の年齢不相応な注文に対しても、何もリアクションを示さなかった。 「今日は大事な話があって参りました」  注文が終わりそう言うカホさんの、少し窶れた真剣な表情を見て、その時点で何を言われるか僕は予期してしまった。待ってくれ、そんなことを言わせる間もなく、カホさんは言う。 「先日、夫が病気により逝去したことをお知らせに参りました」  ウェイトレスが、空のコップに冷たい麦茶を注いだ。氷が音を立てて溶けていく。窓の外から蝉の声がする。 「いつから……」 「病気がわかったのはここ数ヶ月です。あっという間にいってしまいました」  カホさんは続ける。 「あなたのことはかねがね夫から聞いていました。ですからわたしは夫にお見舞いに来てもらってはどうかと提案したのですが、夫は強く反対しました。きっと、弱ってる姿を見せたくなかったのでしょう。ですが夫は、病床で懸命に小説を書いていました」  僕は俯いていた顔を上げる。小説を? ユズキが? 「ユズキが、小説を書いていたんですか」 「ええ、そうですよ。あの人はずっと仕事の傍ら小説を書いていました。どこに投稿するでもなく、ひたすら孤独に」  カホさんは思い出したように言う。 「最初は、突然仕事を辞めて小説家になると言いだしましてね。あの子を妊娠していたときですから、三十歳くらいでしたか。その頃からずっと書いていました。いつしか、投稿はやめてしまったようでしたが」  カホさんは運ばれてきたあんみつにスプーンを伸ばし、アイスクリームを削り取った。僕の前には、クリームソーダが運ばれてくる。 「読ませてくれって、わたし何度も頼んだんですよ。でも夫は首を縦には振りませんでした。俺が小説を最初に読ませるのはあいつだ、って」  カホさんが、半分呆れたような口調で言う。 「それで、あいつって誰、ってわたしが聞いたら、あなたの名前を言うんです。それで、お前のことが好きなのと同じくらい、俺はあいつのことが好きなんだ、って、もう、笑っちゃいますよね。でも、わたしは彼のそういうところが好きになったんです。嘘をつかないところ。  だから、小説家には向いてなかったんだと思います。彼、嘘つくのすごく下手だったから」  カホさんがあっさりと言ったその言葉で、僕の長年積もった疑問が解消されるのが分かった。そうだ、ユズキは嘘をつくのが下手だったんだ。ユズキの小説は、いつだってしか書いてなかった。そこが、ユズキの小説の何か決定的に足りないところだ。 「病気の発作が二回あって、いよいよ危ないな、となった段階で、夫は紙の束を取り出してわたしに渡しました。夫の今まで書いてきた小説の束でした。夫は言いました。これをお前に託す。読むなり焼くなり好きにしていい――夫はわかっていたんでしょうね。わたしがどういう行動に出るか、わたしがどういう人間なのか。観察眼に関してはいっぱしの小説家並みでしたから」  カホさんは、紙袋からどっさりと大量の紙束を取り出し机の上に置いた。 「皮肉な話ですよね。死ぬ間際になってようやくあの人の小説を読むことができるなんて」  カホさんはぺろりとあんみつを完食していた。僕のクリームソーダはアイスがでろでろに溶けて、すっかり混じり合ってしまっていた。 「本当は順序として、あなたに読んでいただいてからわたしが読む方が筋なのだろうとは思いましたが……そのくらいは許していただけるでしょう? わたし、三十年我慢したんですよ」  カホさんはその細い指で原稿の山を撫でる。 「夫は、あなたとのことばかり作品に書いていましたよ。もちろん、そうとは簡単にわからないかたちで。だけど、そういうのって身近な人間ならわかるでしょう?」  カホさんは原稿に視線を落として言った。 「わたしは、全く出て来なかった」  そして顔を上げる。 「だからこれは、あなたに差し上げるのがふさわしいんだと、やはりそう判断しました。ですから」  原稿を僕の方へとカホさんは押しやる。 「どうぞ」  原稿を凝視し固まる僕を置いて、カホさんは立ち上がる。 「では、確かにお渡ししましたので」  そう言い、店を出ていった。  僕は一人きり席について、メロンソーダとアイスクリームの混じり合った液体を飲んだ。この体には甘すぎて、飲むのに苦労するほどだった。なんとか半分ほど飲んだ僕は、思いの外大きいその荷物を、カホさんが置いていった紙袋に詰め込み、喫茶店を出た。  他に誰もいない一人きりの家にたどり着き、あまりに途方もない量の原稿に圧倒されながら紙をめくった僕の目に、こんな言葉が飛び込んできた。  俺の中のこの炎のかけらは、どこにいけば燃えあがるのだろう?  燃料を注いでくれる人に、もう手は届かない。  燃えることのできない炎ほど、みじめなものはない。  俺は燃えあがりたい、燃えあがって一生を燃え尽きたい。  この炎は、何度でも燃えあがる。  僕の中で、じりじり焦がれる音がする。それは、僕の中の炎を再び燃えあがらせるのに十分な言葉だった。  僕は嬉しかった。燃えていたのは僕だけでは無い。ユズキも、燃えていたんだ。  燃えていたんだ!  僕は原稿の束に飛びかかるようにかじりつくと、夢中でユズキの言葉を全身に浴びた。どれを読んでも、そこにはユズキがいた。ユズキがいて、僕がいた。  僕は泣き叫んで、これ以上もうこの小説が増えることが無い事実を呪った。僕の、誰よりも大好きな小説家の作品が、もう読めないということ。だけれど、今はとにかくこれを読んでいたい。  そして僕の炎は、何度も燃えあがるのだ。 (完)

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