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一夜

 肩と肩が、瞬間激しくぶつかった。私はよろけ、傘を利き手に持っていたせいで不安定になっていたiPhoneが、左手からぽろりとこぼれ落ちた。  打ち所が悪かったのか、ケースに入れていたiPhoneの画面にあっさりとヒビが入り、そこから激しく打ち付ける雨が浸入した。そしてあっという間に画面がブラックアウトしてしまった。  大雨の降る新宿で、私は途方に暮れてしまった。これから、アプリで知り合った男性と会う予定だったからだ。しかし、約束は一時間後で、待ち合わせ場所は具体的にはまだ決めていなかった。私は本屋で時間を潰しながら、男性と連絡を取って待ち合わせ場所を決めるつもりだった。普段はもっと早めに約束を決めるのに、なぜ今日に限ってそれを怠ったのだろう? 私はうんともすんとも言わなくなってしまったiPhoneを、まるで電波を求めるみたいに左右に振ってみたが、当然何も起こりはしなかった。  念のため携帯会社のショップに向かって話を聞いたが、修理が立て込んでいるらしく、今日の受付はもう終了してしまったと伝えられた。同時に画面の破損だけの修理でも保険に入っていない私は数万円を請求されるという話を聞き、なんだか気が萎えてしまった。水没となると、修理額は更に上がるという。  携帯ショップを出ると、いつの間にか雨は上がっていた。まだ店の軒先から雨の残骸が滴り落ちている。しかしそれももう終わるようだ。私は虚しさを通り越しむしろ清々しい気持ちになって、予定の空いた新宿の街へと繰り出した。  とりあえず、新しいiPhoneを買おう。  保険に入っていないあの甚大な修理費を払うくらいならば、新型に買い換える方がずっと良いと思った。それがapple社の策略にまんまと乗せられるものであろうと、私には構わなかった。  結局、家電量販店でiPhoneを顔認証方式の最新型に買い替えた。ずっとこの全画面型のiPhoneに憧れていたので、今回のことは良いきっかけだったと思うことにする。こういうことでもなければ、私は限界まであの旧型のiPhoneを使っていたことだろう。新しいiPhoneを買えば、当然現物を見たくなる。私の買ったiPhoneはまだ箱の中に収まっていた。  ティファニーのビルの街頭時計が、午後八時を示していた。約束は午後七時ちょうど。今からiPhoneをセットアップしてアプリにログインし連絡をとっても、おそらく相手が来ることはないだろう。私はその相手とは縁がなかったのだと諦めて、空腹を満たすべく通いつけのイタリアンのレストランへと向かった。  間接照明の薄暗い店内でいつものスパゲッティと赤ワインを注文する。料理が届くまでの間に、iPhoneを開封することにした。とは言っても、量販店で動作確認として一度対面はしているのだが。  iPhoneの密封性の高い箱を左右に振って、中箱を徐々に下におろしていく。勢いよく落ちないように気をつけて箱を外すと、そこに新しいiPhoneがあった。私は喜びに漏れそうになる声を噛み殺しながら、一人脳内にドーパミンを放出していた。apple製品の購入の喜びの大部分は、この開封の瞬間にあると言ってもいいのかもしれない。  そこに、料理が届く。気がつくとこの時間なのに店内は混み合って、ほぼ席が埋まっていた。私は慌ててiPhoneを再び箱にしまう。そして届いたパスタをフォークに巻きつけ食べた。相変わらずコクがあり美味しい。  そうしていると、店員がテンプレートのような申し訳なさを顔に浮かべて聞いてきた。 「店内非常に混み合っておりまして、相席にご協力いただけませんか?」  私は料理を食べ終わったらゆっくりこの店でiPhoneのセットアップを、全部とは言わずとも多少するつもりでいたのだが、どうやらそれは諦めなければならないらしい。このゆったりとした店で相席などということを頼まれるとは思っていなかったので少々面食らう。なるほど確かに周りを見ると、一人で食事をしている人間は私しかいなかった。  隣の会話から、この店が最近テレビで取り上げられた事実が伝わってきた。しばらくはこの店も混雑するかも知れない。 「いいですよ」私は答えた。 「そうですか、ありがとうございます」  店員はマニュアル通りの笑顔を顔に浮かべると、店の入り口から一人の男を案内した。 「すいません」  男はそう言い、眉を下げ人の良さそうな笑みを浮かべて前の席に座る。  それは、私とは正反対の人生を歩んできただろう男だった。日に焼けた筋肉質な腕が、ひと目でユニクロかGUのものだとわかる真っ白いシャツから覗いている。その上腕二頭筋には、微かに刺青――タトゥーと表現すべきだろうか――が見える。男が肉体労働を生業にしているだろうことは、火を見るよりも明らかだった。恐らくこの店の近くに現場があり、仕事を終えてきたところなのだろう。しかし男には不潔感のようなものはまるでなく、むしろ清廉とした爽やかさがあった。それは、私のような屈折した人生を送ってきた人間からは絶対に生まれないものだった。  男は私の料理を覗き込み、にこやかに言った。 「この店初めてで。相席、すいません。それ美味しそうですね。なんて料理です?」  私は男の顔を見返すのに躊躇しながら、サーモンとクリームのスパゲッティだと答える。 「じゃ、それにしよう」  男は笑い、私と同じメニューを揃って注文する。男のメニューが到着する頃私はちょうど食事が終わり、荷物をまとめる。スターバックスかどこかに移動してiPhoneを開封しよう。すると、 「何買ったんですか?」  男は口の端に少しクリームをつけ、フォークで私の家電量販店の小さな紙袋を指した。 「あ……iPhoneです、新型の。前の、さっき壊れちゃって」 「へえ、いいな。俺なんてまだ7使ってるよ」  そう言い、彼はポケットからiPhoneを取り出した。彼のiPhoneは、酷使されているのがひと目で分かった。金属の部分に無数の傷がついて劣化している。私はそれを見て、スティーブ・ジョブズの言葉を思い出した。傷ついたステンレスは美しい。なるほど、確かにそうなのかも知れない。私は今まで、ケースに入れて大事にiPhoneを使ってきたことを、初めて少し恥ずかしいことだと思った。  その時、ふと寂しさを覚えた。なぜならついさっき壊れたものこそまさに同じiPhone7で、色も同じだった。私は、彼と同じiPhoneを使っていたかった。最新型のiPhoneが、急に色褪せたように感じられた。 「いいな、最新型。俺も買い替えたい。でも最近のiPhone高いだろ?」  私の立ち上がりかけた腰が再び下りてしまった。 「そう、ですね」  男が驚いたように、「あっ、いつの間にかタメ口きいてた。ごめんなさい。そっちもタメ口でいいよ」  そう言う。私は普段なら、いきなり馴れ馴れしい口調で話しかけてくる男にはげんなりしてしまうのだが、彼にはそれを許させる空気があった。私は自分はこのままの口調の方が落ち着くと告げると、「ふうん」と男はパスタを吸い込みながら言った。 「ていうか、いくつ?」 「三十三、です」 「バリバリ年上じゃん。俺二十七」  彼は悪びれることがない。  結局そのまま、彼が食事を終えるまで一緒に話をしていた。彼も急な土砂降りで仕事が早上がりになったが、すぐに雨が止んでしまったので新宿をぶらぶらすることにしたらしい。私はあの雨に感謝した。  私の心のうちに、密かな高揚感が萌していた。今のこの出会いを、いつくしみたい気持ちだった。彼が同性愛者でないとしても構わない。彼は十分すぎるほどに魅力的で、目の前に置いて鑑賞しているだけで満足だった。こんな中学生の恋愛みたいな感情を抱くのは久しぶりだった。  会計をそれぞれに終えて店を出る。湿度の増した外は蒸し暑く、私の着ているポロシャツの中にじんわりと汗が滲んだ。これ以上執着するのもおかしいと思い、『じゃあ、失礼します』と口を動かしかけた。あとは帰りの電車の中でじんわりと感慨に浸って、それで終わり。今日のことはいつもの日常のほんの少しのさざ波になって、綺麗に忘れ去られるはずだった。  そんな私に、「二丁目でも行く?」と彼はなんでもないことのように言った。  ――。 「お兄さん、『そう』でしょ。なんとなく雰囲気でわかるよ。俺もだから」  私は面食らった。彼が『そう』だとは全く思っていなかったのだ。  彼の顔から、胸、腹へと視線を移動させる。彼は堂々とそこに立っていた。彼は私と同じゲイであるはずなのに、その屈託のようなものを全く感じさせなかった。  私は瞬間、それを居心地悪く感じた。今までアプリで出会ったどの男も、二丁目ですれ違うどの男も、表面上は明るく振る舞いながらもどこかゲイである陰りを持っていたからだ。それが普通のことなのだと思っていたし、それ故に私たちはある種の紐帯を感じることができた。  私たちは生きていく上で、自分の『普通じゃなさ』みたいなものをじっとり芯根まで吸い込まされて生きている。  しかし彼はそうではなかった。彼は平たく言えば『普通』だった。普通に人生を送り、普通に大人になり、普通にゲイだった。――そんなことが可能だろうか?  私は反射的に断ろうかと思った。私はもしかすると、何か引き返せないところに来ているのかもしれないと思ったからだ。しかし結局好奇心が勝った。この男のことをもっと知りたい。この男の底知れぬ『普通さ』の正体を知りたい。この男がどのような人生を送ってきたか知ることは、私にとって重要な資料になりえるはずだった。 「へえ、お兄さん大学教授なの」  二人で入ったゲイバーで、安いボトルの酒で顔を赤らめながら男は言う。 「准、教授ね」 「ジュンって何?」 「昔風に言うと助教授だよ」  私は大学で、社会学の教鞭を取っていた。専門はセクシャリティだが、一般教養科目で社会学の概論やジェンダーの授業なども担当し、それなりに人気のある講義になっている。私はそこで、自身がゲイであることを公表し講義を行っていた。 「ああ、助教授ね。それなら分かる。でもすごいね、学者先生なんだ。じゃあこれから、センセーって呼ぼう。年上だし」  彼はからかうように笑う。  私は『先生』と呼ばれるのは好きではなかった。それは私と相手との間に歴然とした距離を、もっと強い表現で言うならば壁を生じさせる呼び方だったからだ。私は普段から学生相手にも名字に『さん』を付けて呼ぶように言っていた。しかし、彼の使う『センセー』という言い方は、何とも言えず私を快い心地にさせた。 「じゃあさ、センセーにとって『社会』って何? 国語の辞書に出てくるような回答じゃなくて、センセーの考えを知りたい」  彼はウォールナット材のバーカウンターに片肘をつき、頬を掌に乗せながら言う。気軽そうに言ったその質問が、私が概論の講義でまず学生たちに投げかけるものと同じだったので驚いた。私はそして言うのだ。『――この一年間、それを考えていきましょう』。そう、それはそれだけで年間の講義ができるほど難解な質問だった。その問いかけに感じた。彼は私を試している。  私は、その講義の最初の問いかけが、自分の中でルーティーンと化していることを改めて思い知らされた。ちゃんと、その質問について私自身が考えていただろうか?  私は考え込む。社会学、社会、その構成物。私は日頃常に、その実態が何なのかを追っているはずだった。私の学問は、『結局のところ社会とは何か?』という質問と常に隣り合っているのだった。  私はここで、何か学問的なレトリックを弄して彼の質問をはぐらかすこともできた。恐らく彼の理解を超えるほど、一聴ではとても理解できないような答えを出し、一段落つけることもできただろう。しかし、彼のような人間に理解できるように答えることができないのならば、学問の意味とは何だろう?  私は答える。 「書き換え可能なルールで構成された偽物の集まり」  社会に結局のところ実体などはない、それは私の嘘のない考えだった。あるのはただ、ルールだけ。しかもそのルールは一見不変に見えながら、その実あらゆる方法で書き換えることができるものだ。それは社会運動によってであり、学問の探究によってであり、各々の表現によってであった。  そして、それは私たち自身についても同じだった。『私たち』にも、結局のところ実体などはないのだ。実体があるように見えているだけ。実際には、まるで玉ねぎの皮を剥くように、奥へ奥へと探るとなくなってしまう。  しかしこれは、結局のところ多分に私の願望まじりなのかもしれない。すべてのルールが可変であると信じなければ、私は学問の道を走ることができないのだった。  もし、世界に書き換え不可能な、絶対的ルールがあるとしたら。  その仮説は私を空恐ろしい気持ちにさせた。 「なるほどなぁ」  そんな私の気持ちを知らず、彼はコップの底に残ったわずかなアルコールを、喉を大きく動かして飲み干した。そして置いた背の低いコップの縁を人差し指でなぞる。 「なんか、センセーの話し方俺好きだなあ」  彼は笑った。 「センセーの講義なら、俺でもちゃんと受けれそうな気がするよ。俺大学行ってないし、難しいことはよくわかんないけどさ」  それを聞いて安堵する。とにかくどうやら私は、彼の試験に『合格』したらしい。 「センセーにもっと色々難しい話聞きたいけど、そしたら講義代を払わないといけないね」  彼は笑った。私は、やはり彼には本質が見えていると思った。 「だから、何かもっと気軽な話をしよう。好きな本とか映画とか、漫画だってセンセーも読むんでしょう?」  社会学の学問領域は驚くほど広い。常日頃から様々なことにアンテナを張る必要がある。好きなことを仕事にするなとはよく言うが、社会学を仕事にすると言うことは、生きることを仕事にするようなものだった。週刊少年ジャンプもボーイズラブも、ツイッターに流れてくる追跡広告の漫画も、私の研究の対象だった。私は最近アニメ化されたジャンプの作品名をあげ、彼に読んでいるかと聞いた。彼はもちろん読んでいると答えた。  私たちはそれから、当たり障りのない話をして過ごした。彼が先日見た大作の洋画の話、美味しかった喫茶店のケーキの話、思い出に残っているドラマの話。  そんな柔らかな時間が過ぎると、彼はテーブルの上に突っ伏した。 「なんか、眠くなってきた」  ちょっと、ここで寝ないでよね、とママの声が聞こえる。 「一休みする?」  私のその提案で、店を出た私たちは自然とホテルに向かった。  ホテルの個室に入り荷物をベッドの上に投げ置くと、彼はがばりと私に覆い被さりキスをしてきた。私はまるで初体験のときのように心臓が高鳴るのを感じた。おずおずと舌を差し込むと、彼は慣れた風に舌を絡め返してきた。  鼻いっぱいに、彼の労働後の濃密な体臭を感じた。それは不思議とやわらかなにおいで、私は熱に浮かされるように彼の首筋に顔を埋め、すーすーとにおいを吸い込んだ。肺を彼のにおいが満たす。くらくらする気分だった。 「センセー、気分出てるじゃん。エッチだね」  見上げると彼が勝ち気な表情でこちらを見つめている。彼はゆっくりと、私の尻に手を伸ばした。   …… ……  私は彼に腕枕をされて横になっていた。ホテルの天井には鏡があって、私は自分と向かい合う形になる。彼の逞しい肉体に抱かれる冴えない私を見ていると、改めて彼は私の何がよかったのだろうという気持ちになる。 「気持ちよかった」  彼は十キロマラソンを終えたあとのように爽やかに言った。短い前髪が、汗で額に貼り付いている。 「センセーも、気持ちよかった?」  私は鏡の自分から視線を外し、すぐ右上にある彼の顔を見た。そして頷いた。 「ならよかった」  彼はまるで母親のような優しい表情で、私の前髪をそっとかき分ける。そして、額に唇を当てた。  ――叶うことならば、世界が終わるまでこうしていたかった。この時間を永遠に引き伸ばし、寝食の必要もなく、ただ彼に抱かれていたかった。  しかし彼はあっさりと私の頭の下から腕をどかし、ベッドサイドに落ちた鞄からiPhone7を取り出した。 「もうこんな時間だ。始発動いてるや」  私も起き上がる。のそのそと服を着込む彼を見て、私も服を手にとった。  ホテルを出た私たちは無言で駅に向かって歩いていた。外は明るさを増している途中で、空の形容し難い色が美しかった。 「じゃあ、俺こっちだから」  京王線の改札を彼は指す。彼は当然のように一歩改札へ歩き始め、止まって振り返った。 「ねぇ、壊れちゃったiPhoneまだ持ってる?」  彼に言われ、私は量販店の紙袋からiPhone7を取り出した。そと見は綺麗なのに、画面にヒビの入った私のiPhone。 「それ、俺にちょうだい」彼は笑う。 「え? いいけどなんで」 「記念」  そう言い、彼は私の手からiPhoneをなかば強引にもぎとった。 「じゃ、今日はありがとう」  彼は身を翻しながらそう言い私に手を振った。  私は彼を呼び止めたかった。彼とせめて連絡先を交換し、可能性の糸を繋ぎたかった。私の手が反射的にポケットの中のiPhoneを探った。そこにiPhoneはなかった。iPhoneがあるのは――。  私はまだ新しいiPhoneのセットアップをしていなかったので、彼にLINEの連絡先を教えることもできなかった。ならばせめてメールアドレスでも。電話番号だけでも。しかし私は、彼の手に握られた、私のものだったiPhone7を見て思った。  これでいい。  彼とはこれでいい。  これが、一番いい。 「じゃあね!」  私は彼の背中に向かって、大きな声で叫んだ。彼が背中のまま手だけひらひらと振って見せる。  私は満足し、丸の内線の改札へ向かった。  途中、男性二人組とすれ違う。その一人への奇妙な既視感に、私は脳内を検索した。すぐに分かる。それは、果たせなかった約束の待ち合わせ相手に違いなかった。  彼は幸せそうな顔で、朝を迎えた新宿を歩いていた。 (完)

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