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白と黒とはいいろ

 ばたん。玄関の扉が閉まるのと同時、大きな身体に抱き締められた。  視界を占めるのは黒。真っ黒の喪服。それから俺とおんなじアッシュグレーの髪と瞳。  線香の匂いに紛れてちゃんとリクの匂いがする。ああよかった、リクは生きてる。ちゃんと生きてる。  目の前の黒がぐにゃりと歪む。リクを抱き締める腕に精一杯力を込めたら、落とし損ねた塩が顔にかかった。  リクが俺の身体を優しく引き離す。 「お風呂入ろうか。全部俺がやってあげる」  うん、と俺は言った。つもりだ。ちゃんと返事が出来たかどうか分からないけれど、リクに手を引かれるまま浴室へ歩いた。  亡くなったのはバイト先の先輩だ。先輩は無学のフリーターにも優しくしてくれて、仕事はしんどかったけど全然苦じゃなかった。仕事が長続きせずバイトを転々としていた俺が二年も勤められたのは先輩がいたからだ。  交通事故だったらしい。先輩の運転する車はブレーキが突然壊れて、高速道路のガードレールを突き破った。遺体はとても見られた状態じゃなかったらしく、一般の参列者は最期のお別れすら出来なかった。  訃報を聞いてから落ち込んで食事もままならなくなった俺を、リクは懸命に慰めてくれた。リクが先輩のご家族に連絡を取ってくれたから葬儀に参列させてもらえた。バイト先への連絡も買い物も家の掃除までやってくれた。今日だって顔も知らない先輩の葬儀に付き添ってくれた。いつもそうだ。俺が落ち込んでどうしようもなくなった時、リクは献身的に助けてくれる。ただの幼馴染みなのに。いや、ただの、ではないか。ただの幼馴染みはいい歳して一緒に風呂に入ったりしない。でも幼稚園の頃からずっと一緒だったし、幼馴染み以外に俺たちを定義する言葉が見当たらない。  湯船には既にお湯が張られていた。浴室は既に温かい蒸気で満ちている。  広い浴室は成人男性がふたり入っても余裕がある。リクの家は一人暮らしのはずなのに何もかもが大きい。もうひとりくらい住人が増えても快適に過ごせそうだ。仕事何してるんだろう。聞いたことはなかったけれど心配したこともなかった。昔から何でも出来たからな。  喪服を脱いで、お互いに素っ裸のまま、俺はリクに腰を抱かれて洗い場へ入った。  呆然と立ち尽くすばかりの俺を、リクは何も言わずに洗ってくれる。立っているのもしんどくてリクの背中に腕を回す。  身体を洗ってくれていたはずのリクの手は、いつしか子供をあやすように俺の背中を撫でていた。指先はゆっくりゆっくりと下に降りてくる。大きな掌が腰から尻にかけてを撫で回すと、抗いようもない快楽で脳が痺れた。 「……ふ、ぁ」 「ふふ、勃ってる」  泡だらけの手は俺の屹立をいやらしく包む。好きな人の葬式に出たばっかりなのに、悲しくて仕方がないのに、素直な身体に反吐が出る。  大きな手に弄ばれてぬちぬちと粘着質な音を立てる。ボディソープの音だけではないだろう。断続的な快楽に、浅い呼吸を繰り返しながら上り詰める。  リクのそこもしっかり反応していた。おずおずと触れればリクは甘い息を吐いた。 「ね、シュウ」 「何、リク」 「全部忘れさせてあげる。だから俺に全部任せて」 「……違うよ」 「何が?」 「忘れたいわけじゃない」  覚えていたいんだ。大好きな人の大好きだったすべてを。でないと本当に消えてなくなってしまう気がして。  俯いた俺の頬を掬い上げて、リクは俺の目を真っ直ぐ覗き込んだ。いつ見ても綺麗な顔。シミひとつない滑らかな肌、長い睫毛と優しそうな目元。リクの瞳に見つめられると思わず身体が竦んでしまう。鋭い眼差しに威圧されたのか、或いは心を奪われたのか。自分でも分からない。  やがてリクが目を細めて、首を横に振った。 「忘れて。シュウは悪くないし、シュウが忘れなくても、先輩にはもう会えない。仕方ないんだよ」  浴室に反響したリクの声が耳に残る。葬儀が終わったってまだ実感なんて湧かない。なのに耳にこびりついた言葉を胸の裡で反芻して、息が詰まったような嗚咽が漏れた。 「シュウは先輩の分も前を向いて生きていかなきゃいけないの」  追い討ちのようにリクが囁く。堪えきれずに目を逸らして泣きだした俺をリクはそっと抱き寄せる。子供を宥めるような仕草だ。俺の性器からは手を離さないままなのに。  こんなに悲しくて苦しくて死んでしまいたいくらいなのに、そこは腹につくほどいきり立って。もはや条件反射だ。俺が泣きたいくらい悲しいとき、リクはいつでもそばにいて、いつしかこんな方法で慰めてくれるようになった。忘れられない悲しみを忘れないまま、その瞬間だけは快楽に溺れられた。きっとこれからもそう。最初は高校生の頃だっけ。今みたいに泣きじゃくってどうしようもない俺に困惑しながら触れてくれた。今じゃもう困惑の色すらない。俺が泣き出すのは合図なのだ。 「こっちを見て、シュウ。俺の方を見て」  リクが俺を抱き寄せていた腕を解いて、向き合う格好になる。リクの肌の温度がほんの少し離れることへの寂寞は、もはや恐怖だった。  ぐずぐずの俺と目が合ったリクは甘い表情で微笑んで、それからキスをしてくれた。口の中をまさぐられるのに身を任せる。粘膜から融けあってひとつになってしまいそうなキスだった。 「ぷはっ……ん、あ、あう」 「えろい顔してるね、シュウ」  かわいい、と言ったか言わないか、もう一度唇を塞がれる。残さず食べ尽くされるようなキス。口内を犯される甘い痺れと、性器を擦られる鋭い刺激に肚の奥がずくずくと疼いた。  全身触れていないところがないくらい丁寧に愛撫されて、満を辞してとでも言わんばかりに後孔に触れられる。本格的に立っていられなくてリクにしがみついていたら、後ろを向かされて壁に手を突く格好になった。リクの顔が見えなくなって、リクと俺を繋ぐよすがは触れる指先の体温だけになった。  後孔に指が侵入する。解されて拡げられる感覚。望んでいた快楽を得て俺の身体の内側が歓喜に沸き立っている。それを分かっていると言わんばかりに、リクの指は慣れた様子で開拓していく。男の尻穴を解すのになんか慣れてどうするんだ。美しくて何でも出来る幼馴染みのことがちょっとだけ哀れになった。 「うぁ、んっ、く……な、リク」 「なあに、シュウ」 「は、やく、いれて。も、だいじょ、ぶ……だから」 「んー……分かった。挿れるね」  この身体の熱をどうにかしてほしい。心の中は土砂降りのように冷え切っているのに、身体だけが馬鹿みたいに昂っていた。  リクは俺の中を急かすようにこじ開けたくせに、最後の一線だけは丁寧に俺の同意を取ってから踏み越える。いつもそう。俺が泣きつくかリクがせがむかは半々くらいだ。リクに求められれば俺は拒まないし、俺が強請ればリクは躊躇なく差し出す。今日は後者だ。形骸化したやりとりなのに、何となく満たされた感じがする。何が満たされているんだろうな。まあ、物理的にはぎゅうぎゅうに満たされるんだけど。  指とは比べ物にならない質量が押し入ってくる。身体の内側がすべて埋め尽くされるような気がした。張り詰めた熱が擦れる感覚が即座に快楽に換わる。 「は、っあ、ああ」 「はは、うん、分かってたけどキツイな。シュウ、ちょっと早まったんじゃない? そんなに早く欲しかったの」 「あっ、っ、しゃべんなよ、う、うごきながら……っ」 「とかいって、更に締まってるけど。気持ちいい? もっと奥まで愛してあげる」 「う、あ、あっ……!」  意味のない音の羅列を吐き続ける俺に対して、リクの声は今にも笑い出しそうだった。おつかいの子供を眺めているみたいな、ペットの犬に擽られるみたいな。幸せそう、と反射的に思った。身勝手な願望かもしれないけれど。  ゆるゆると腸壁を擦られて、俺の身体は素直にリクの侵入を許してしまう。 「あっ、ああっ!? や、そこ、やめっ」 「やめるの? シュウはここ好きだよね」 「やだ、そこばっか、きつい……っ、は、うぁっ」  奥の奥。秘められた隘路よりも更に狭い入り口。悦いところを集中的に突かれては呼吸すら浅くなって、もう何も考えられない。  奥を突くのに夢中になるリクの腰が俺の尻に打ちつけられる。パンパンと激しい音が浴室に響き渡るのを他人事のように聞いていた。 「シュウ、シュウ……っ」  余裕のない声音。精を絞り取ろうとする本能からか、俺からも腰を揺らしてシュウを擦りたてる。……いや、本能って。孕むことも出来ないのに精を絞り取る本能なんかあるわけがない。じゃあなんでこんなに肚が切ないんだろう。俺の身体は熱に浮かされて自分の性別も分からないくらい馬鹿になってしまったのか。きっとそうだ。  リクが俺の腰を掴んで乱暴に腰を打ち付ける。暴力的なまでの衝撃が全部快楽に変換される。俺の足がガクガクになった頃に、リクが中で果てる気配を感じた。 「あ、あっ、うあぁっ!」  身体の奥に欲望をぶちまけられる感覚で俺も達する。壁に手を突くというよりは縋り付くような格好の俺を、リクは無理矢理抱き起こす。 「か、はっ、うぅっ、う、う……」 「……シュウ、は、ああ、シュウ、っ」  俺の名前を連呼しながら、リクは半ばのしかかるようにして俺の腰を掻き抱く。一度吐精したはずのリクの逸物は硬さを失わず、ぐりぐりと奥に押しつけられる感覚で俺は何度もイった。  気がついたら俺の性器はだらりと垂れ下がって、締まりきらない蛇口のようにぼたぼたと精液を垂れ流していた。  ようやく解放された頃にはすっかり腰が砕けて、崩れ落ちた俺をリクが優しく抱きしめる。浴室で散々やったから身体中が熱を持っているのに、リクに触れられた箇所は殊更に燃えるようだった。  なんとか身体を引きずってリクの方を向く。リクは俺の頬をゆっくりと撫でて、それから触れるだけのキスをした。リクの指先が、唇が、離れていくのがどうしようもなく怖かった。 「り、く」  掠れた声を出す俺の言葉をリクが無言で促す。俺はリクの瞳を覗き込んだ。胸の奥が焼け焦げるみたいに痛む。 「リクは、いなくならないよね」  疑問でも確認でもない。懇願だ。意識したわけじゃないけれど、口に出しながらそう思った。  リクは僅かに目を見開いて、それから穏やかに微笑んだ。 「いなくならないよ」  慈愛に満ちた眼差しで、今にも泣き出しそうに。頬を撫でていた指が俺の腕をなぞった。 「俺がそばにいてあげる。ずっと一緒だよ。シュウ」  リクの手が俺の手と指を絡める。触れ合うだけで心地いいけれど、指と指の僅かな隙間がもどかしい。でも、それでいい。ふたりの手が隙間なくくっついてしまったら、リクは本当に一生俺から離れられなくなってしまうのだ。それじゃ、ダメだから。 「俺をシュウのものにして、シュウは俺だけを見ていてよ。愛してるよ」  愛の言葉を吐いたリクに対して、俺は無言で目を逸らした。それが俺の返事だった。  好きな人の葬式はこれで四度目だ。  はじめは中学の同級生だった。風邪も引かないような人なのに心不全で死んだ。つまり原因不明ということだ。  ふたりめは高校の同級生で、さんにんめは部活の後輩。ふたりとも自殺だった。悩んでいる様子なんか俺には感じ取れなかった。恋人ですらない俺は遺書すら読むことはできなかった。  俺の好きになった人はもれなく死んでしまう。三回も続けば因果関係がどうとかじゃなくてもう理解してしまう。理解したはずだった。  先輩は明るくて前向きな人だった。ちょっとした困難にも挫けない人だった。だから先輩は大丈夫だ。何の根拠もなくそう思ってしまっていた。  人を好きになりたくない。誰かを殺すくらいなら、と何度も自殺を試みた。でもことごとく失敗した。飛び降りに失敗して足が歪んだ。ODに失敗して時計が読めなくなった。俺が死のうとする度にリクが言うのだ。シュウはあの人の分も生きなきゃいけないんだよ。俺がそばに居てあげるよ、と。俺は毎回、抱き締めてくれるリクの胸の中で子供みたいにわんわん泣いた。  俺はリクのことが好きだ。でも恋愛感情じゃない。リクが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるから甘えているんだとか、優しく慰めてくれるから勘違いしてしまったんだとか、言い逃れる方法はいくらでもある。俺は言い逃れ続けている。これは恋愛じゃない。優しい幼馴染みに対して抱く普通の友情だ。  リクが死んだら。考えるだけで死にたくなる。リクだけは死なせたくない。リクのことなんか好きじゃない。  だから、リクが死なないように、他の人を好きにならなきゃ──  何ということはない。俺が殺したのだ。中学の同級生も、高校の同級生も、後輩も、バイトの先輩も。  リクが死なずに済むのならそれでいい。心のどこかでそう思っていた。 ***  疲れ切って眠りこけるシュウの髪を梳る。  俺も疲れているはずなのに、高揚して一睡も出来なかった。シュウを抱いた日はいつもそうだ。目を覚ましたシュウに心配をかけないようにしっかりしなくては。朝ご飯を作るために上体を起こすと、壁に掛けておいた喪服が目に入った。  シュウの想い人の葬式に同行するのもこれで四度目だ。今回は二年も一緒に仕事をした相手だから、シュウの落ち込み具合もひとしおだった。かわいそうに。好きになった人に次々先立たれて。  ひとりめは中学の同級生だった。シュウのことが好きだと、シュウと一番仲がいい俺に相談してきた。両想いだったのだ。シュウは知らないけれど。相談を受けて、衝動的にその場で刺してしまった。後処理が結構面倒くさくて、自分で手を汚すのはやめようと心に決めた。  ふたりめとさんにんめは自殺だった。若者は楽だ。分かりやすい絶望を突きつけてやるだけで簡単に命を絶つ。しかし想い人の死に方として自殺はしんどいのだろう。シュウはとても落ち込んでいたし、ヤケクソになって俺に身体を明け渡したのもこの頃だ。シュウが自殺したら俺だってしんどい。だから絶対にそうはさせない。俺は本格的にシュウを監視し始めた。  よにんめ、つまり今回の相手。なかなか手強かった。家族もいなければ財産もほとんどない。失って困るものがない。本人も前向きで楽観的。更にシュウはそいつにちょっとした不幸が訪れるたび、大袈裟なくらいそいつを労った。想い人をふたり自殺で亡くしているのだ。無理もない。大好きな先輩にあらん限りの優しい言葉を並べ立てるシュウの姿は今思い出しても面白くない。我慢ならなかった俺は腕利きの暗殺者を雇った。手痛い出費だったが、俺がまごまごしていた分の時間を先輩への片想いに費やしたシュウは今までの奴らとは比べ物にならないくらい落ち込んで……ああ、いいものが見られた。見物料だと思えば大したことはない。  人を殺すのは好きじゃない。大変だし後味悪いし。でもシュウの周りに人がいなくなるまで俺は続けるだろう。シュウの目に俺だけが映る日が来るまで永遠に。  隣で眠るシュウが寝言でリク、と呼んで、俺の心臓がキュンと跳ねた。  シュウとはじめて出会った日のことを昨日のように思い出せる。アッシュグレーの髪と瞳は鏡で見る自分の色と全く同じ。世界でたったひとり俺と同じもの。運命だと思った。その小さな身体も眠たそうな目も弱々しい笑顔も全部守ってやりたいと願った。誰でもないシュウのために強くなろうと誓った。  ねえ、シュウ。そろそろいいでしょ。俺だけを見てよ。俺のことを愛してよ。身体だけじゃなくて心も受け入れてよ。全部を俺に頂戴よ。  愛してるよ。

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