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第1話

上高地、明神池のほど近くにそれはあった。 大正11年(1922年)6月  初夏の風が明神池の湖面をゆらし、 木々は青々と色濃く変化していく。 木々に囲まれた洋風の白い建物は昨年建てられたばかりだが、 周りの景色になんの違和感もなく調和していた。 明神池から数百メートルの所にあるサナトリウム【白百合】 そこに俺の妻は肺結核を患って入院している。 その為、俺はこの上高地にあるサナトリウム近くに家を借り、 東京から引っ越して小説を書いていた。 自宅からサナトリウムまでの道のりを自転車で軽快に走ると、 清々しい風が翔の頬をかすめて行く。 この季節の上高地は誰もが羨むほど涼しく過ごしやすかった。 あちらこちらに、 ここでしか見る事の出来ない高山植物が花を咲かせている。 最近は妻の具合も良く俺は上機嫌だった。 明神橋を渡ろうとした俺は橋の真ん中あたりで一人の青年と出会う。 その青年は格好から見て取ると都会育ちのように感じた。 通り過ぎる時にチラッとその青年を盗み見る。 その青年は澄んだ瞳をしたなかなかの美男子だ。 青年の優しげな瞳が俺を追う。 俺はそまのまま橋を渡りきったのだが・・・ 彼の事がきになり後ろを振り返ると、 荷物を引きずりながらその青年はまだ橋の真ん中あたりを歩いている。 「あれじゃ・・・無理だな・・・」 そう呟いてから俺は自転車を反転させ明神橋を再び戻り青年に近づくと、 彼は蒼い空の様に澄んだ瞳を見開いて驚いたように俺を見た。 「どこまで行きます?」 「・・・・・あっ、あの・・・」 「もしかして・・・白百合に?」 「はい・・・そうです」 「じゃあ、一緒だ!  その荷物を後ろの荷台に乗せましょうか?」 「え・・・いいです。  御迷惑になりますし・・・」 「でもそのままじゃ・・・  何時間もかかるんじゃないかな?」 「え?そんなに・・・」 「冗談だよ!」 お見舞いだろうか? それとも・・・入院だろうか・・・? 俺は彼の慌てぶりに笑いだすと 恥ずかしくなったのか彼の頬が薄っすらと赤くなって行く。 そんな彼を見て俺は申し訳なくなり、 「ごめん・・・  揶揄ってしまって・・・  俺も白百合に用事があって今から行くところだから・・・」 そう言って彼の荷物を荷台にくくりつけると、 自転車を押し二人で歩き出した。 「すみません・・・」 「いいよ、俺の妻もそこに入院してるんだ。  で、毎日こうして様子を見に・・・ね」 「そうなんですか・・・」 先ほどとは声色が変わった彼の顔を見ると、 やけに白いシャツが眩しくて・・・ 何故か俺は男相手に胸がドキドキしてしまった。 「あの・・僕、小野っていいます。  昨日まで東京の病院に入院していたのですが、  先生からここを紹介してもらって・・・」 患者だったのか。 「そうでしたか・・・  でも・・・何故?  身体に障りますよ・・・こんな荷物を持って・・・」 「あ・・・はい。  でも・・・この景色を見たくなって・・・  少し前で送ってもらった車から降ろしてもらったんです」 「そうだったんですか・・・  あ、挨拶が遅れました・・・俺は萩原です。  これでも物書きなんですよ?」 「あ、あの・・・もしかして【文藝春秋】に載っていたのは・・・」 「ご存知なんですか?  それ・・・俺です」 「そうなんですか?  僕、あなたの作品好きなんです。  こんな所でお会いできるなんて・・・・  毎月楽しみにしてるんです。  あなたの小説を・・・」 それから【サナトリウム白百合】に着くまで俺達は色々な話で盛り上がった。 「着きましたよ!  息は苦しくありませんか?」 「あ・・・はい、大丈夫です」 「なら、良かった。  荷物は後で持って行ってあげるから、  先に入院手続きをしてきたらいいよ!」 「はい・・・ありがとうございます」 先に行く彼が玄関先で俺の方を振り返る。 何? 彼は何ともいえない微笑を俺に残し、入って行った。 俺は顔が火照るのを誰にも見られない様に俯きながら荷を解き、 荷物を降ろすと玄関を入り彼の足元に置く。 「七号室が妻の病室なので・・・  手続きが終わったら声をかけてくれれば、  荷物を運ぶのを手伝うから・・・  遠慮せずに声をかけて・・・ね」 「あ・・・ありがとうございます。  じゃぁ・・・お言葉に甘えさせてもらって良いですか?」 そう言って微笑む彼は・・・ 俺の心を奪う程、魅力的だった。

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