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第2話
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毎日のように降り続けている雨に辟易していた六月のはじめ頃。
和美の身辺で奇妙な事件が起きた。
和美が俺に見せたのは、白く粘ついた液体まみれの上履きだった。
「悪質ないたずらだと思うだろう? 僕も始めは軽く考えていた。まるで漫画のような、悪質ないたずら。体操服が無くなったり、机の中に汚れたティッシュを入れられたり。僕の私物が誰かの手によって持ち去られたり、汚されたりしている。ストーカーという呼称は僕の被害妄想だろうか。陸、どう思う?」
「どう思うかって、そりゃお前……」
俺は言葉をにごす。和美の上履きにかけられていたものは間違いなく精液だ。彼だってわかっているのだろう。
同じ男として気持ちが悪い。
嫌がらせの度合いを超えている。
ただひとつ断言できるのは、この悪質ないたずらの犯人は俺ではない。和美も俺を信頼して俺に打ち明けてくれたに違いない。
「……確認だが、こういった性的な嫌がらせはいつから始まったんだ?」
「性的……うん、そうだね。性的。ここ最近の話だよ。前々から見ず知らずの生徒にぶつかられたり、足をかけられて転ばされかけたり。体育の時間は大嫌いだ。特に球技のときなんか、僕はかっこうのおもちゃだ」
「そんな目に遭っていたのか?」
「気づかなかったでしょう? 彼らは陰湿だし、そもそも君もこういうことに関してはとことん鈍い」
「鈍くて悪かったな」
「そうだ、君が悪い」
和美はそれきり黙りこんでしまった。
換気のために開けた生徒会室の窓から、すっかりしおれてしまったひとひらの桜の花びらがひらりと舞いこみ彼の髪を彩る。和美はどちらかといえば女顔で、それをからかわれることを何よりも嫌った。
もっとも、彼が指摘した通り、俺が気づかなかった――いや、気づけなかっだけで、今回のような性的な嫌がらせは初めてではないのだろう。
「それで、やったやつの目星はついているのか?」
「さあね。僕には敵が多いし」
「俺も含めてか?」
「君……?」
「先に言っておくが俺じゃねえぞ。この俺がお前で抜くと思うか?」
「冗談だって。本気にするなよ」
「だからお前嫌われるんだ」
「おかしいなあ。生徒会選挙で圧倒的得票差を勝ち取って会長になったのに」
「生徒会選挙……」
俺はひとつの可能性を見出した。
「なあ和美、お前の対抗馬だったあいつ……なんて名前だっけ、前田とか前川とか」
「前原か……。僕はあいつのことよく知らないんだけど、君は?」
「確か一年のときに同じクラスで、ああそうだ、クラス委員をしていた気がする」
「僕より詳しいじゃないか。名前くらい覚えててやれよ。可哀想だろう」
「みんな委員長って呼ぶから名前なんか覚えてないだろう。そもそも存在感があまりないやつだったし」
「で、その前原が選挙で大敗した相手であるこの僕に対して悪質ないたずらをしたと? それも性的な。飛躍しすぎじゃないか?」
「そういうお前は誰か心当たりはないのかよ。この際相手が女生徒でもありだ。そいつが男を仕向けて、その……かけさせたのかもしれないし」
「うーん。心当たりねえ。告白してきた女の子に対しては紳士的に断っているし、女の子はともかく、誰ともトラブルになった覚えはないよ」
――誰ともトラブルになった覚えはない、か。
和美の些細な一言は、俺の過去の傷をえぐるには十分だった。直接指摘しても、きっと彼は理解すらしないのだろう。
良くも悪くも自分に不都合なことがあれば早く忘れる和美はある意味幸せなのかもしれない。
だがその幸せは誰かの不幸があって成立している。
「……ああ、でも」
「どうした?」
「心当たり? になるかわからないけど、三年生に上がった頃くらいかな。男に告白された。好きです。付き合ってくださいって」
「男?」
「一学年下の岸谷って男。これといった接点はないけど、ずっと僕を好きだったらしい。岸谷は悔しいけどイケメンだから、僕なんかよりも女の子と付き合ったほうがいいよって断ったんだ」
「まったく、お前ってやつはどうしてこうも直球なんだ。オブラートに包むって知らないのか?」
「まったく望みがないなら、きっぱり断ったほうが相手のためだろう?」
「一理あるが……まあいい。なあ和美、どうして岸谷のことは覚えていたんだ?」
「そりゃあ、男に告白されたのが初めてだったからさ。今まで女の子ばかりだったから」
「初めて……」
「ん?」
「いや、なんでもない。とにかく生徒会選挙の対抗馬だった前原と、お前に告白した二年生の岸谷。まずはこのふたりから探ってみるか」
「……なあ陸、実は今日の本題はそのことなんだけど」
神妙な面持ちで和美が切り出す。
「本題も何も、お前に対してこんなことした犯人探しが目的じゃないのか?」
「違う。このことはいいんだ」
「よくねえよ」
「大ごとにしたくないんだよ。僕は一応生徒会長だから、こんないたずらごときで評価を下げるのはまずい」
「いたずら? 犯罪の間違いだろ?」
「……っ」
「いいか、和美。相手は男のお前に対して性的な欲望を抱いている。それだけなら百歩譲ってまだいい。問題はお前の持ち物を盗んだり、自分の精液をかけたり、そういったことだろ。窃盗、器物破損、ストーカー。全部立派な犯罪じゃないか!」
「陸、さすがに言い過ぎだぞ」
「俺は間違っていない」
「僕は今回のことは全部嫌がらせだと割り切ることにする。当事者の僕が決めた。そこで本題だ。上履きのことも含めた今回の一連の事件は、君と僕との間だけの秘密にしてもらいたい」
「秘密だと?」
「僕は自分でもメンタルが強いほうだと思っている。けれどもし……もし、僕がくじけそうになったら、陸、君に支えてもらいたい」
「それを自分勝手っていうの、知らないのか?」
「君しか頼れないんだ。これくらい甘えさせてくれよ」
俺は和美の顔を見た。
気丈に振る舞っているつもりだろうが、彼の瞳には恐怖と不快感が宿っている。
――陸しか頼れない……。
自分でもイヤな性分だが、頼まれたら断れない。
「わかったよ和美、お前の言うとおりにする。だがな、万が一お前自身に危険なことが起こったら、俺は即行すべてを報告して対処するからな」
「ありがとう。その言葉だけでも嬉しいよ」
「で? 今日一日どうするんだ? そんな気持ち悪い上履きなんか履けないだろう」
「陸、君たしか予備持ってるだろ? お兄さんのお下がりのやつ。なんかあったときのためにロッカーかどこかにしまってあるって君から聞いたような気が……」
「抜け目ないやつだな。ああ、確かにあるよ。入学してから一度も使ってないがな」
「新しい上履きが手に入るまで貸してくれないか?」
「まあいいけど、サイズ合わないだろ」
「靴下だけよりマシさ」
「そりゃそうだ。部室のロッカーにあるから持ってきてやるよ。ここでしばらく待っててくれ」
「助かるよ陸。本当、感謝してる」
和美の殊勝な態度は珍しく、ずっと見ていたい気持ちになったが、俺は生徒会室を出て部室へと駆けた。
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