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第3話

SIDE:天沢カイリ  出勤前に、お気に入りのカフェで苦味の強い珈琲を飲む。昨日、ブラックの珈琲を無理して飲んで吹き出した隼太を思い出して、ひとりクスッと笑った。  思い出し笑いをするなんて初めてかもしれない。隼太と過ごした日々はまだまだ短い期間だが、充実と大きな安らぎを運んでいた。新しい自分に気付く機会も少なくない。  彼を思い出すだけで心が柔らかくほぐれていくようだった。しかしそんな柔らかな時間も、ひとりの声で台無しになった。 「なに、珍しく機嫌良さそうだね」  許可した覚えもないのに、勝手に同じテーブル席に腰を下ろす男を見て思わず溜め息が出た。 「あれ、やだなぁ。さっきの笑顔はどこいったわけ?」 「たった今、お前が消したんだよ」  ギロリと睨むが、目の前の男は気にする素振りもない。余裕のある表情で店員に注文するその姿がまた腹立たしいが、それを表に出せば相手の思うツボ。ぐっと堪えるしかなかった。 「で、いい加減俺と番う覚悟は決まった?」  頬杖をついて、あたかもそれが当たり前の未来かのように男──美原貴也(みはらたかや)が言う。  腐れ縁である貴也が、緩くウェーブのかかった黒髪を揺らしすまし顔を向けてくる。大抵のオメガはこの男の容姿や仕草にイチコロで、それを本人も自覚して動くから鼻につく。  そんな引く手数多な男の執着は迷惑なことに俺に向けられ、まるでその道しかないかのようにいつだって目の前に立ち塞がってくるのだ。 「だから、俺はお前と番う気など一ミリもないと何度言えば分かる?」 「俺たちもう二十六だよ。そろそろ馬鹿なこと言ってないで、ちゃんと考えてよ」  馬鹿なこと? アルファと番わない未来が、馬鹿なことだというのか。 「俺にはもう将来を考える相手ができた」 「まさかそれ、ベータの男の子のことじゃないよね」  俺の顔色が変わったのを見て、貴也が意地悪そうにニヤリと笑う。 「なぜお前が彼を知ってる」 「カイリも人が悪いよねぇ、あんな初そうな子を弄んでさ」 「まさかお前……」  そこまで言って、それが愚問であったと奥歯を噛み締めた。アルファにとってオメガは獲物。独占欲の強いアルファは自分の獲物に他人の匂いがつくのを極度に嫌がり、それを阻止するために監視する傾向が強い。  アルファに目をつけられたオメガにプライバシーなどあってないようなもの。例に漏れず貴也も、人を使って俺を監視していたのだろう。 「あの子に何かしたら許さない」 「それはカイリの行動次第じゃないかな?」 「ッ、」    怒りで震える俺の手に重なりそうになった貴也の手を弾き立ち上がると、声をかけることなく店を後にする。  一秒でも早く、同じ空間から去りたかった。  貴也とは幼少期からの付き合いで、親の仕事関係の繋がりで出逢った。一般的にはそれを幼馴染と呼ぶこともあるのだろうが、俺たちの間にそんな青臭い関係は存在しない。 『オメガなら、黙ってアルファに従うもの』  出逢った瞬間から、そんな見えない鎖で繋がれた不毛な関係でしかなかったのだ。  ◇ 「隼太……?」  いつものように恋人を会社まで迎えに出れば、ビルの前には見たくもない男の姿があった。しかもその男の手は、大切な存在の肩に回されている。  外に出たところをいきなり貴也に捕まったのだろう。 「貴也ッ」 「おおっと、乱暴はやめた方がいいと思うな」 「カイリさん……」  状況が呑めないのだろう隼太は、下がり気味の眉をいつも以上に垂れ下げて俺を見る。 「あ、あの、この方は……」 「俺はね、カイリの───」 「ただの腐れ縁だ!」 「カイリ、嘘はいけないよ嘘は」  ニヤリと笑う顔はあまりにいつもと同じで嫌な予感しかしない。その予感は的中して、貴也は隼太の耳に口を近づけると、そっと囁く。 「俺はカイリの、婚約者だよ」  びくりと揺れた隼太の肩。一瞬で頭に血が上り、乱暴な手つきで隼太の腕をとると引き寄せた。 「貴也、いい加減にしろ!」  思い切り引っ張り強張った隼太の体を腕の中に閉じ込めると、それを見た貴也が薄ら笑う。 「いずれは分かることだろう?」 「こ、婚約者……」 「そう、俺たちは約束された関係なんだよ」 「俺にそんな気はない!」 「どちらにしても、よく話し合うべき内容だろ? 君にも無関係じゃないんだし、今夜は俺も一緒していいだろう?」  胡散臭い笑みを浮かべる貴也から視線を外した隼太は、強張った固い表情のまま俺を見上げた。 「婚約者って、本当ですか?」  全くの出鱈目だと言えたらどれだけ良かっただろうか。 「…………親が、勝手に決めたことだ」 「でも、本当なんですね」  いつも明るい感情を溢れさせている綺麗な瞳が、大きく揺れて哀しみの色を帯びる。その色に気づいた時にはもう俺から逸らされ、貴也を映し出していた。 「日を改めてもらえませんか。明日とか、明後日とか、今日じゃなければいつでもいいので」 「俺は構わないよ。そうだな、明後日の夜ならどう? その日は俺とカイリも一緒に実家に顔を出す日だし、丁度都合がいいだろ」 「貴也!」  語気を強めて咎めたところで今更遅い。恋人に婚約者がいて、その相手と実家に顔を出していると知って一体誰が気分良く話が聞けるだろうか。隼太の哀しみの色は濃くなった。 「隼太……」  思わず伸ばした手はするりとかわされ、心を覗きたくとももう視線すら合わない。 「詳しい時間と場所はまた後で教えてください。迎えはいりません、現地集合で構いませんから」 「隼太、」 「じゃあ俺は、これで」 「隼太ッ!」  逃げるように去ろうとする隼太の腕を縋る想いで掴む。 「せめて家まで送らせてくれ」  だがその手の力も、合わない隼太の瞳の色に思わず緩んだ。掴んだ腕から自身の手が力なく滑り落ちる。 「お願いです……今日はこのまま、黙って見送って」  背けられた視線、向けられた背中。その全てが今、俺を拒絶していた。 SIDE:END

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