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 午前中の仕事が一段落したタイミングでコーヒーを淹れた。  日差しが差し込む事務所はほかほかと暖かい。パソコンに向かって書類を作っていた孝弘のデスクにもマグを置く。たまたまみんな出払っていて、事務所には孝弘と祐樹の二人だけだ。 「謝謝」 「不用謝」  コーヒーを一口飲んだ孝弘がうーんと伸びをする。椅子の背もたれがぐっとしなって、気持ちよさげにふーっと息を吐いた。 「ねえ、今日って何か祝日だっけ?」 「今日? 10月28日? 何もないはずだけど何で?」 「朝、テレビでそれっぽいこと言ってたけど、聞き取れなかったから」 「んー? なんだろ」  孝弘は壁に貼ったカレンダーを確かめて「ああ」と納得した声を上げた。 「農歴《ノンリー》9月9日だ」 「9月9日? 何だっけ?」 「重陽節《ジョンヤンジエ》だな」 「ジョンヤンジエ? って何の日?」 「伝統祝日で、日本風に言えば重陽《チョウヨウ》の日」 「重陽の日もわからないよ」  祐樹が笑うと、孝弘が俺もよくわからないと苦笑した。 「日本で何する日か知らないけど、中国だと菊花茶とか菊花酒飲んで、山登りする日だっけ? 俺もそのくらいしか知らない」 「お茶飲んで山登り?」  祐樹が不思議に思っていたら、ちょうど朴栄哲が戻ってきた。 「朴さん、重陽節って何する日?」  早速孝弘が訊ねた。  朴はああと頷いて答えた。 「重陽ガオを食べますね。あとは山登りします」 「やっぱり山登りなんだ」 「でも休みじゃない人は行かないですよ」 「そりゃそうだ」  中国の祝日は二種類ある。一つは法定祝日で新暦を使うものが多く、元旦や労働節、国慶節などで国が定める休日扱いだ。  もう一つは農歴に従う伝統祝日。元宵節や清明節や中秋節がそれにあたり、農歴なので毎年日程が変わる。祝日と言いつつ、伝統祝日の場合は休日ではないこともある。  今回の重陽節も祝日だが休日ではない。学校も職場も通常営業だ。 「どうして山登り?」 「昔の伝説で、桓景という人がいて、菊花酒を飲んで高い所で難を避けた話が由来です。家に帰ったら家畜が死んでいて、桓景は助かりました。だから菊のお茶や酒を飲んで、山に登るようになりました」  朴の説明に孝弘と祐樹はふうんとあいまいな顔でうなずいた。祝日の由来はたいてい昔の伝説で、聞いてもあまりよく分からないことが多い。日本だって同じだろうけれど。 「それで万里の長城が人でいっぱいだったんだ」 「長城? 朝のテレビはそういう映像だった?」 「うん。祝日だから長城も混んでてなんとかって聞こえたけど、何だろうって思って」 「特にそんなに盛大な祝日ではないですよ」 「そうなんだね。まあ長城はいつも人でいっぱいだろうけど」  世界有数の観光地だから、いつだって混雑している。  でも祐樹は人がほとんどいない長城を知っていた。留学生だった孝弘がタクシーをチャーターして連れて行ってくれた。  まだ知り合ってすぐで、祐樹が一人でこっそりカッコいい子だなと思っていた頃。あれはどこだったっけ? テレビで見た八達嶺《バダリン》じゃなかったことは覚えているけれど。 「長城って山登り扱いなんだ」  孝弘の目がふっと懐かしい色を浮かべた。同じ記憶を思い出したことを知って、祐樹は孝弘と目を合わせて微笑む。 「私は行ったことないですが、かなり険しいんでしょう?」  朴はいつか行ってみたいと言う。 「冬に行くのはやめた方がいいですよ。凍って滑りやすいから」 「大連育ちだから、大丈夫です。でも行くなら季節のいい時にします」 「あー、もう10月も終わりか」 「早いよね、大連来てからものすごく時間経つのが早いよ」 「忙しいからですよ。そうだ、上野さん、明後日の午後、時間ありますか?」 「ああ、どうして?」 「乾新公司と打合せがあるんですけど、その時にこの資料を持って行きたいんです。少し見てもらえませんか」  朴が孝弘とミーティングを始めたので、祐樹は自分のデスクに戻った。 作者注:中国の祝日・休日制度は1999年と2007年、2013年に大幅な改定が行われました。この小説の舞台である1998年と現在では祝日・休日の制度が違っています。

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