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先生

 三年間、何度も通った道のはずだったのに、今日は特別に街路樹ものびのびとして見える。私は逸る気持ちを抑えてハンドルを切った。洋平は少年院の門の前で、荷物を持って私を待っていた。すっかり背も伸びて青年の面持ちになった洋平は、それなのに風が吹いたら消えてしまいそうだ。 「いい天気だ。海でも行こうか」  荷物をトランクに乗せながら、大げさにはしゃいで見せる。洋平は俯いて笑った。すべて見透かされていると私は思った。その日は車で千葉の海岸線を走らせて、妻と娘が出て行ったマンションへ洋平を連れて帰った。 「コーヒー入れるから待ってろ。あれ、藤田はコーヒー飲めたっけ?」  私が部屋の中をあくせく動き回っている間、洋平は荷物を持ったままドアの前に佇んでいた。 「……先生のニオイがする」  なんて、はにかんで言うので、 「さぁ、いきなりは無理だと思うけど、まぁ、自分の家だと思ってくつろいでくれ」  私は畳みかける。そうして、胸の奧底から沸き上がるなにかに蓋をする。  洋平は私に好意のようなものを抱いていた。はじまりは中三で担任を持ったときだった。生徒ひとりひとりに深入りしないと決めていた私の心の隙間に、彼は五月の風のように入り込んできた。痩せた身体で、集団から弾かれて、学校を休みがちだった洋平に、私は積極的に話しかけた。最初は警戒していた洋平だったが、そのうち家で一人で病気の母親を看病していること、父親が長い間帰ってこないことなどをぽつりぽつりと話してくれた。洋平が心を開いてくれるにつれ、私は有頂天になっていった。やっと一人前の教育者になれたような気がしていたのだ。洋平の私に対するまなざしは、徐々に熱を帯びていった。私は頑なに気付いていないふりをした。決して応えなかった。教育者としてこれ以上深入りはできない。一線を引いた。そして彼は、母親を殺した。 「先生。一緒に寝てもいいですか」  夜。用意した布団を抜け出して、洋平は私のベッドにきて言った。 「どうぞ?」  ここで拒絶しては不自然だ。私は微笑み、布団をあげて洋平を迎え入れる。洋平の身体はちゃんと温かかった。遠慮がちにしていたので、布団越しに背中をさすってやった。やがて彼は声もなく泣き始めた。私は眠っているふりをした。  次の日から洋平は、生まれ変わったように意欲的に過ごしているようだった。昼間は図書館に通っているという。夜は帰宅した私のために夕食を作ってくれた。休日は一緒に銭湯に行ったりした。最初の夜のことなどなかったかのように、私たちは仲のいい親子のようにしばらく過ごした。こんな毎日がずっと続いてくれればいい。私は心から願った。  しかし、終止符はすぐに訪れた。洋平が家を出て行くという。住み込みの仕事を見つけたのだ。 「先生、今までありがとうございました」 「うん」 「もうこれ以上、先生にご迷惑かけたりしません」 「……うん」  私は皿を洗うため、流し台の蛇口を捻る。水が排水溝に流れていくのをいつまでも見つめていた。  その夜、夢を見た。私は暗闇の中、洋平の職場に電話を掛ける。電話口に出た責任者にこう告げるのだ。「藤田洋平は人殺しだ」と。朝、飛び起きて、逃げるように家を出た。まだバケツの水を頭から被ったような冷や汗が止まらない。改札を抜けてホームについたら、自分の顔と目が合った。自殺防止用に設置された鏡に写ったそれは、真っ青だった。雑念を振り払うように仕事をして、帰宅する。部屋が真っ暗だったので、電気をつけると、洋平が項垂れて椅子に座っていた。なぜか就職の話がなくなったのだという。私のせいだと思った。そんなはずがないのに、雷に撃たれたように強くそう確信した。 「……心配いらない。次もあるさ。藤田は若いんだから」  それでも私はまだ、性懲りもなく歯の浮くようなセリフを並べ立てた。 「図書館に行ってきます」  洋平は私の言葉には答えず、そう言って夕闇の中を出て行った。その夜、彼はそのまま帰らなかった。  私は洋平を探し回った。図書館や銭湯、スーパー、喫茶店、公園、駅、学校。洋平が行きそうなところを何度もすべて見て回った。夜空がいっそう暗くなってきた。新聞屋のバイクとすれ違い、鳥たちがけたたましく鳴き始める。疲れ果てた私はいったんマンションに戻った。洋平がいた。玄関のドアの前で蹲っている。 「どこへも行けませんでした」  洋平は泣き腫らした目で私にそう言った。気が付いたら私は、彼を抱き締めていた。  夜明け前の水色に染まったベッドで、私たちは服を脱ぎ捨てながらキスをした。 「先生。ずっとこうしたかった」  現れた痩せた身体に口づける。 「んっ……あっ……」  私は洋平の形のいい性器に触れた。震えているけれど、熱い。 「あぁっ……先生っ……」 「綺麗だよ。君は綺麗だ」  深く口付けをしながら、夢中で彼の性器を擦った。長い腕がしがみついてくる。私たちの息遣いが部屋中に響いている。 「あっ、あっ……あぁっ……!」  やがて洋平がいっそう声を上げて、私の手の中で果てる。私たちの行為は、セックスと呼ぶにはあまりにも稚拙だった。私にはわかっていた。きっとこのことで、洋平の中のなにかが決定的に壊れてしまうだろう。洋平は無意識に私を試していたんだと思う。私は試練に破れ、洋平の正しい親になることができなかった。元には戻らない。だけど、私はずっと、壊れた君の傍を離れはしない。  私たちは裸で抱き合って眠った。最初の日の夜と同じように、でも今度は素肌に触れて洋平の背中をさする。洋平。まだ涙が止まらないのか。洋平。君のための居場所を作ろう。どこへも行けないなら作ればいい。何者にも脅かされることのない居場所を。たくさんの子供たちを集めて、みんなで一緒に、家族よりも家族らしく暮らそう。朝の光が私たちを咎めるように差し込むので、目を閉じた。

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