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第22話 幕間 伸也の独白
最初に透を見た印象は、表情が変わらない子だな、と思ったのを覚えている。
どこかぼんやりとしていて、大人しい。透が家に遊びに来るようになっても、その印象は変わらなかった。
「透は、おやつは何が食べたい?」
物心ついた時から、仕事が忙しくて留守がちな両親だったので、寂しさを紛らわせる為に透を家に呼んでは、色々な話をした。
最初は反応が薄かった透も、次第に感情が表情に現れるようになって、彼と会うのを楽しんでいる自分がいることに気付く。
それは透も同じだったようだ。透からも家に遊びに来るようになり、僕が作ったおやつを食べることが、二人の最大の楽しみになっていた。
透の家庭環境が普通じゃないことは気付いていた。夜中まで聞こえる大声に、透が謝る声。けれど、幼い僕には彼をきちんと救う方法なんて分からなかったし、それを自分の両親に話すなんて頭もなかった。
何より、自分に甘えてくるようになった透が弟のように可愛くて、頼られることで自分の存在意義を測ろうとしていた節がある。今思えばそれが幼なじみの域を超えた関係の、始まりだ。
八つ年下の可愛い弟。彼の笑った顔を想像するだけで何でもできた。元々料理は好きだったけれど、お菓子作りも趣味になったのは透のおかげ。
透も、僕という逃げ道を見つけたおかげで、安定していたように見えた。このまま、本当の兄弟のように過ごしてもいいとさえ思っていたら、透が家の前で立ち尽くしているのを見かける。僕が十五歳の時だった。
透は一切表情がなく、その顔に嫌な予感がして僕は声を掛ける。僕を見た途端、彼は眉を下げたのでホッとした。
家に帰りたくないという透を自宅に招き入れたけれど、その日は様子が違った。黙って抱きついてきた透が、泣き出したのだ。
感情が出なかった透の大きな進歩だった。けれど、外では彼の両親の言いつけ通りいい子を演じ、家では息を潜めていた彼は、限界を超えてしまったのだろう。
そんな透が、僕の所に来て僕にしがみついて泣いている。それがとてつもなく愛おしく感じた。ああ、僕は頼られているんだ、嬉しいんだと感じたのだ。
そんな透の気持ちに応えるように、透の額に口付けをした。そして次の瞬間には、どっと冷や汗が出る。僕は今、何をしたのだろう、と。
「涙が止まるおまじない。……止まったね」
大きな目をぱちくりさせてこちらを見る透に、僕はなぜか罪悪感を覚える。どうしてちゅーをしたのと問う透に、家族だからだと言うと、透は文字通り飛び上がって喜んだ。
でも僕の内心は穏やかじゃなかった。家族愛というニュアンスに対する、とてつもない違和感。今透に湧き上がった感情は、本来持っていてはいけないものだ。
僕の中で何かが崩れる。それは、今まで築いてきた幼なじみとしての信頼関係だったように思えた。幸い、透はそのことに気付いていないようだったから、僕はいつものように彼に微笑む。そして、今しがた顔を出した感情に、そっと蓋 をしたのだ。
この感情は、透に依存するあまり勘違いで出てきたものだと。
彼が独り立ちできるように促すのが、『兄』の役目なのだと。
◇◇
だから、大学進学と同時に一人暮らしを始め、物理的に距離を取ったことは正解だった。透は当然寂しいと不満そうにしていたけれど、休みの度に遊びに来ていたので、透のメンタルはギリギリ保たれていたらしい。
僕はできる限り兄として振舞った。お互い兄弟はいなかったけど、本当の兄弟のように過ごしているつもりだった。──多少スキンシップが過ぎるとは思ったけど。
就職すると、もっと透と会う機会は減った。でも透はそれなりに大きくなったし、学校では友達にも恵まれたらしい。その頃に、僕はある人を紹介されたんだ。
会社の社長令嬢だった。立場上無下にもできず、お試しにお付き合いすることになる。
けどチャンスだ、と僕は思った。このひとと添い遂げれば、透に僕の気持ちを知られずに済む、と。
だから、自分に依存させた責任として、家に招き入れ自立を促そうとしたんだ。僕の役割はもう終わり、思う存分自由な人生を歩む準備をしてくれ、と。あの両親のそばにいては、到底自立など無理だろうから。
でも透は相変わらずで、一時期落ち着いていたと思っていたのに、またメンタル的に不安定になっていた。やはり都合のいいストレスのはけ口にされていた透。不安定な所を支えつつ、見守るつもりでいた……けれど。
「またその話?」
彼女に言われてハッとする。どうやら彼女に、透のことを話しすぎたらしい。不機嫌になってしまった彼女にごめんと謝ると、彼女は微笑んで腕を絡めてくる。
「でも、結婚してくれるんだよね? 好きなのは、私なんだよね?」
その言葉で彼女をどれだけ不安にさせていたか気付き、申し訳なくなった。
彼女は可愛い。柔らかくて、ふわふわしていて、世間知らずなところが、僕の世話焼きな性格をくすぐった。
そう、これで間違いないのだ。彼女に頼られて、普通の家庭を持ち、子供を産んで、それから……。
でも、透に彼女がいることがバレてしまった。いや、バレたという表現は正しくないか。とにかく、僕は進むべき道を見つけたから、透も独り立ちしろと突き放した。それから、透の様子がおかしかったから心配していたら──ある日から、透は姿を消してしまった。
透の荷物が残された部屋で、僕は呆然と立ち尽くす。
どこに行った? 頼る場所はあるのか? 泣いてはいないか? そんなことばかりが頭を巡る。
ある日、透の部屋が綺麗に片付いていた。そこには満足気な彼女がいて、すぐにその意味を察する。
今までにない喧嘩をした。こんなに怒ったのも、怒鳴ったのも初めてだった。そして、自分こそ透に執着していることに気付く。
家を飛び出し、手当り次第透を探した。大学の友達にも会って話した。けれど彼は何も教えてくれない。それどころか、今更何を言っているんだと叱られた。不安定な透を、なぜ放っておいたんだと責められた。
ぐうの音も出なかった。
僕は彼女と別れ、仕事も転職し、生活に慣れた頃に興信所を頼って透を探す。そこまでに三年……彼女との決別に時間がかかりすぎた。
そして待っていた興信所からの連絡。素人相手なら、探すのは案外簡単らしい、すぐに透の今の生活が知れて、愕然とする。
ほぼ毎日、ハッテン場と呼ばれる店で相手を見つけては売春し、その相手の家や、ホテルで寝泊まりしていたのだ。
「しんちゃんじゃん、久しぶり」
透はいつも見せていた笑顔を向ける。けれどこの時、僕には分かった。笑ってはいるけれど、表面だけ。無表情を隠すことに、慣れてしまったのか。そうさせたのは、僕だ。
胸が痛むけれど自業自得だ、僕は目の前の透を見て誓う。
もう、泣かせない。透は僕が何がなんでも守る。何があっても味方になる。
擦れてしまった透を見て、僕は内心でそう呟いた。
もう、自分の気持ちに蓋はしない。
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