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【第10話①】あいしてる 1
どんなに手間と時間をかけて積み上げたものでも、崩れる時は一瞬だ。
そうやって居なくなっていく人間をたくさん見てきた。誰よりも有能だった父親は、ある日突然病に倒れて会話すらできなくなった。
物心ついた時から、正臣は会社のために生きてきた。だが、正臣は知っている。
どれだけ心を尽くしても、会社が自分を守ってくれることはないのだ。
東京丸の内。須藤グループホールディングス本社ビル。
最上フロア。そこには、主に役員が使用するためだけに作られた会議室がある。
ロの字型に並べられた机に、会社の重鎮たちが並ぶ。
ロの字の下側。入り口のドアからほど近い場所に、正臣は腰を掛けていた。つい先日まで正臣の席は、もっと部屋の奥側の方にあったはずだけれど、そんなことを今ここで取り立てても仕方がない。
部屋の時計が、十時を指した。予定されていた時刻だった。
かろうじて聞こえていた、さざ波のような雑談が、一斉にして消える。
「正臣」
真正面から、声がした。
それは、父の弟、正臣の叔父にあたる人物のものだ。
「これより君の、専務取締役解任決議を行う」
*
夏が過ぎて、季節は秋を迎えようとしていた。
「準備、出来たか?」
マンションの部屋で、国近肇は問いかけた。
午前八時。柔らかな陽の光が部屋の中には差し込んでいる。問いかけられた青年――美斗はコクリと頷いて、ソファーから立ち上がった。
二人並んで、玄関先へ向かう。
『One Week』に掲載された記事は、都築の言う通り、すぐに全国ニュースになった。須藤グループ側は、いったんは各方面に手を回し、事態を丸く収めようと努力したようだ。しかし、同時期ネット上で例の記事と同じ経験をしたというSubの声が複数見られるようになり、それは立ち行かなくなった。一転して批判に晒されるようになり、株価においては大暴落を続けているという。
同じ頃に美斗が起こした民事裁判は、現在二回目の口頭弁論を控えている。須藤グループがこうした状況のため、書類の提出が遅れているらしい。詳しい期日はまだ決まっていない。
そして、記事が掲載された少し後、美斗は警視庁に来庁し、須藤正臣氏とその父親・須藤忠臣氏を刑事告訴するための相談をした。
それを元に国近は事情聴取を行っており、美斗の供述が整い次第、告訴状の作成と受理に移ろうと考えている。元々美斗が書面を用意していたということもあり、事情聴取は概ねスムーズに進んでいる。おそらくあと二回程度で、次のステップに移れるだろう。
今日は、美斗の何回目かの事情聴取が予定されていた。国近はこのまま美斗を連れて出勤し、朝の捜査会議を終えた後、彼の聴取に移るという手筈になっている。
玄関先で、国近が革靴に足を通す。美斗の道を作ろうと顔をあげた。
美斗が一歩、こちら側へと踏み出す。
その時だった。
もう一歩と足を踏み出した彼の身体が、壁に向かってゆらり、と揺らいで。
支えを失い、床へと倒れ込む。
「……っ! ハルト!」
その身体を、国近は寸でのところで受け止めた。
「ぇ……あ」
胡乱な目が、こちらを見上げる。
彼の額に触れると、じんと、手のひらに温みが伝わった。
「君、熱があるんじゃないのか」
*
ピピッ。電子音が鳴る。ベッドに横になった美斗が、脇に挟めた体温計を差し出した。
縁に腰を掛けて、国近はそれを受け取る。表示板に視線を落とすと、デジタル数宇が37.6を示していた。
そこまで高熱ではないけれど……。
「疲れているんだろう」
つらい過去を振り返るのは、精神的な負担がかかる。
事を急ぐ必要があったから、聴取も少し勇み足になっていた。その前だって、誹謗中傷に晒されて、かなりのストレスを貯め込んでいた。
加えて、ここ二、三ヶ月、満足にPlayも出来てない。厳格に欲求の管理をしている国近よりは、美斗の限界の方が早いはずだ。
「気が付かなくてごめんな」
Subの健康管理はDomの役目だ。美斗の限界を把握しきれていなかったのなら、次から気をつけなければならない。
この状態でPlayは無理だな。でも午後までなら傍にいてやれるだろうか。そもそも正臣氏がどう動くか分からないから、美斗をなるべく一人にはしたくないのだ。
今日も聴取のあと、大志に美斗を拾ってもらって家の番をしてもらう予定だった。彼に言えば、直接ここに来てもらうことは可能だろうが、それも午後は過ぎてしまうだろう。
本来なら護衛をつけた方がいいのだけれど、人が増えれば、せっかく刑事部長が情報操作してくれているこちらの動きが正臣氏に感づかれる恐れもあって、中々難しい。
不甲斐なさそうな目が、こちらを伺う。
それを見て、国近は目まぐるしく動き回っていた思考を一旦全て停止させた。
「少し休んだらいい」
優しくそう伝えて、薄く笑う。そっと美斗の頭を撫でた。
美斗は、二、三言何かを言おうと唇を開いた。けれど、伝えたい言葉は上手く見つけ出せなかったようだ。
そのままゆっくりと、瞼を閉じる。
*
数時間後。
モダン調のダブルベッドで、須藤美斗は瞼を開ける。
「おはよう」
声に反応して、頭上を見上げる。
ベッドサイドに座ったまま、国近が美斗の頭を撫でていた。その手はそのまま、額の方へと移動して。
「熱、少し下がったみたいだな」
ぼんやりとした眼で、美斗は国近を見つめた。どうしてこんなことになったんだったけ。
ああそうだ。朝から聴取を予定していたけれど、出かけに自分が倒れてしまったのだ。
今日は目が覚めた時から、調子がおかしいような気はしていたけれど、まさか倒れてしまうとは思わなかった。
身体に力が入らないし、頭もよく働かない。
だけど、額に載せられた手はひんやりと心地よくて。それだけで、美斗は息をすることが出来るような気がした。
なんだか前にもこんなことがあったな。あれは、兄に連れ戻されたすぐあとだった。須藤の屋敷で痛めつけられていたところを、国近が救い出して、この場所に匿ってくれた。
Sub dropで高熱にうなされて、とにかく辛くて、苦しくて、身体がバラバラになってしまうような気がして。
そんな自分を、彼は懸命にケアしてくれた。自分を救いあげてくれるのは、いつだってこの骨ばった手だ。
そっと、手のひらを重ねる。国近は薄く笑って、しばらくそのままでいてくれた。
「……今、何時?」
少ししてから、問いかける。
「もうすぐ十二時半になるところだよ」
「……仕事は?」
出勤時間はとうに過ぎているはずだ。自分のためにその時間をずらしたのなら迷惑をかけてしまった。
国近はなんてことないように笑って、
「もう少ししたら出る」
と答えた。
「十四時過ぎに、大志くんが来てくれるそうだ。それまでの間一人になってしまうけれど……」
「大丈夫だ」
昨今テレビをつければ、朝も昼も、須藤グループの話題で持ち切りだ。本邸や本社ビルだけでなく、第二邸宅の前にもたくさんのマスコミが張っているのを見た。
あんな状態なら、兄だって何も出来ないだろうと思う。
ふいに、美斗は胸が痛む。随分と大事になってしまった。須藤グループは大きい会社だから、関係のない人にも影響が及んでいるかもしれない。
「……そうか」
それでも、不安は拭えないといった様子で、国近は目を伏せる。
美斗の枕元にスマートフォンを置いた。
「それ、置いていくから。大志くんが来たらかけてくれ」
「……ああ」
国近の目線が、チラリと腕時計を見る。そろそろ時間なのだろう。
「すぐ戻る」
それだけ言うと、国近は立ち上がって、部屋を出ていこうと背中を向けた。
「……なあ」
ドアノブを掴んだ背中を、美斗は呼び止める。
「……ん?」
そのまま、彼は振り向いて。
落ち着いた様子で首を傾げた。
「お前は……」
そこで、美斗は固まってしまった。
口に出そうとしていた言葉の奇妙さに気が付いて、唇を閉じる。
「……ああ、いや……。なんでもない。いってらっしゃい」
「……? そうか」
国近は一瞬、怪訝そうにこちらを見つめた。けれど、深くは気に留めなかったようで、再び穏やかに笑うと背を向けた。
パタン、と部屋のドアが閉じる。少し経ってから、扉の向こうで国近が玄関を発つ音が聞こえた。
一抹の寂しさを抱えながら、美斗は反対側へと寝返りを打つ。
自分は何を言おうとしていたのだろう。
――お前は、いなくなったりしないよな。
なんて。
子どもみたいな不安だ。今日は具合が悪いから、少し気が弱くなっているのかもしれない。
小さく笑って、美斗は毛布を手繰り寄せた。
*
頭が痛い。
「だから私は反対だったんです。いくら代表が危篤とは言え、まだ若い正臣さんに会社を任せるなんて」
「不当支配の事実は本当なのか」
「就活生の間では弊社を避ける動きも出ています。このままでは今年度の新卒採用は見込めないかと」
「責任をどう取るおつもりなのか」
目の前で繰り広げられる論争に眉根を寄せて、須藤正臣はこめかみに指を置く。
机に視線を落とし、深く息を吐いた。
責任、とはよく言えたものだ。
そもそも正臣が責任を問われるとすれば、それはあの子のことだけだ。
人事の件は、自分が生まれるよりも前から続いている。
ここにいる全員、平等に責任があるはずなのに、そのことには誰一人触れやしない。自分一人を切り捨てて、本当に事が丸く収まるとでも思っているのだろうか。
この歪みは後を引く。きっと十年後も、二十年後も。
「みなさん、一度落ち着きましょう」
そう言ったのは叔父だった。柔らかな微笑を浮かべて、わざとらしく周囲に呼びかける。
「彼の言い分も聞かなければいけません。これはそのための会でもあるのですから」
温厚な顔を装って、この男の中に魔物が住んでいるのを、正臣は知っていた。
「正臣」
と叔父が自分を呼ぶ。
「私は君に弟がいるなんて、つい最近まで知らなかったよ」
「はっ……」
あまりにもおかしくて、正臣は笑ってしまった。
随分今さらな指摘だ。本当にそう思っていたのなら、初めの報道が出た時点で言うはずだ。
自分を庇う気など端からない。巧妙に詰める時期を伺っていただけのくせに、堂々としたものだ。
「楽しそうですね」
誰よりも自分が邪魔だったはずだ。
だって……。
「過日の脅迫の件は貴方が――」
「正臣様」
後ろから声が飛んで、正臣の言葉は遮られた。従順に控えていた桐野の声だった。
そこで、はた、と気が付いた。
ああ。しまった。今のミスは随分と自分らしくない。
あの時の証拠は、自分が全て消してしまった。会社のためを思っての判断だったけれど、こんなことになるなら、早めに叔父を潰しておくべきだったかもしれない。
自分は重要な判断をいくつか間違えた。
顔を上げる。冷ややかな瞳が正臣を囲んでいた。
頭の右側が、ガンガンと警鐘を鳴らす。
頭が痛い。もう、ずっと長いこと眠れていないのだ。
正臣、だなんて、父はどうしてこんな名前を自分に付けたのだろう。
この場所に、この玉座に、正しさなどない。
その時だった。
正臣の中で、プツン、と何かが切れる音がした。
*
午後1時過ぎ。警視庁。
国近が向き合っていたのは、先週まで一課が追っていた事件の被疑者だった。
美斗の告訴状を受理するまでは、こうして他の事件の補佐をすることになっていた。
国近は順に事情を聞き、情報を整理していく。
聴取が始まって、二十分程度過ぎた時だった。
ふいに入り口の方から、ノックの音がした。目線をそちらの方へと向ける。
「国近、ちょっと」
そこに立っていたのは柏木で、手招きをして国近を呼んでいた。
「……すいません。少し外します」
記録係を担当していた同僚にそう言い置いて、パイプ椅子から立ち上がる。
取調室を出た。
そっと扉を閉めて、柏木と向かい合う。
「どうかしましたか?」
と聞くと、柏木はスマートフォンを取り出し、画面を向けた。
ライブニュースの動画のようだ。再生ボタンを押す。
テロップに映っていたのは、こんな文字だった。
――【速報】須藤正臣氏、退任。
その言葉が意味することに気が付いて、国近は目を伏せる。いずれこの日が来ると思っていたけれど、それは国近が想像していたよりも早かったようだ。
廊下にキャスターの声が響いていく。
『須藤グループホールディングスは、本日、正臣氏の専務取締役解任決議を行い、全員可決で正臣氏の解任が決まりました』
映像に本社を出る正臣氏の姿が映っていた。
報道陣の前を無言で通り過ぎ、硬い表情で車へと乗り込む。
『今回の退任ついて、一連の週刊誌騒動については触れられていませんが、関係者によれば経営面での責任を取る形だと……』
そこで、柏木が映像を止めた。
胸元にスマートフォンをしまいながら、国近の方を見る。
「ひとまず、外部からの圧力はもう警戒しなくてもいいはずだ」
事態が収束に向かっている。
告訴状を無事に受理し、容疑が固まれば誤魔化すことは難しくなるだろう。こちらの思惑通り、美斗の請求を受け入れるしかなくなる。
王手まであと少しだった。
「……」
その時、国近は急に、妙な焦燥感に襲われた。
硬く唇を結んだ正臣氏の表情が、やけに頭に染みついて離れなかった。
「柏木警部」
「一度マンションに戻ってもいいですか」
あの場所で、美斗はいま一人きりだ。
「嫌な予感がします。杞憂だったらいいのですが……」
*
雨が降っている。
ベランダから響く、柔らかな雨音に気が付いて、美斗はうっすらと目を開けた。
薄暗くなった部屋の中で、その音だけが響いている。どこか酸っぱい雨の匂いが部屋中に香っていた。
いつの間にかまた眠っていたらしい。
枕元に手を伸ばして、スマートフォンを確認する。時刻はちょうど十三時半になるところだった。天井に身体を向けて、美斗ははぁと深く息を吐いた。
本調子ではないけれど、今朝よりはだいぶ気分もいい。少しぐらいなら身体も言うことを聞いてくれるようになった。
もう少し休んだら、食事を取ろう。朝から何も食べていないから、何か胃にいれた方がいいだろう。
そんなことを考えながら、再び目を伏せる。
その時。ふいに、玄関の向こうで足音がした。堂々とした音は国近の奏でる足音と似ているけれど、歩幅の速さは少し異なる。
続いて、カチャリと鍵穴に鍵を差し込む音が耳に届いた。
「……?」
横になったまま、美斗は首を傾げた。
大志が来るには、まだ早いはずだけれど……。
上体をゆっくりと起こす。
のろのろとベッドから降りる。寝室の扉を開けて、リビングへと向かった。そのまま玄関先を確認しようとして、気が付く。
視線の先に、男の足先が見えた。
光沢のある革靴と、見慣れたスーツの裾。
仕立てのいい、黒のスーツ。――兄が好んで着ていたもの。
それを見て、美斗の顔はさぁっと青ざめた。
顔を上げる。
絹糸のような黒髪が、その人の顔に翳りを落とす。
薄暗い室内に、彫刻のような綺麗な顔が浮かび上がった。
「首輪、外しちゃったんだな。似合ってたのに」
――支配者が立っていた。
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