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第5話 パーティのお伴

 スピネル様は本当に有言実行の人らしく、僕が戻って来てからというもの積極的に治療に協力してくれるようになった。  それはありがたいことだけれど、具体的な治療方法は僕にもわからない。詳しい王宮医に借りた本やら資料やらを読んではみたものの、これだという方法はないようだった。  それなら本人が望むことを最初の目標にするのがいいだろうと思って訊ねたら、「きみの隣に座りたい」なんておかしなことを言われてしまった。 (でもまぁ、本人が望むことのほうがうまくいくだろうし)  どうして僕の隣に座りたいのかわからないけれど、これまで誰かが近づこうとするだけで耐えられなかったそうだから、成功すれば大きな一歩になる。  よし、当面の治療方針は決まった。  初日はこれまでどおり、僕とスピネル様がはす向かいに座って軽く会話をすることから始めた。大した内容じゃなかったにしては、思ったより弾んだ気がする。 (なるほど、会話がうまいっていうのは本当だったのか)  そのせいか、気がつけば僕のほうがたくさん話していた。  兄二人も王宮医だということ、大兄に子どもができたこと、そういやちぃ兄が公爵家のご令嬢と結婚したことはスピネル様も知っていた。そうそう、スピネル様は一番盛大だった王族ご出席のお披露目パーティに呼ばれていたらしい。さすがサンストーン伯爵家の次期当主様だ。まぁ、お姉さんが陛下の第二夫人だってことを考えれば当然か。  で、最後のほうでは僕が紅茶はミルクより蜂蜜派だってことと、ファルクのところのお菓子が大好きだってこともしゃべっていた。  うーん、会話がうまいっていうより、聞き上手って感じがする。恐るべし、スピネル様。  そんなふうに気軽な会話をしながら紅茶を飲むお茶の時間で、毎日少しずつ僕の座る位置をスピネル様に近づけていく。それがもっとも自然で無理がないと考えたからだ。  そうして七日目、ついに同じソファの端と端に座ることに成功した。 「この距離に人が近づいたのは、いつ振りだろうな」  スピネル様が感慨深げな声でつぶやいている。まだ僕とスピネル様の間は二人分くらい離れているけれど、いままでのことを考えるとこの距離はすごいことだ。  でもって、この距離になって初めてあることが気になり始めた。  紅茶を飲みながら、左隣にいるスピネル様をチラッと見る。……うん、たしかに綺麗な人だよな。ファルクが言っていたとおり、ご令嬢だけじゃなくご子息にも人気があるのもわかる気がする。  貴族はみんなキラキラして綺麗なものが大好きだ。衣装も宝石もやたらめったらキラキラしたものばかり身につけたがる。それは王族も貴族も綺麗で美しい人が大好きだから、気を引くためにキラキラしたものを身につけるってことなんだろう。  そんな貴族の中でもスピネル様は間違いなく最上位に位置する美しさだ。そういうことに興味がない僕でもわかる。  そんな人が誰とも近づけないのは、なんだかもったいないし悲しい。そんなことを思いながら、気がつけばスピネル様をじっと見つめてしまっていた。 「どうした?」 「ええと、ここまで近づけるようになってよかったなぁと思いまして」 「そうだな、まだ隣とは言い難いが随分進んだと思う。これもサファイヤのおかげだ、礼を言う」 「……あ、りがとう、ございます」  急に名前を呼ばれると、まだびっくりして言葉が詰まってしまう。「きみ」なんて呼ばれていたのがずっと前のことみたいに、協力的になった日からスピネル様は僕のことを名前で呼ぶようになった。  おかげでまったく気に留めてもいなかったスピネル様の声が、驚くくらいいい声だってことにも気づかされた。そのせいで、こうして名前を呼ばれるだけでなんだか耳の後ろがゾワゾワしてしまう。 「そうだ、伝え忘れるところだった。二日後にキーカドル公爵家のパーティに行くことになったんだが、サファイヤもついて来てほしい」 「え? 公爵家のパーティに、僕がですか?」  キーカドル公爵家といえば、ちぃ兄の奥さん、ブロッシア様の実家と並び立つ大きな家だ。何度か公爵様のお孫さんたちを診察したことはあるけれど、その程度の縁しかない僕が呼ばれもしないパーティに行くのは、どうなんだろうか。 「人が多い場所でも何か変化が見られるかもしれない。自分ではわからないことも、サファイヤなら気づけるだろう?」 「なるほど」  治療の一環として、パーティの場を使うということか。それなら担当医である僕がついて行くのも頷ける。でも、そうなると……。 「僕がついて行っては、スピネル様の健康問題になりませんか?」 「すでに噂は広がっているだろうから、気にする必要はない。こういった噂話は山のようにあるから、そのうち飽きて忘れられるだろう」  そういうものなのか。  それにしても噂話ばっかりなんて、貴族って暇なのかな。王宮医の僕ですら毎日耳にするくらいだから、実際の噂話というのはもっとたくさんあるんだろう。そう思うと、やっぱりうんざりする。 「それに、王宮医というのは貴族の間で人気なんだ。パーティに呼ばれることも多いし、いても不思議じゃない」 「……あー、スピネル様も王宮医の取り合い、ご存知でしたか」  患者たちに取り合いされる王宮医がいることは知っている。取り合いの一環として、パーティに呼ばれる王宮医たちがいることも。  腕のよい医者を独り占めしたいと思うのは仕方がないとして、取り合いっていうのはどうなんだ。常々そう思っているし呆れてもいるけれど、実際に僕も何度か目にしたことがあった。それに取り合いの理由は腕の良さだけじゃなかったりするわけで、本当に貴族ってどうしようもない人たちだ。  そういう意味で王宮医は人気者かもしれないけれど、それはあくまで一部の王宮医に限られる。僕のようなヒラの王宮医が取り合いに巻き込まれることは、まずない。 (そんな僕が公爵家のパーティに行ったら、浮きそうだよなぁ) 「僕なんかが行っても大丈夫ですか?」 「浮いたりはしないと思うが?」 「そうですかねぇ」 「わたしが側にいるのだから大丈夫だ。それに久しぶりの大きなパーティだ、この機会を逃す手はない」  たしかにキーカドル公爵家が開くほどのパーティに、僕みたいなヒラの王宮医を何度も同伴させることはできないだろう。それならスピネル様が言うように、どのくらい変化があるか確認するために今回のパーティを利用させてもらうのがいいかもしれない。  それにおいしいものも食べられそうだし、僕としてはそれだけでもうれしいことだ。そんなことを思いながら、蜂蜜たっぷりの紅茶をグイッと飲み干した。   ※ ※  いやぁ、噂話には聞いていたけれど、やっぱり貴族のパーティっていうのはすごいな。今回はダンスが中心だと聞いていたから料理はあまりないのかなと諦めていたのに、そんなことは全然なかった。  中央は踊りやすいように何も置かれていないけれど、壁やテラスに沿うように大きなテーブルが並んでいて、お酒を飲みながら摘めるものがたくさん用意されていた。しかも相当豪華だ。こってりしたお肉もあればあっさりした魚介もあるし、フルーツやデザートなんかもそこそこあって楽しくなる。  僕はシャンパンを片手に、並んだ料理を片っ端からパクパク口に運んでいた。さすがにこんな行儀が悪いことはスピネル様の側にいるときはできないから、いまのうちに食べられるだけ食べておこう。 (それにしても、スピネル様は本当に人気者なんだな)  パーティ会場に来てからというもの、スピネル様はずっと人に取り囲まれている。というのも、ひっきりなしにスピネル様に人が寄って来るからだ。  その様子に、最初は大丈夫なのかと心配した。スピネル様が耐えられるのは、僕相手でも二人分の距離が必要だ。そんなことを相手が知っているはずもなく、ニコニコと近づいてくる人たちにどうするのか、もし異変があれば僕が止めなければと最初のうちは身構えもした。 (結局、スピネル様自身で対処できたんだけどさ)  よく考えたらスピネル様はこうしたパーティに何度も参加しているはずで、これまでも自分でどうにかしてきたのだろう。 「しっかし、あざやかな手さばきだよなぁ」  ああいうのも“手さばき”と表現するのなら、だけれど。  自分に近づいてくる人を真っ先に見つけることができるらしいスピネル様は、先制攻撃とばかりにその人に向かって優雅に微笑みかける。美しすぎる笑顔は効果抜群のようで、近づこうとしていた相手は見惚れて途中で立ち止まっていた。  その笑顔の威力は凄まじく、近づこうとしていない人までもが吸い寄せられるようで、少し離れたところからスピネル様の美しい笑顔を眺める人たちが出てくる。そうすると必然的にスピネル様の周りには一定の距離を空けて人だかりができるわけで、そんな人の輪を押し退けてまで近づこうとする無作法な貴族はいない。 (たしかに、あの笑顔はずっと見ていたくなるけどな)  スピネル様を眺めたくなる気持ちはよくわかる。僕も最近、うっかり眺めてしまうことがあるからだ。それに、ちょっと距離をとってしまうことも。  そもそも、あの美しい笑顔を至近距離で見ることに耐えられる人がいるんだろうか。いいや無理だ、無理に決まっている。あんな美しい笑顔を間近で見てしまったら、目が潰れるか気絶するに違いない。だから、ちょっと離れて全身を眺めるくらいがちょうどいい。  綺麗なものを見慣れている貴族も同じ感覚なのか、大抵の人は四人分くらい距離を取って話しかけていた。ついでに言えばスピネル様は必ず花や何かの側に立っているから、前方以外から不意に人が近づく危険もない。それはたぶん計算してのことで、さすが聡明と言われているだけのことはある。 「でも、これなら僕がついて来なくても問題なかったんじゃ……?」  うーん、まぁいいか。おいしい料理が食べられるし、こんな喉越しのいいシャンパンなんて初めてで気分が上がる。いつもどおりの速度と量を食べても、みんなおしゃべりやダンスに夢中で見咎められることもない。 「よし、ここは思う存分食べることにしよう」 「相変わらずよく食べるな」  ちょっと大きめにカットされたメロンを口に入れたところで、耳の後ろがゾワゾワするいい声が聞こえてきた。思わず「んぐ」と喉に詰まらせそうになって、慌ててシャンパンで流し込む。……うわぁ、もったいない食べ方をした。  振り返ると、予想どおりスピネル様が立っていた。おぉ、いつもの二人分より少しだけ近い距離だ。これは新しい変化への第一歩かもしれない。 「お勤めご苦労様です」 「お勤めとは、またおもしろい表現だな。だが、あながち間違いでもないか」  状態も悪くなさそうでよかった。 「どこか変わったことはありませんでしたか?」 「とくにはなかったな。近づいてこようとする輩を見つけるたびにゾッとはするが」  おっと、そっちはまだまだのようだ。まぁそんなに簡単には変わらないだろうし、仕方ない。 「そうでしたか。僕には、とても和やかに会話を楽しまれているように見えましたよ?」 「だろうな。もう十年以上もこうした対処法を続けている。社交会で顔見せしたときから変わらないから、誰も違和感を感じていないだろう」  そんな前からとは、……いろいろ大変だっただろうなぁ。そう思うと、せめて普通に会話ができる距離まで縮められるといいなぁと改めて思う。僕を踏み台に少しでも状態が改善されるなら、医者として本望だ。 「気に入った料理はあったか?」 「全部おいしいですよ。このお肉なんてちょっと酸味のあるソースが抜群ですし、こちらの貝柱は旨みが強くて最高です」 「あぁ、このあたりの料理は我が家では出ないからな。食材にこだわり過ぎていて、味つけに面白みがない」  へぇ、そんなことを思いながら食べていたのか。……ということは、おそらく料理に使われている食材のことも知っているんだろうな。 「そのうちこうした料理も並ぶようになるだろうから、楽しみにしているといい。元々我が家の料理人たちの腕前は城の料理人たちにも劣らないものだから、きっと満足できるはずだ」 「楽しみにしています」  そういう日が来るということは、スピネル様に精力増強料理を出さなくてもいい状況になるということだ。いつになるかわからないけれど、本人がこうして前向きなのだから、そう遠くはないはず。 「それにしても、サファイヤは本当においしそうに食べるな」 「あはは、僕には食べることくらいしか楽しみがないもので、お恥ずかしい限りです」 「恥ずかしがることはない。おいしそうにたくさん食べる姿は、見ていて気持ちがいい」 「……ありがとうございます」  ニコッと笑いながら言われると、なんというか妙に照れてしまう。少し上がった心拍を落ち着けようと、おかわりのシャンパンをグビグビと飲み干したところで「やはりカンターベル家の……」という声が聞こえてきた。  声がしたほうに顔を向けると、知らない男性が立っていた。見るからに貴族らしい格好をしているから、このパーティに呼ばれた客の一人だろう。  顔は知らないけれどカンターベルの名前を口にしたということは、どこかで診察した相手かもしれない。患者のことは大体覚えているんだけれど、……うーん、診察したことがあっただろうか。  栗色の髪に碧眼で、おそらく五十代くらい。……記憶にない。もしかして兄たちや親父の付き添いで会ったかもしれないけれど、それじゃあ思い出せない可能性が高い。 「ええと……」  どう返事をしたものかと口ごもったとき、クイッと後ろに服を引かれた。「なんだ?」と振り返ると、スピネル様が僕の背中部分の服をなおも引っ張っている。 (……あぁ、そっか、距離が近すぎるのか)  僕を挟んでいるとはいえ、男性とは三人分くらいしか離れていない。見た限り、僕以外の人とはまだ四人分くらい離れていないと無理なようだから、ここはスピネル様に合わせて少しだけ距離を取らせてもらうことにしよう。 「先ほどからスピネル殿と仲良く話されているのが気になりましてね。それでつい目が留まってしまったんですが、あなたはたしか……」  ってことは、やっぱり診察した誰かということか。……うーん、顔を見てもやっぱり思い出せなかった。しかし相手のほうは僕を知っているようで、それならそれなりの対応をしておいたほうがいいだろう。 「お世話になっています、王宮医のサファイヤです」  思い出せない相手でも、大体こういう挨拶をしておけば大丈夫。これは王宮医になって学んだことだ。 「やはりサファイヤ殿でしたか! いや、指名してもなかなか診てもらえなくて、いつも残念に思っていたんですよ。いやぁ噂には聞いていましたが、たしかにかわいらしい人だ」  かわいらしいって、暗に背が低いと言いたいのか? それとも、パーティに参加するためにスピネル様が用意してくれた衣装が似合わないと言いたいのか。 (……たしかに孫にも衣装状態ではあるけどな)  ちょっとばかりムッとしたけれど、ここは我慢、愛想笑いを浮かべながら返事をする。 「それは申し訳ありませんでした」 「本当に、何度もお願いしているんですよ? お酒を飲み過ぎた翌日の頭痛や胸焼けといったらたまったものじゃない。せめて好みの医者に診てほしいと思っているのに、いくら言っても『サファイヤ・カンターベルは診察中です』のひと言で門前払いだ。ひどいと思いませんか?」 「あー、その、申し訳ありません」  この人も大したことないのに王宮医を呼びつける貴族の一人か。こういう輩がいるから、僕たち王宮医はいつも激務なんだ。  酒を飲み過ぎたらどうなるか一度経験したら、そうならないように次からは自制すればいいだけの話だろう。そんなことでいちいち呼び出されていたら、他の仕事が滞ってしまう。 (おかげで食事の時間はなくなるし、毎日ヘロヘロで帰宅してヨロヨロで家を出ることになるんだぞ!)  僕のほうが頭痛がすると思いながらも、顔だけはニコニコ愛想笑いを浮かべ続ける。 「しかし、噂どおりサファイヤ殿は王宮医には見えないですね。あぁ、悪い意味じゃないですよ? 王宮医といえば威圧感がすごいというか、冷たい表情の人が多いじゃないですか。わたし、医者のそういうところがどうも苦手でしてねぇ。しかしサファイヤ殿は違うのだと、あちこちで噂を耳にします。そのせいですかね、ぜひサファイヤ殿に診察してほしいという男が結構いると、そういう話をよく聞きますよ」  満面の笑みを浮かべながら男性が一気に話し始めた。最近はスピネル様と穏やかな会話しかしていなかったから、こういうのは久しぶりだ。 (いるんだよなぁ、こうやって王宮医相手に間断なくガンガンしゃべる人)  そのせいで診察時間がどんどん延びて、後がどんどんつかえていく。そうすると深夜まで働くことになってしまい、それが毎日くり返される。そんな職場での疲労感が蘇ってきて、愛想笑いの頬が引き攣りそうになった。 「しかし、こうしてパーティで出会ったのも何かの縁。サファイヤ殿、今度ぜひ診察をお願いしたい。もちろん診察の後は食事やお茶も――」 「それは無理でしょう」  え? なんでスピネル様が断るんだ? いや、断ってくれるのはありがたい。ヒラの王宮医である僕には、貴族の直接の依頼を断ることなんてできそうにない。  だから助かったことにはなるんだけれど……オレンジ色の目が男性を睨んでいるように見えるのは、気のせいだろうか。間断なきおしゃべり男も驚いた顔をしている。 「スピネル殿、それはどういう……?」 「彼には専属で診てもらっています。残念ながら別の診察を請け負うことはありません」  おっと、それを言ったら駄目じゃないですか! それじゃあ自ら病気療養中だと公言してしまうことになりますって! そういう健康面の話は本当に繊細な問題で、だから貴族の間で噂に上るんじゃないですか!  思わず僕のほうが焦ってしまった。患者の不利益になるようなことは避けたいのに、患者本人が話題を提供するなんてどういうことだ。 「専属ということは、スピネル殿が指名したという噂は本当でしたか!」  あー、この人、声まででかい。いまの言葉で結構な人数がこちらを見始めている。 「サファイヤがわたしの専属担当医であることは間違いありません。だから今日もこうして伴っているのです」 「それはまた、噂以上に大層な気に入りようですな」  あぁ、みんなザワザワし始めた。体的にはまったく問題ないのに、これじゃどこか病気なんだと勘違いされてしまう。  かといって潔癖気味の治療をしているのだと言うわけにもいかない。そんなことを口にしてしまえば「それじゃあ後継ぎは難しいだろう」なんて、伯爵家存続の危機になってしまいかねないからだ。  オロオロしながらスピネル様を見ると、なぜか余裕で微笑んでいた。しかも、ガンガンしゃべっていた男性まで笑顔になっている。……うーん、笑顔というよりもニヤニヤしているというか、そんな笑顔でどうして僕を見ているんだ? 「わたしも三十になったからか、父や姉が体のことを心配してくれましてね。とくに姉は人一倍健康に関心があるようで、何かと気にしてもらっています。それもあってサファイヤに担当医をお願いしたのですよ」 「エスメラード様がスピネル殿の健康を……。ということは、やはり……!」  うん? 一気に周りの空気が張り詰めたような気がするんだけれど、どうしたんだろう?  エスメラード様というのは、陛下の第二夫人であるスピネル様のお姉さんの名前だ。お姉さんとは随分歳が離れているそうで、一番下の甥は今年、社交会で顔見せをしたと聞いている。でも、僕が知っているのはその程度の情報だ。 (こういう貴族社会の情報には疎いんだよなぁ)  貴族のことは、ちぃ兄が詳しい。だから公爵家のお姫様を射止めることができたんだと言っても過言じゃない。  もちろん僕も王宮医だから最低限の知識はあるけれど、貴族には興味もなかったし、変なことに巻き込まれたくなかったから噂話も聞き流すことのほうが多かった。そもそも貴族のことより食事と睡眠のほうが大事だから、余計なことに時間を取られたくないんだ。 「ひと通り挨拶も済んだ。そろそろ失礼しようか」 「そうですね、帰りましょう!」  はい、帰りましょう! 僕にはここに留まる理由はないし、これ以上ここにいたらスピネル様のためにもよくない。……いや、いま帰っても何かしらの噂話は広がるんだろうけれど。 「ではスーツネル子爵、お先に失礼させていただきます」 「あぁ。お体、労ってください」  あれほどしゃべっていたのに、最後はニヤニヤしたりソワソワしたり、口より表情のほうが忙しそうな人だった。というかこの人、子爵家の人だったのか。もう会うことはないかもしれないけれど、一応覚えておこう。  どこか変な空気になった貴族たちの間を通り抜けて玄関に向かった。途中で誰かに声をかけられたような気がするけれど、振り向くことはできなかった。だって、さっきからズンズン腕を引っ張られているから、前を見ていないと危ないんだ。 (……って、あれ? 僕の腕を引っ張ってるのって……)  服の上からだけど、僕の腕を掴んでいるのは間違いなく僕より大きな手で。 「ス、スピネル様……!?」  びっくりしすぎて声が裏返った僕に「かわいい声だな」なんて笑ったスピネル様は、そのまま馬車に乗るまで僕の腕を引っ張り続けた。 (腕、腕! それにいま、か、かわいい声って言いましたー!?)  スピネル様、一体どうしたんですか……!?

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