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第1話
プロローグ
世界でいちばん愛する人が亡くなった。
目の前で焼かれていく姿を、俺はただ呆然と窓の外から見つめるだけだった。
親族の中には入れない。
法的に正式な家族ではない俺は、なんの特権もなくてただ「友人」としてそこにいた。
涙は出なかった。
棺が見えなくなっても、あの人が焼かれて空へと上っていく煙や匂いも、何を感じても涙なんて出なかった。
愛おしいあの人は、広い空へ流れていく。
いくつもの困難を乗り越えて、心を開かない俺に親身になってそばに居てくれて、何度も不安定に暴れるを俺を抱きしめてくれて、抱く時はこれまでよりも一層甘く優しくて、逞しい腕が心地よくて、低い声も、優しい笑顔も全てが大好きで。
それなのに、呆気なく人は死ぬ。
心の底から、世界でいちばん、愛していた彼を、
なんで神様は俺から奪ったのだろう。
初めて愛せた人だったのに。
#1
「かなめー、飯できたからテーブル片してー」
台所から友人の声がする。
聞こえてはいるものの、俺は返事をしなかった。
「ったく、また聞こえねーフリですかい」
呆れた友人は、良い香りのするスープを持って俺の目の前に置いた。
「おら、雑誌とか置きっぱじゃねーか。っつーかこれ読んでんの?読んでねーなら捨てんぜ」
「……」
一点を見つめぼんやりしている俺の目の前に、ヒラヒラと手が動かされて、ぱちくり目を見開く。
ゆっくり顔を上げれば、呆れた友人の顔が目に写った。
「ぼーっとしてねぇで、スープ食えよ」
「……うん」
ありがとう、と呟けば「おう」とぶっきらぼうな返事が聞こえた。
友人──周藤(すどう)──も、対面に座りスープとおにぎりをばくばく食べていた。
「お前も食う?おにぎり。一応あっけど」
「……いや、大丈夫」
「言うと思った」
苦笑される。
俺は目の前のスープをスプーンで掬い、一口啜る。
淡いコンソメの味が荒れきった胃に優しく染み渡る。
けれどすぐ吐き気に襲われ、目を瞑った。
「駄目か」
落胆したような周藤の声に、俺はゆっくり目を開けて小さく「……ごめん」と呟いた。
「……いいよ、って言ってやりてぇとこだけど、何も食えねぇのはやっぱ何とかしねぇとなぁ」
もう半年、まともな食事が出来ていない俺の体は痩せ細って貧相だった。
食生活が狂い、不眠症になり、自律神経は狂って精神も体も絶不調そのもので、発情期もぴたりとこなくなってしまっていた。
「なあ。いい加減病院行かねぇ?」
ぼんやり目に写す友人の顔には心配の色が浮かんでいる。
テーブルの上で手を組むその左手には銀色の指輪が光っていて、こいつが新婚だった事を思い出す。
「……周藤、もう帰っていいよ。俺、1人で平気だから」
「どこがどう平気なんだよ」
「でも、奥さん寂しいだろ。お前が頻繁に家なんか来てたら」
ましてや俺もオメガなのだ。
オメガの奥さんからしたら気が気でないだろう。
いくら周藤がベータだと言えども。
「アイツからは逆に、様子見てやれって言われてんだよ。同じオメガだから分かんだろ。アルファが居なくなった後のオメガの事」
「でもいい気はしないだろ。それはお前を思って言ってくれてるだけで、俺を思ってるわけじゃないし。それに、……人はいつ居なくなるか分かんないんだから、そばにいれるなら居てあげた方がいい」
半年前に番を亡くした俺の言葉は周藤にとって重かったらしく、何も言わなかった。
自分で言った台詞だったけれど、そのせいでまた吐き気に襲われテーブルに突っ伏した。
もう何日こんな日々が続いているのだろう。
亡くなった番──康祐(こうすけ)さん──が亡くなったのは、半年前。
不慮の事故だった。
事故にあってからは暫くまだ生きていた。
だから、後遺症は残れど、呼吸までは止まらないと思っていた。
それなのに、事故にあって1週間後、康祐さんは呆気なくこの世を去った。
「おい、大丈夫かよ」
「……す、どう」
亡くなった日のことが鮮明に頭に過り、心臓がばくばく激しくなって、血の気が引いていく。
手足が冷たくなって、体が震えだす。
「……ご、め、……っ」
「大丈夫。大丈夫だ」
優しい体温に包まれ、しっかりと抱き留めてくれる。
けれどそんな体温は、今の俺にとって嫌悪でしかなくて、思わず腕を振り払ってしまう。
「いてっ」
「……っぁ、ごめ……っ」
振り払った時、手の甲が周藤の口の端に当たり、血が滲んでしまった。
その血も恐怖でしかなく、ごめんなさい、とポロポロ泣きながら周藤に手を伸ばす。
周藤はその手を握り、「大丈夫だ」とまた強く抱き締めてくれる。
「なあ要。やっぱり病院に行こう」
「……、」
「診てもらった方がいい。俺だけじゃ、情けねぇが力不足だよ」
「そんなことない……おれが、わるい……ごめ、……」
「お前は何も悪くねぇ。だから謝んな」
出会った頃から優しい周藤は、今も優しい。
その優しさに甘えてしまう俺は、本当に駄目な人間だな。
「病院行こう、要。カオリに聞いてみるよ、アイツも体弱くて通院してっから。オススメの病院がねぇかさ」
「……」
一緒に生きよう。
周藤が伝えてくれる前向きな言葉は、今の俺にはただの呪いでしかなかった。
[newpage]
*
翌日、周藤の奥さん──カオリさん──が有休を取ってくれて俺を家まで迎えに来てくれた。
有休を取ったと言われてしまったら、申し訳なくて行くしかなくなってしまう。
憂鬱な気分ダダ漏れで外出準備をして、埃まみれの保険証やお薬手帳なんかを持って、財布と充電が殆どない携帯をポケットに突っ込み、奥さんの運転する車の助手席にお邪魔した。
「……あの、周藤……あっ、えっと、」
「ああ、ヒロくん?今日は仕事なのよ。どうしても休めなかったらしくて。だから代わりに私が!数回しか面識ないのに無理矢理連れ出してごめんなさいね」
ヒロくん、とは周藤の事だ。
カオリさんも苗字が周藤な事を思い出して言い淀んだ俺の心を見透かしたかのように答えてくれた。
「緊張してる?病院」
「……いえ、……いや、そう、かもしれません……」
久しぶりに周藤以外の人間と話す上に外に出る。
緊張しかしていない。
心做しか車にも酔ってきた。
「気分悪くなったらすぐに言ってね」
「……ありがとうございます」
姉御肌らしいカオリさんは凄く頼りになるオーラびんびんで、思わず身体を預けたくなる。
・
・
・
カオリさんの車から流れる陽気なラジオの声に耳を傾けていたらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
着いたわよ、という彼女の声で飛び起きた。
「ここが待合室。で、呼ばれたら番号通りの診察室に行きましょうね。初診の時は私も着いていくわ」
院内を簡単に説明してくれ、診察時はカオリさんがそばに居てくれる事になった。
そこまでしてもらうのは流石に申し訳なかったが、代わりに症状を説明してくれるらしく、喋る事に自信が無かった俺はその行為をありがたく受け取ることにした。
「美澄(みすみ)さーん、美澄 要さーん」
名前を呼ばれた途端に緊張が増し、体固まる。
それにきづいたカオリさんは、俺の腕を優しく掴む。
「呼ばれたわね。行きましょ」
柔らかい女の人の力で引っ張られ、とうとう診察室に入ってしまった。
「よろしくお願いします」
カオリさんの声に、医師らしき若い男柔和な性はこちらを振り返り「かけてください」と穏やかに言った。
俺は対面して丸椅子に、カオリさんはその隣のパイプ椅子に座った。
医師はこちらをゆっくり振り返る。
俺はなんとなく、目を合わせたくなくて視線を下げ彼の首から下がる聴診器を見つめた。
一通りカオリさんが病状を話すと、黙って聞いていた医師は言葉を発した。
「では、美澄さんと2人にしてもらえますか」
「えっ」
「えっ」
俺とカオリさんは思わぬ台詞に驚き、俺は思わず医者の顔を見てしまった。
「2人でお話させて頂きたいのですが。私はアルファですが、隣室にベータの看護師が控えております。周藤さんには診察室を出たところにあるソファでお待ちください」
「いやでも先生、要くんは初めてですし……」
カオリさんが言うと、医者は穏やかにカオリさんを見る。
「初めてだから本人からお話をお聞きしたいのです。彼でなければ言えない事もあるでしょう。プライバシーは守りたいので」
カオリさんは何も言えなくなり俺を見て「大丈夫?」と声をかけてくれた。
これ以上彼女を困らせる訳にはいかないとおもい、俺は「大丈夫です」と返して、カオリさんは出ていった。
看護師も気を使って隣室に移動してしまい、完全に俺と先生の2人きりだ。
一気に心拍数が増して、目を合わせられなくなる。
「美澄さん。周藤さんから大体の身体的病状はお聞きしました」
「……」
「私は、ここでオメガも担当しておりますが実は精神科も兼任しております。なので今度は、美澄さんのお話をお聞きしたいのですが、よろしいですか?」
「……」
よろしくないです、帰ります。
そう言ってしまいたかった。言えるわけないけれど。
「美澄さん。ゆっくりでかまいません。この部屋が心地悪ければ別の診察室を開けさせます」
「……いえ、ここで、かまいません」
有無を言わさぬその言い方では俺はこう言うしかなくなる。
震える手と、冷や汗を感じつつ、目を瞑る。
「ゆっくりでかまいません。何も気にせず、こうなってしまった原因を大まかに。いちばん辛いと思うこと、苦しいと思うことを言える範囲で教えてください。喋り方も気にせずに、思いついた言葉を吐き出すだけでもかまいません」
医師は穏やかに言う。
「……あの、」
「はい」
すかさず相槌を打ってくれる。
「話したくない時は、……どうしたらいいですか」
俺の言葉に、先生はキョトンとする。
睨まれるかな、なんて思って俯いていたら頭上で「ふふ、」という笑い声が聞こえて思わず顔を上げた。
「あ、すみません。……正直に言っていただけて嬉しいです。では今日はここまでにしましょうか」
「え?いいんですか……?」
自分で言ったものの、そんなあっさり聞いてくれるとは思わなかったので驚くと、先生は笑顔のまま「はい」と答えた。
「言えないのではなく、言いたくないのであれば仕方ありません。無理に聞き出してすぐに回復するような事でもありませんし」
随分とあっさりしているんだな、と思いつつもしつこく聞かれなくて安心した。
「ではお薬は2週間分だけ出しておきます。2週間後必ずまたここに来てください。できますか?」
「……なんの、おくすりですか?」
「胃腸を整える薬と、吐き気止めです」
「え?」
思ったより普通の薬で、俺はまた驚いた。
こういう時って、無駄にホルモンを整える薬とか、精神安定剤的なものを出されると思ってた……
「美澄さんは病気ではありませんから、無駄なものを出す必要無いです。それとも欲しいんですか?」
穏やかに見つめて問われる。
「……い、いえ、飲みたくはないんですけど……なんか、もっと、仰々しい薬を飲まされるんだと思ってたので……ビックリしただけです……」
そう呟くと、先生はまたクスクス笑う。
笑った顔をまじまじ見つめると、きづいた先生は僅かに耳を赤くした。
「……美澄さんはまず、ご飯が食べられるようにならなければお話になりません。どれだけ薬を飲んでも、食べて眠れるようにならなければ意味が無いので。まずはそこから練習しましょう」
「……はい」
「今、おひとり暮らしですか?」
「……え?そう、……です」
本当は違う、……違うと言いたかった。
今住んでる家は康祐さんと住んで5年経っていた。
いや、正確には4年半だ。
一人暮らしになってしまった。
「……おひとりでお薬の管理や食事の準備できますか?そばに御家族や頼れる人はいますか?」
家族も頼れる人も、失いました。
そう言ったら先生は困るんだろうな。
「……います」
ぼんやりそう答えると、先生は怪訝そうに問うてくる。
「誰ですか」
「……ともだち」
頭に浮かんだのは周藤とカオリさんだった。
でも俺は頼るつもりは無い。
頼れる人がいないなんて言ってしまったら、入院なんて言われそうで嫌だった。
俺はあの家に帰りたいのだ。
生きるも死ぬもあの家で、康祐さんと過ごしたあの家で息をしたい。
康祐さんに、会いたい─……
「……美澄さん」
「……、あれ、ごめ、っごめんなさい……、」
いつの間にか、ぽろぽろとこぼれ落ちる涙に驚き、慌てて袖で拭う。
けれども零れ落ちてしまう。
どうしよう、止めなければ、先生が困ってしまう。
「美澄さん」
「へ」
ぽんぽん、と優しく頭を撫でられる。
その手はまるで、康祐さんのようで思わず顔を上げてしまった。
康祐さんの手に似ていた。
あの、慈愛に満ちた優しい手。
温かくて、愛に溢れるあの掌。
もう二度と触れられないあの手。
目の前で焼かれていったあの手。
染み付いた火葬場の臭いのせいで、肉なんて食べられやしなかった。
肉体は儚い。すぐに腐って燃えてゆく。
残った骨さえ拾う立場に居なかった俺は、黙って全てを遠くから見ているしか無かった。
誰よりも近くにいたのは俺なのに。
オメガの存在を認めてもらえていなかった俺は、康祐さんの親から嫌われていた。
死に目に会うことさえも出来なくて、泣き崩れることも出来なかった。
家族じゃない俺には何も出来なかった。
急速に体が冷えていく気がした。
胃の中がかき混ぜられているかのような激痛に、思わずえづく。
そのまま椅子から崩れ落ち、息が吸えなくなった。
「……ぁ゛……っ、ひゅ、」
びくり、と体を震わせびしゃりと嘔吐してしまう。
「美澄さん。大丈夫です、全部出してしまいましょう」
先生の声が遠くで聞こえる。
康祐さんを想い、頭が真っ白になってゆく。
体だけはこわいほど震えていて、呼吸が整わない。
遠くで先生が俺を支えながら看護師を呼び、腕に何かを刺していた。
その間も先生は俺の肩を抱き支えて、こえをかけてくれていたようなきがした。
段々と意識が遠のき、視界がブラックアウトした。
[newpage]
*
次に目を開けたとき、視界に写ったのは見覚えのない白い天井。
左腕に繋がる点滴に、消毒液のにおい。
どうやら俺は倒れて寝かされているらしい。
喉がズキズキ痛み、目も擦ったのかヒリヒリする。
体は倦怠感に包まれ、まぶたも重い。
暫くぱちぱち瞬きしていると、カオリさんが顔を覗かせた。
「要くん、起きた?」
穏やかな笑顔の可愛らしい彼女は安心したように俺の頬を僅かに触れた。
「気分はどう?」
喉が痛くて声を出したくなくて、俺は少しだけ首を縦に動かす。
本当は怠くて仕方がない。けれど、そんな事を言ったら本当にこのまま入院になってしまいそうで嫌だった。
「分かった。じゃあ先生呼んでくるね、待ってて」
え、先生?また?
いやそりゃそうか。
またあの人と話すのかと思うと陰鬱な気分になった。
暫く天井を見つめて待っていると、白い白衣を纏った先生が颯爽と歩いてきて俺の横に立った。
「気分はどうですか?」
「……すみません」
先生は暫くじっと俺を観察した後、カオリさんに目を向けた。
「周藤さん。美澄さんの家に住み込みで面倒見ることは可能ですか」
「え?」
えっ、と思ったけれど、掠れすぎて声は出なかった。
その代わり目を丸くして先生を凝視する。
「たしか、旦那さんとはご友人なんですよね?だっなら交代制でもいいです。美澄さんの薬や食事など、生活の管理をしてあげられますか」
「ちょ、ちょっと待って、先生」
俺は思わずタメ口で止めに入る。
何を言い出すんだこの人は。
「おれ、ひとりでだいじょうぶです。だから、カオリさんとかは関係ないです、平気です、ほんとに」
そう言うと、先生は険しい顔で俺を見る。
「美澄さん。今の貴方は思った以上に他人が居なきゃ立てない状態ですよ。そんな貴方に2週間分の薬を渡したら、例え弱い胃薬だとしてもどんな飲み方するか気が気でないです。ODされたら余計に」
そうは言っても、だからといってカオリさん達に迷惑かける訳にはいかない。
どうにかして説得しなければ─……
「私たちは多分かまいません。旦那も賛成すると思います。どう?要くん」
カオリさんは俺の顔を覗き込み微笑む。
でもやっぱりそれは嫌だった。
だって、大切な人と過ごす時間は限られてる。
じゃまなんてしたくない。
「……本当に大丈夫だから、カオリさん」
「そんな、駄目よ。先生がこんなに言ってるんだもの」
「それでも!俺は平気だから」
強く言い切ると、先生は冷淡に「美澄さん」と呼んだ。
俺はきっと睨みあげて先生に口を開く。
「大切な人と、過ごせる時間を邪魔なんてしたくないんです。それに俺は本当に大丈夫ですから、先生の言う通りにします」
先生は俺を見つめて、僅かにため息を吐いた。
「……分かりました。なら私と約束してください」
「……はい」
先生は人差し指を立てる。
「ひとつ、薬を飲む感覚や食事の感覚を取り戻すため1週間は入院すること」
え。
「ふたつ、7日後、嘔吐癖が緩和されていて尚且つ入眠がスムーズに出来るようになっていること」
……。
「みっつ。丸々7日、私の診察と精神科で私と組んでいるカウンセラーとのちょっとしたカウンセリングを1日1回必ず受けること」
カウンセリング。
「これを約束してくれますか」
先生はみっつ指を立てて俺に顔を寄せた。
「……わかり、ました」
こういうしか、無いだろう。
こうして俺の、1週間の入院生活が始まった。
[newpage]
(Day 1)
憂鬱な入院生活が幕を開けてしまう。
昨日、入院手続きをカオリさんと共に行い、今回はオメガ専用病棟に隔離される事となった。
抑制剤を服用せずとも発情期がこなくなるため一般病棟でも良かったのだが、一般病棟に移るとなると担当医師を変えなければならなくなるらしい。
精神科への入院も、精神病棟にはラットになったアルファも多いため、フェロモンに触発されて俺が食事出来なくなるのは本末転倒だから、と先生の計らいでオメガ専用病棟になった。
朝7時に起きて体温と血圧を図られ、朝食と飲み薬が出る。
昼11時半にまた、昼食と飲み薬。
13時半〜15時の間に、診察とカウンセリングがあるらしい。
また19時に夕飯と飲み薬だ。
先生が個室にしてくれたため、カウンセリングもこのままベッドの上でいいらしい。
けれど俺は、今日の朝食は愚か、飲み薬でさえ胃が受け付けず戻してしまい、急遽ウィダーインゼリーを買ってきてもらってそれを共に薬を飲み込んだ。
昼も固形は飲み込めず、結局流動食で流す事に。
そうしているうちにカウンセリングの時間がやってきた。
ノックを3回したのち、ガラリと音を立てて入ってきたのはこれまた若い男性だった。
心做しか顔色が悪く見える。忙しいのだろうか。
「美澄 要さんですね」
仏頂面で無愛想。
低く抑揚のない声で話しかけられ、俺はおずおずと1つ頷いた。
「本日から1週間、美澄さんのカウンセリングを担当させて頂きます、文月 飛鳥(ふづき あすか)と申します。よろしくお願いします」
「……ぁ、はい」
ぺこり、と同じように頭を下げれば、文月さんは横にあった丸椅子に音を立てて腰を下ろした。
「では早速ですが─……」
淡々と始まるカウンセリングに多少おどおどしつつも、聞かれたことに「はい」か「いいえ」くらいで答えていき、初めは文月さんが俺を知るための質問コーナーのようなもので終わった。
「ではこれから佐々木先生にもまだお話出来ていないことを徐々に私に話していただけたら嬉しく思います」
「……ささき、せんせ?」
誰だろうかそれは。
「……美澄さんの担当の先生です。佐々木 恭司(ささき きょうじ)先生と言います」
え、そうだったのか。
知らなかった。
どことなく呆れた顔をした文月さん。
「美澄さん。何故いま自分が、こんなにも体調が悪くて心も疲れてしまっているのか、心当たりはありますか」
抑揚のない声は俺の答えたくない部分を的確に質問してくる。
カウンセリングはこの入院生活でいちばん憂鬱な時間になった気がした。
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「美澄さん。答えたくないことは無理にとは言えないのですが、……せめて、こうなってしまった要因は、心当たりがあるのなら教えて頂きたいです」
全ての質問に無言を貫き通した俺は、文月さんに呆れた顔をされる。
「……言わなくても、ご存知でしょう。番を亡くしたんです。こんなオメガ、見飽きてるでしょ」
こんな嫌な言い方、お世話になっているのに失礼だと自覚している。
けど元の自分はこうだった。康介さんと出会う前、康介さんに愛を与えられる前の自分は、嫌味で皮肉で、愛想もなくて、まともに人と話す気もなくて。
そんな俺をあの人だけが根気強く支えてくれて、愛してくれた。
そんな人を育てた御両親だったから、きっとオメガとの結婚を許したかったんだと思う。
葬式でも激しく避けられてたわけではなかった。
ただ、遠目に横目で見ていた、それだけだった。
独りになるのが嫌なんじゃない。前の嫌な自分に戻るのが嫌なんじゃない。
俺は、あの人がここに居ないのが嫌だ。
「美澄さん……今日はここまでに、」
「……目を開けても、」
「……はい」
唐突に話しても、文月さんは何も言わなかった。静かな声で相槌を打った。
「目を開けても、愛する人が居ない世界で……どうやって明日に希望をみつけるんですか」
文月さんは真っ直ぐに俺を見つめて、口を結ぶ。
相変わらずの無表情で、でも無表情は俺だって負けていないと思う。
文月さんは詳しいことを何も知らない。それでも、遮らずに聞いてくれるこの人をほんの少し、居心地がいいと思った。
「……仕方の無いことだとは分かってるんです。人の命は儚い。1週間……たった1週間だけでも、あの人が必死で生きようと頑張ってくれた時間だったのも分かってます」
「……はい」
「でも、……」
でも、だからってどうして大切な人をみんな失わなければならないのだろうか。
俺はそんなに前世で悪いことをしてしまったのだろうか。
康介さんが亡くなったのも、両親が亡くなったのも、俺のせいではない。
はっきり言って俺は無関係だった。
康介さんは出勤途中に、横断歩道を渡り切れていなかった子供を助けて亡くなった。
両親は、スーパーに2人仲良く買い物に行った帰りに居眠り運転にひき逃げされて亡くなった。
俺は、いつも家で待っていた。
お掃除したり、時にはご飯を作ったり。
テレビをみながら、そろそろかなあなんてニヤニヤして。
父さん帰ってきたら競馬のことを聞こう、馬の名前はどうして変なのが多いのかとか、さっきテレビでやってたゴルファーはこのあいだ怪我をして引退って言われてなかったっけ?とか、
母さんが帰ってきたら、今度家庭科で肉じゃが作るって言われてるんだけど、みんなを驚かせたいから美味しい作り方先に教えて、とか、授業参観終わったら映画観に行こうよ、とか。
康介さん帰ってきたら、週末のデートはやっぱり水族館にしたいなって、車も一緒に洗おうよピカピカのコツ聞いたから、……
……だから、俺、おかえりってみんなに言いたいよ。
「即死じゃなくて良かったんでしょうか。最期にあの人は夢をみたんでしょうか。それとも、苦しいだけだったのかな、……痛かっただろうな、っ、だって、……っ、しんだんだもんな、」
じわじわと視界が歪む。
叫び出したい悲しみと恐怖、どれだけ康介さんが痛かったか、苦しかったか。
生きたかったのかな。だって頑張ってくれたもんね。1週間も、怪我しながらも息をしてくれたもんね。
待ってたよ、おれはまってたよ、……でも……でも、疲れちゃったよね。
痛いこと頑張るのは、生きることを頑張るのは、疲れちゃうんだよね。
呼吸は乱れなかった。ただただ、雫を零さずにいられなくて、俯いて涙を流した。
落ちた涙は、病室の白い掛けカバーに濃く染みた。
繊維に沿って濡れていくカバー。これは布だからすぐ乾く。
呆気なくすぐに、乾く。
「……エンドロール」
「……え?」
ぽつり、と呟いた文月先生の声に俺はゆっくり顔を上げた。
文月さんは何を考えてるのか分からない表情のまま、静かにそこに居て、静かに俺を見つめる。
まるで穏やかな波のように……けれど酷く、暗くて寂しさを思わせた。
「……1週間、エンドロールをみていたんじゃないでしょうか」
「……エンドロールってあの、映画とかの?」
「はい」
真面目な顔をして急に何を言うのか、と俺が訝しげに見つめていると、文月さんは一瞬瞼を閉じて、そしてゆっくり開いた。
……あ、先生の瞳、黒が深い。
「……私だったら、……走馬灯なんかじゃなくて、エンドロールがみたいなあって常々思ってたんです」
「……?そう、なんですか?」
「はい」
文月さんの顔から冗談を言っているようには思えない。だから、笑うこともなく、俺たちは嫌に真剣に見つめ合って、言葉を返し合った。
「走馬灯のように目まぐるしく見せられても、いろいろ懐かしむ前に死ぬ気がするんですよね。でもエンドロールなら、お世話になった人、忘れたくない人、大事な人、愛してる人、家族、友人、……皆の名前がフルネームで丁寧に書かれていて、背景ではその人たちの笑顔だったり、泣き顔だったり、いろんな大好きな顔があって」
無感情に思えて、愛想もなくて。
ロボットのような文月さんは、相変わらず表情に変化は無かったけれど、彼の瞳は凪いでいて美しいと思った。
「……死ぬ時こそ、大好きな人たちの大好きな顔をみてから死にたいじゃないですか」
長いまつ毛が一度伏せられ、もう一度、真っ直ぐな瞳が俺を捉える。
「だから俺は、……」
あ、本当は「俺」って言うんだ。
「……エンドロールがいい。自分が死んだ時はエンドロールがいいから、自分の大切な人も時間をかけてゆっくりみんなを見つめて、静かに眠ってほしいと思ってます」
適当なのか真面目なのか。
そんな事だってやっぱりそれは本人にしか分からない。
俺は、彼の中で大切な人だったのだろうか。大好きな人だったのだろうか。どの枠で出演しただろうか。
乾いた唇をそっと、開いて自分の白くてかさついた元気の無い手を見下ろした。
「……できることをやって、愛せるだけ愛して、本当にすごく大好きで、俺の世界の中で1番に……大切で、俺、いつも、いつも笑ってたんです、……あの人の前で、笑いたくないなんて時がなくて、……彼を見ると、笑顔になっちゃうんです、会えて嬉しくて仕方なくて」
「……はい」
僅かに緩む頬を俺は、わかっていた。
「……俺、あの人のエンドロールでどんな顔をしていたんでしょうね」
もしかしたら、脱ぎっぱなしの靴下に怒った時の顔が映されちゃってたかもな、なんて笑った。久しぶりに、出かける康介さんにキスを送って、見送ってからはじめて、俺は、笑った。
文月さんは何も言わなかった。
言わなかったけれど、俺はなんとなく分かっている気がする。
この顔の緩さは、いつも康介さんの前でしていた。
しまりがないけれど、あなたのことが大好きだと精一杯伝え続けたこの顔が、貴方の最期に映っていたら、俺はすごく、これ以上ないまでに幸せだ。
いつの間にか涙は止まって、頬を伝った雫は乾いていた。涙で濡れた掛布団もいつのまにか、乾いていた。
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