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名前(俺)

「私が……人の子に、名前を……?」 銀髪の美しい人は、そう呟いたきり黙ってしまった。 そんなに驚く事だったんだろうか。 それとも、こういう場合は自分で決めて名乗るもんなのか? 分からない。 俺は、この人を困らせてしまったんだろうか。 何と言って謝ればいいのかも分からないまま意を決して振り返れば、彼は俺に向かって静かに手を伸ばした。 反射的に体が防御姿勢を取る。 『殴られるかも知れない』頭がそう思うよりも、体の方がいつだって素早い。 この人は俺を叩こうとしていない。頭が慌てて判断を下した時には、俺の目には両腕の隙間から闇色の瞳が悲しげに揺れる様が映っていた。 「驚かせてしまいましたね。すみません……」 申し訳なさそうに謝る美しい人。銀色の髪がひと束、肩から胸へ零れた。 違うんだ。俺は……そんなつもりじゃなくて……。 「少しだけあなたの頭に手を翳しても構いませんか?」 痛くも痒くもありませんよ。と俺を宥めるような優しい声。 俺は自分が情けなくて恥ずかしくて、この人を傷付けてしまった事が悔しくて……。ただ歯を食いしばって頷く事しかできなかった。 俯いた俺の頭に美しい人の白い手が翳される。 翳された手から、彼の体温をわずかに感じる気がする。 このまま……俺に触れてくれないだろうか。 そう思ってから、そんな事を思ってしまった自分に驚く。 「ああ、分かりました」 俺の動揺に気付く様子もなく、彼は柔らかく笑って手を引っ込めてしまった。 「あなたには産みの親が付けた名があるようですよ」 「……そうなのか……?」 思いもよらなかった言葉に顔を上げれば、銀色の眼鏡の向こうから闇色の瞳が俺を見つめていた。 「ええ、ギリル……ギリルダンドと言うようです。あなたにピッタリの力ある名ですね」 ギリルダンド……。 その音には確かに聞き覚えがあった。 優しい声で俺をそう呼んでくれた誰かの声が、記憶の奥底に響く。 「そうか……。俺にもあったんだな。名前が……」 胸の内側から温かいものがじわじわと滲み出て、身体中に巡ってゆく。 ぎゅっと握った拳にも、なんだかいつもより力が入る気がした。 「おや、気付いたのですか?」 両手を開いたり閉じたりする俺に、美しい人が少しだけ驚いた声で言う。 「あなたは今、正式に名の力を得たのですよ」 「ふーん……?」 理屈はよく分からないが、今までより体に力が入るこの感覚は把握できた。 「私もこれからは、あなたの事をギリルダンドと……いえ、ギリルと呼びましょう」 俺の名は長いのだろうか。 美しい人はそう言って、ほんの少しだけ寂しげに微笑んだ。 その陰りを消したくて俺は慌てて口を開く。 「あんたの事は、なんて呼んだらいいんだ?」 「何でも構いませんよ。ただ、私に名を付けようとするのはいけません。今のあなたでは、跳ね返るものだけでも危険ですから」 「……分かった」 後ろの方はよくわからなかったが、名を付けない限り好きに呼んでいいと言われたことだけ理解して俺は頷いた。

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