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第7話
「お父さん! 聞いて、聞いて!」
僕は胸いっぱいの喜びを抱いて、帰宅した父の脚に駆け寄った。仕事帰りの、疲れているだろう父はそんなそぶりも見せず、「なんだい、シノ」と目線を合わせるように膝を着く。その柔らかな視線は、いつも僕を子どもではなく、対等な人間として見つめているように澄んでいた。
「見て、僕の描いた絵、学校のコンクールで入賞したの!」
「おおっ、すごいじゃないかシノ! 夏休みの課題で描いてたやつだよな?」
「うんっ。交通安全のポスターを描くやつ! お父さんを描いたらね、先生が褒めてくれたんだよ!」
「それはお父さんもすごく嬉しいよ、シノ。その絵、もう一度見れるかな?」
「あのね、来週の金曜日から公民館で、入賞した絵が全部飾られるんだって。よその学校の子の絵も有るらしいよ。お父さん、一緒に見に行ける? お仕事、忙しい?」
僕は途中から不安になって、声が小さくなっていった。父は地域を守るお巡りさんだ。とても大切な仕事だから、よくテレビでも急に事件が起こって家を飛び出す警察を見る。父も、そんな風に忙しいかもしれないと思ったのだ。
実際、父の勤務体系は不規則で、休みを返上して仕事をすることもある。朝に帰って来て昼間は眠っている時も有るし、僕にとって父は、一緒に暮らしながらも過ごす時間の少ない存在だった。
「……いや、大丈夫。必ず時間を作って、一緒に行こう」
そんな父は、僕に弱いところひとつ見せず微笑んだ。
父は、僕のヒーローであり、僕の目指すところだった。
父は僕との約束を、破りたくなかったようだ。仮にその日にダメだったとしても、必ず近いうちに約束を守ってくれた。僕はそれを責めはしなかった。父は大切な仕事をしているのだ。僕よりも、大切な仕事を。僕は納得していた。僕ひとりより、「しゃかい」の多くの人を守るほうが重要に決まっているのだから。
だからこそ、僕は父が約束した日に約束を果たしてくれた時、ほんとうに嬉しかった。
まるで僕が、父から特別に愛されているような気がしたのだ。
公民館には、コンクールに入賞した子どもたちの絵が集まっていた。知らない学校の生徒名と作品が並ぶ中に、僕の描いた絵も飾られていた。それは自信作で、我ながら良く描けたと思っていた気がする。もう、よく覚えていない。
父は僕の絵を見て、喜んでくれた。褒めてくれたように思う。誇らしい気持ちで、他の子どもたちの作品も見て回った。
明らかに別格の絵を見つけたのは、その時だ。審査員賞、と書かれているそれは、僕には一体何を描いているのかわからなかった。クレヨンや絵の具を適当に投げかけ、筆を遊ばせただけのようにも見えるそれは、不思議とただデタラメに描いたもののようにも感じない。
画題は交通安全のポスターだったはずだ。きっとこの、絵の具をはじくように走った白い線は、道路なのだろう。しかしその独特の色使いが、僕に何を伝えようとしているのか、簡単にはわからなかった。
それでも、どうしてだか、その絵から目を離せなかった。
「すごい絵だね」
「お父さん、これ、なにを描いてるんだと思う?」
「そうだなあ……。シノ、いいかい」
父は私と同じ位置から絵を見上げるようにしゃがんで、優しく言った。
「絵はね、シノが見たまま感じるんだ」
「感じるの?」
「そう。この絵を見て、シノは何を感じたのか。何を考えて、この絵をどうだと思ったのか。それが答えなんだよ」
「この子の描きたかったものが、答えじゃないの?」
「そうでもあるし、そうでなくもあるんだ」
「難しいよ、お父さん」
眉を寄せていると、父は小さく笑って、僕の頭を撫でる。
「今お父さんは、君の頭を撫でているね。お父さんがどういう気持ちかはわからないけど、シノはどう思う?」
「うーん、嬉しい!」
「そうだね。それだけでいいんだよ。お父さんがどう思ってるかなんて、お父さんにしかわからない。シノから「どう思ってるの?」って聞かれて、お父さんが本当のことを答えてるかもわからないだろう? だから、シノの感じたことしか、答えにならないことも有るんだよ」
「うーん……」
僕にはまだ、父の言ったことは難しくてよくわからなかった。それでも僕は、その絵から何かを感じ取ろうとして、じっと見つめる。けれど、僕には何か説明することもできなくて。
「僕は……この絵が、好きだって思う……」
自信無くそう呟くと、父は「それだけでも、充分なんだよ」と微笑んでくれた。
「好きとか、好きじゃないとか。そういうものを大事にするといいよ、シノ」
「う、うん……! あ、あとね、……僕はこの子の絵が金賞のほうがよかった! こんなに好きなのに、一番じゃないのはちょっと残念」
金賞というコーナーには、色んな絵が飾られている。よく描けているんだろうけど、僕はそこの絵よりも、この絵のほうが好きだったのだ。
「この世界には、自分の力だけではどうにもならないことが色々あるからね」
「それってなんだか、つらいなあ」
「でも、どうにかできることもある。例えばシノ、君がどう思うか、とかね」
「僕が、どう思うか?」
「シノはこの絵が一番好き。なら、君にとってこの絵は金賞だ。他の人が何を選んでいてもね。それを大事にしていれば、この絵が金賞なんだよ。人がなんと言ったって、シノの思いは君だけのものなんだから」
父の言うことは難しくて、でもなんだか優しいのはわかる。僕はひとつ「うん」と頷いて、その絵をもう一度見た。
それを描いた子の名前を、僕は覚えている。
「いいだ、たづまくん……僕と、同い年だ」
そして僕はそれきり、絵で評価されることはなかった。
僕たちが病院に駆けつけた時、父の顔には白い布がかぶせられていた。
母が隣で泣き崩れる。僕は何もわからない子供みたいに、ぼんやりと父の亡骸を見ていた。
医者や、警察が何か話してくれるのも遠く聞こえる。勤務中に、交通事故に巻き込まれたのだとか、そんな話をしていた。母の嗚咽と、説明が交じり合って耳がワンワンうるさい。僕はただ静かに、父だったものを見ていた。
父は、誰かを守って死んだのだという。
僕はもう死がなんであるかはわかっていたつもりだ。飼っていたハムスターが死んだとき、父方の祖父母が亡くなったとき、僕は死というものを経験した。眠るように訪れるそれはあまりにも急で、けれど僕たちの暮らしが変わるのはほんの一瞬だった。
ハムスターを埋めて、ケージを片付ける。それで僕の暮らしは元に戻る。祖父母を棺桶に入れ、骨を壺に入れる。それで僕の暮らしは元に戻った。
けれど。
父はもう目を覚まさないのだ。ここで死んでいるのだから。僕の話を聞いてくれることもないし、頭を撫でてもくれない。僕と一緒にコンクールの絵を見に行ってもくれないし、水族館で魚の当てっこもしてくれない。
「あなた、あなたがいなくなったら私、どうやって生きていったらいいの」
母が、激しく泣きじゃくりながら喚いた。僕たちは、父がいなくなったことではなくて、父がいなくなることで与えられなくなったものを嘆いているのかもしれなかった。
「いいだたづま」
その名前が耳に届いた時、僕の世界は急に静かになった。
僕は振り向く。警察の人が、泣き続ける母に説明を繰り返していた。
父は、勤務中。子どもを道案内していたらしい。そして横断歩道に差し掛かったとき、暴走した車から守ろうと、その子を突き飛ばして、自分は事故に巻き込まれたという。
その子どもの名前が。
「いいだ、たづまくん――」
僕はぽつりとその名前を呟いて、俯いた。
父は、たづまくんを選んだのだ。
僕の元に帰ることよりも、その子の命を守ることを。
父にとって僕は、特別なんかじゃない。父は「しゃかい」を守るために働いていた。父にとって大事なのは、その子の――いいだたづまくんの命だった。
僕は、その子に父を奪われたのかもしれない。母の喚き声を聞きながら、僕は考える。
だとしたら……だとしたら。
僕は――。
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