9 / 94

第9話 深淵

「殺したくて殺したんじゃない! 俺は、知らなくて……触るだけであんなことになるなんて。あんな」  言いかけて強烈な吐き気を覚え、とっさに口元を抑える。が、胃の中にそれほど食べ物が入っていなかったためか上がってきたのは胃液だけだ。喉を焼く苦い痛みにたまらず呻いた陽向の目前に、つと手ぬぐいが差し出された。 「落ち着いて」  涼し気な声が淡々と命じる。その落ち着き払った声に苛立ちを感じながらも、吐き気が押さえきれず、差し出された布をひったくるようにして口元に当てる。  布からは清しい香りがした。  嗅いだことのないような柔らかい香り。これはなんだろう、と思っている間に、香りに鎮められるように吐き気も、燃え上がっていた怒りの炎がするすると消えていく。  数秒後、すっかり落ち着いた自身の状態に驚きながら彼を見返すと、彼はわずかに笑って告げた。 「悪鬼というのはたけだけしく、言葉も通じない野蛮な連中だったはずだけれど、君は違うようでよかった」 「その悪鬼を、あんたはどうして、助けたの」  問いにふっと彼が目を見張る。まっすぐな眼差しに急に恥ずかしさを覚え、陽向は枕の上、顔を横向けて視線を避け、彼からの言葉を待つ。だが、いくら待っても返事は返ってこない。そろそろと顔を戻した陽向は目を見張った。  彼はまだこちらを見据えていた。陽向が観念して顔を戻すだろうことも見通していたかのように。  真っ黒く、どんな色も通さない深淵を思わせる瞳でありながら、どこまでも深く続く闇の層の向こうを透かし見たく思ってしまう、そんな不思議な瞳に射抜かれ、浮かぶはずの感情も言葉もすべて溶けていく。  見つめ合ったのはどれくらいだろう。ふっと彼がゆっくりと瞬いた。金縛りがとけるように、陽向も細く呼吸する。 「多分、すぐには動けないと思う。右腕、それにあばらも数本折れている」  陽向の問いとは違う言葉を発した彼の目には先ほどのような力はなく、静けさだけが宿っている。呆然とその彼の目を見返すしかできないでいる陽向に彼は淡々と言葉を継いだ。 「ここは僕らの里のはずれ。めったに人はこない。だから」  言いながら、ゆっくりと彼は腰を上げた。 「しばらくここで養生して。動けるようになったら帰ればいい」  言いながら、彼は背中を向ける。すたすたと部屋を横切り、石造りの扉を開けて外へ出ていこうとする彼を、陽向はとっさに怒鳴った。

ともだちにシェアしよう!