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第14話 楓(かえで)
「あんたの名前は?」
「僕?」
これまた意外なことを聞いたというように怪訝な顔で彼が振り向く。陽向は渋面で訴えた。
「命の恩人の名前を聞きたいというのはおかしいことじゃないと思う」
把手に手を掛けたまま、彼は黙って陽向を見返していたが、ややあって手を下ろし、こちらに向き直った。
「怪我が治ってここから出ていったら二度と会うこともないのに?」
あっさりとした声にそれもそうだ、とも思う。昔話でよくある、一晩の宿を頼んだ旅人が家人の名前をあえて聞いたりしないように、名を問うのは非常識なことなのかもしれない。まして闇人にとっての天敵、悪鬼とされている自分は、ここでは招かれざる客なのだ。
だが。
「それでも俺はあんたの名前が知りたい」
痛む体を引き起こし訴えると、彼は思案するように黒い衣の袖に両手を差し込み腕組みをする。しばらく黙り込んでから彼はぽつり、と言った。
「まあ、いいか。君はどうせいなくなる人だ」
「名前を聞いたらまずい、ってこと?」
彼はその問いには答えず、ゆっくりと袖から手を出すと、体を反転させ石戸に再び手を掛ける。教えてくれないつもりなのだろうかと焦り、その細い背中を呼び止めようとしたときだった。
「楓」
ひょいと投げ込むように彼が言った。え、と目を瞬くと、彼は石戸をからりと引き開け、戸の隙間からするりと外へと出ながら、もう一度言った。
「楓だよ」
そのまま扉が閉ざされる。無音に沈んだ室内で陽向は閉ざされた扉を唖然として見つめていた。
楓。
聞いたことがあった。というより、見たことがあった。
如月が地上人から譲り受けたという画集の中にその植物は載っていた。
画集の中、風に吹き切られ、それは空に舞っていた。真っ赤な色を水色に透ける空に刻み、自由に、しかしどこか寂し気に漂うその紅を、とても美しいと思ったことを覚えている。
黒と白の色彩に沈んだ彼には似つかわしくないくっきりとした赤。
しかし、どうしてだろう。似つかわしくないと思うのに、これほどに彼らしいと思う名前もないとも思ってしまう。
…………自分でもときどき自分が怖くなるときがあるから、仕方ない。
目を伏せやるせなく微笑む彼の顔が目の前を過る。
闇人というものは、穢れた一族だと聞いていた。その名を口にするだけで穢れると。
自分たちの仇であり、禍々しさに濡れた黒い悪魔だと。
確かに、彼には闇に沈んだ部分もある。闇人たるなにかを感じもする。それは陽向とはまるで相いれない黒く淀んだものだ。
しかし、それだけではないなにかが彼にはある。
…………どれだけ触っても僕は壊れない。だから大丈夫。
耳に蘇る声に陽向はふっと息を止める。
相容れないはずの相手、憎むべき仇敵であるはずなのに。
今、その声にどうしようもなく癒されている自分がいることに陽向は気づいていた。
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