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寺の玄関を出たとたん、頭のてっぺんに響きわたる声で犬が吠えた。本堂と玄関のあいだにぽっかりあいた半地下の空間から黒い鼻づらがのぞいている。おかしなところに犬小屋を置いているものだ。柵のあいだでくるんとまるく跳ね上がった尻尾がぶんぶん揺れたが、僕の隣にいる黒いスーツは犬にかまわず、大股に、飛び出すように前に行こうとする。
「滋! 待ちなさい! まだ用事があるから」
呼びとめる声に黒いスーツはやっと止まって、ふりむいた。
「なんで? もう終わりでしょう」
「そうはいかないでしょう。今後のこととか」
「何もありませんよ。必要な手続きは電話ですませたんで。精算も全部終わったでしょう」
「でも、香典のお返しとか……」
「ネットで手配します」
「でもほかに……」
「何が? 四十九日もすんで骨は墓に入ったし、これ以上何があるんですか? 法律上の義務は果たしましたよ。欲しいものは勝手に持って行っていいです。次に帰ったとき捨てるんで」
「あなたはそれでいいかもしれないけど」
「ええ、それでいいですね。さようなら」
そういってきびすをかえした黒いスーツは数歩のうちに寺の門をくぐろうとしているから、僕はあわてて後を追う。と、うしろから肘をひっぱられた。
「これだけ持って行って」
僕をひきとめたのは住職の奥さんだ。ビニール風呂敷の大きな包みをおしつけるように持たせて「残ってもどうしようもないから」とささやく。
「あ、はい。すみません。ありがとうございます」
僕は大きな風呂敷包みを両手に抱える。前を行く黒スーツに追いつこうとしたとき、ひとりごとにしては大きすぎる声がきこえた。
「勝手に結婚して苗字も変わってて、それも男同士で。お父さんが生きていたらなんて思ったか」
黒スーツはくるっとふりむいた。
「知る前に死ねてよかったですね」
寺の門は急な坂道の途中にぽっかり口をあけ、僕らは外に吐き出される。車道はすれちがうのがやっとの狭さで、歩行者レーンもなく、向かいに並んだ小さな家の向こうにちらっと海がみえた。水色っぽい空より濃い青色のあいだに波の白い模様が光った。
坂を下るにつれて海峡が間近にみえてくる。線路の向こうをオモチャのような観光トロッコ列車が通りすぎる。僕らは坂を転げ落ちるように下るが、両手でビニール風呂敷の包みを抱えている僕は足元がよくみえない。遅れがちについていくと、坂の下で黒スーツが影を落として待っている。いつのまにかサングラスをかけていた。
長身、短髪、喪服の黒。これじゃまるで――
笑うような状況ではないはずだが、僕は吹き出しそうになった。
「どしたの」グラサン黒スーツがいった。
「おまえヤクザみたい。香港マフィアとか」
「は?」
地獄の底から響くような声で不機嫌そうに聞き返されたが、すぐ「それ持つ」といって僕の手からビニール風呂敷を奪い取ろうとする。
「あ、ミチ、これ斜めにするなって」
僕はあわてていった。
「なんで」
「汁がこぼれるから」
「っていうか、そもそもこれ何」
「弁当だろ」と僕はこたえる。
「弁当?」
「法事弁当。会食しないかわりに弁当出すことにしただろう。領収書は僕がもってる」
「あ、うん」サングラスの下で頬がすこしゆるんだ。
「そうだった。忘れてた」
「余ると困るんだってさ」
「そうか」
晴れた空の高いところに糸の束のような雲が浮いていた。明日からやっと五月だというのに、日射しは夏を連想させるほどきつく、弁当持ちを交代した僕はうっすら汗ばんでいる。それでも両手があけばうってかわって身軽になった。キャリーケースは駅の手荷物預かりに置いてきたから、電車に乗る前に回収しなくてはならない。
坂道の下は車が往来する海沿いの県道で、解放感に満ちあふれている。港のすぐそばにある駅までの通りには幟や小旗がひるがえり、観光地になっている周辺広場ではゴールデンウイークのお祭りをやっているらしい。
でも僕の解放感はお祭りにあつまる人の気分とはきっとかなりちがっている。つまり僕のこれは、夫のミチ(結婚して三年経って、こういう表現もわりと慣れてきた)のお父さんが亡くなって、四十九日の法要をどうにか終えた解放感なので。
「駅についたらどうすんの」
寺を出る時に聞こえた会話の内容には触れないことにきめて、僕はたずねる。
「さあ。決めてない」
サングラスでミチの表情はみえない。彼の本名は「滋」だ。でも僕は知りあった時からのバンドネームで呼びつづけている。
「とりあえず終わったね」と僕はいう。ミチはこたえなかった。顔は海の方を向いていた。
ミチは実家のことをめったに話さなかった。中学生のころご両親が離婚したというのは聞いている。お母さんが出て行ったというのだが、彼が高校まで住んでいた実家(当時は父方の祖父母とお父さんとの四人家族だったらしい)との関係はあまりよくなく、苗字が変わったお母さんの方がまだましだったようだ。
お父さんとうまくいかなかった理由は双方にあるらしい。ミチがゲイだというのは理由のひとつにすぎず、お金のトラブルなどもあったらしいが、詳しい話は聞いていない。
ミチと一緒に暮らすと決めてアパートを借りたとき、保証人は僕の父親に頼んだ。同棲するという話をした上のことだ。父は快諾して何の問題もなかったのだが、僕のとなりでミチはちょっと居心地が悪そうだった。そのあと折あるごとに――パートナーシップ宣誓をしたときとか、結婚したときも――ミチの「居心地悪そうな感じ」は消えなかった。
なんか、いろいろな人がいるよな、と僕は思った。僕はとりたてて事件らしきことのない四人家族で呑気に育ったので(唯一「事件」といえるのは僕がゲイバレしたときくらいだろう)ミチの気持ちを100%理解できるなんてまったく思わない。ひとり暮らしをしていたミチのお父さんが亡くなったのは三月の下旬だ。急に倒れて緊急入院したが、三日もたなかった。親族との電話を終えたミチが「しょうがないから週末に帰るか」とつぶやいた直後のことだ。
そのあとは僕も忌引休暇をとって一緒に東京から新幹線に乗ったが、葬儀場で会った親族のみなさんは男がふたり現れるとは思っていなかったので、最初はきょとんとした顏つきだった。だが喪主のミチの苗字が「古賀」から僕の姓「小川」に変わっているのを知ると、静かな波乱が起きた。
ミチは結婚したことをお父さんに話していなかったし、それよりもっと前、ふたりでパートナーシップ宣誓をしたことも伝えていなかった。
駅は港のそばに建っている。風情のある古い駅舎だ。古くは貨物を扱って賑わっていたらしいが、地域から産業がなくなって、一時はひどくさびれていたという。ところが駅舎や海岸のレトロな雰囲気にあるとき注目が集まった。やがて昔の面影を残しつつ駅が改装され、イベント広場や海沿いの遊歩道が整備され、洒落たレストランやカフェ、ホテルができ、観光用のトロッコが走るようになって、いまや人でにぎわう新しい観光地になっている。
「ミチ、どうするんだ? お父さんの家に行く? それともいっそ、まっすぐ帰る?」
駅へ通じる広い歩道の中央にはでこぼこの石畳が敷かれている。かつてこのあたりを走っていた市電についての解説が道端に立っていた。
駅前広場の入口でミチは両手に風呂敷包みを持ったまま立ち止まった。
「なあ、電車に乗るなら荷物、取ってこないと」
「ああ……」
ミチはあいまいにいってあたりをみまわした。まだサングラスをかけたままだ。
「あっちに行かないか」
斜めの方向を指さしたので、僕もそっちを向く。
「海?」
「座れそうだし――あ」
「あ?」
「あそこで弁当を食べよう」
そういった時にはミチはもう歩きはじめていた。カフェや土産物屋が並んだ通りより海に近いところ、家族連れや犬を連れた人がそぞろ歩く広い道へずんずん進んでいく。海峡を渡る橋がよくみえるあたりにコンクリート製のベンチとも台座ともつかないものがいくつも据えられて、カップルや親子連れが腰をおろしていた。ミチはさっさとあいているところに座った。
「ここで?」
「気持ちいいだろ。荷物も減るし、ご飯も食えるし、海がみえるし、一石なんとかだ」
たしかにそうかもしれない――海と観光地と休日の観光客のあいだに黒ネクタイと黒スーツの男ふたりという、シュールな光景をのぞけば。
ミチはもうビニール風呂敷をベンチに置いて結び目をほどいている。中身は大きな箱膳弁当だった。法事の紫の紐がかけられて、焼き魚や煮物やデザートの果物まで揃った、ちゃんとしたやつだ。
「うまそうじゃないか」とミチがいった。
「海と弁当。これでビールがあれば最高」
「買ってこようか」と僕はいった。
「いいのか?」
「駅の裏にコンビニがあった気がする。食べてていいよ」
コンビニは僕が思っていたより近くにあった。缶ビールを買って戻ってくると、明るい色合いの気楽な服装のあいだでミチの黒いスーツはよく目立った。僕は何気なくあたりをみまわした。並んで自転車を走らせているカップルが僕の前を大きく迂回して走っていく。つまり僕も目立っているということだ。同じく法事帰りのフォーマルスーツだから、当然だけど。
「ほれ、ビール」
「ありがとう」
ミチは弁当をもう4分の1ほど平らげていた。僕も隣に座って弁当の蓋をあけた。意外に美味しそうだ。それに海を見ながら飲むビールはうまい。
「悠がコンビニ行ってるときにさ」とミチがいった。
「そっちのあいたところで、結婚式の前撮りっぽい人たちがいて」
「結婚式?」
「着物の新郎新婦と、親らしき人たちと、カメラマンと」
「ああ、この辺いいロケーションなんだろうね」
僕は顔を上げる。青い海と空と橋。たしかに撮影にはよさそうだ。太陽に照らされた波が跳ねたようにきらきら光る。
「良さそうな場所さがしていたみたいなんだが、俺の手前まできたとたん、すっと目をそらしてそっちに避けて行って」
いいながらミチはビールのプルタブを下げた。
「悪いことしたような気になった。あっちはめでたいフォーマルでも、こっちは葬式仕様だもんな」
僕は吹き出しそうになるのをこらえた。
「それ、ミチの目つきのせいじゃないか。遠目にみるとその筋の人みたいだからさ」
「はあ? そんなことないだろう」
やっといつものミチらしい声になってきた。ビールを半分空にして、僕も弁当に手をつける。煮物と魚を半分食べたところで、突然ミチがいった。
「ごめん」
僕はゆっくり食べ物を飲みこんだ。
「何が?」
「いや、今日さ。一緒に来てくれて。いろいろ」
「べつに。ミチのほうが大変なんだし」
「でもさ、その……嫌な気分になったかもと思って」
「大丈夫だって。こんなもんだろうから」
先月の葬儀のあいだ、事情を知っている近い親族に僕はずっと透明人間のように扱われていた。事情を知らない人々には最初、ミチの兄弟か従兄弟かと思われていたかもしれない。たいして話をする時間もなかったし、何より僕が心配していたのはミチのことだけだったから、無視されているくらいでよかったのだ。
もっとも今日はあまり透明でもなかった。四十九日までのあいだに情報が回ったらしく、葬儀の時に顔をあわせた親族には挨拶や目礼はした。
ミチは黙って海を眺め、残りのビールをちびちび啜っている。僕も残りの弁当を食べて、デザートのオレンジを齧った。
「犬、泥棒よけだと思うか?」
唐突にミチがいった。
「犬? どこに?」
僕は周囲をみまわす。
「寺の犬だよ」
「寺? ああ、吠えてた黒いの? なんで泥棒?」
「最近の寺、仏像泥棒が出るっていうじゃないか」
「警報機代わりってことか。僕はちがうと思ったけど」
僕は指についたオレンジの汁を舐めた。
「何?」ミチはビール缶をぐいっと傾ける。
「正解は、ミチがどっかの怖いオニイサンにみえるから」
「何いってんだよ」
ふふっとミチが笑った。いつものミチの笑顔だ。僕は弁当を食べ終えた。空のプラスチック容器を重ねてビニール風呂敷で包むと、高さは持って来た時の半分、重さは1%くらいになった。
ミチが立ち上がった。腰をのばして立ち、サングラスをかける。
「よし。終わった。四十九日の任務完了」
僕はまた吹き出しそうになった。
「おまえそうやってると、ますますその筋の人にみえる」
ミチはニヤッと笑った。今度は否定しなかった。
「どうする悠、このあと。そのへん散歩して帰るか?」
「黒いスーツのお兄さんふたりで?」
「そう」
僕は背後をふりかえる。洒落たカフェや雑貨屋の前を明るい色の服を着た人々が歩いている。遠くで陽気な音楽が流れている。
「いいかも」と僕はいう。
「じゃ、行くか。黒いスーツのお兄さん」
海と空の青がショーウインドウに映り、揺れる青のあいだで光が跳ねた。ミチは風呂敷をぶらさげ、僕はその横を歩いていく。
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