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第13話

 バスはニューヨーク州北部――グレッグの故郷の手前まで来ていた。  車窓にもたれて眠りかけていたオギーは、車体ががたんと揺れた時、窓に側頭部を打ちつける。痛みに顔をしかめながら目を開けると、東から太陽の光が差し込んでいた。中途半端な眠りは頭痛を引き起こし、忌々しいほど眩しい陽光はそれを助長させる。  オギーは何度か瞬きしてから、車窓の外へ目を向けた。そこにニューヨーク市のような都会の喧噪はなく、左右を木々に挟まれた道路がひたすら続くばかりであった。 (気持ち悪い……)  オギーは再び車窓に頭をもたれた。眩暈と吐き気は感じるものの、町についてからトイレを探し、そこへ駆け込めるだけの余裕はある。吐くなり何なりした後は、そこから歩いて病院を目指すつもりだ。半日以上かかるが、レンタカーを借りるほどの持ち合わせもない。バス代を払えば、もう食事代もなかった。 (それでいい……一人でひたすら歩いて行けばいい)  自暴自棄か。己への戒めか。いや、いずれはこうなる運命だった。自分は治っていない――治る見込みもないのかもしれない。  バスを乗り継ぎ、オギーは小さな町の最北の地区で下車した。いつしか太陽は天高く昇っていた。その頃には吐き気は治まっており、わずかな眩暈が足取りの邪魔をする程度だった。荷物もなく、所持金もない。ロータリーを北へと抜けると、やがて見えてきたのは、ひび割れて砂っぽくなった道路だった。車線の消えかけた道路を走る車は少ない。ここから先へのバスはなく、故郷へ向かうには車か、徒歩で行くしかなかった。 「道の状態が変わっていないといいが……」  病院への道順はわかっている。車で行けば数時間で済むが、徒歩だと丸一日かかるだろう。歩き出したオギーは、汚れたスニーカーの爪先を見下ろす。ふと、過去へ思いを馳せた。  五年前の冬。あの日も自分は、磨り減って汚れたスニーカーを見下ろしていた。 「隣、いいか?」  パイプ椅子に座って俯いていたオギーは、頭上から降ってきた声に顔を上げた。  病室のホールを借りた会場。つんとした消毒液の匂いが漂う部屋は広く、防音の絨毯が敷かれた床には、パイプ椅子が円状に並んでいる。先に来た受講者達は、すでに思い思いの場所に座っていた。オギーは部屋の端に近い椅子に座っていたのだが、そのすぐ隣に、でっぷり太った五十代くらいのおっさんが立っていた。丸い顔はどこか柔和な印象を与えるが、オギーはその雰囲気の中に漂う、火薬のような匂いを嗅ぎつける。 「別に」 「いや、どうも」  隣に男が座ると、パイプ椅子が悲鳴じみた声を上げた。その音にオギーは顔をしかめたが、男の方を見ないようにすることで苛立ちを抑える。  一年の刑期を終えた後、裁判所からの命で、アンガーマネジメントの講習を受けることになった。この講習を受ける代わりに、刑期が一年に減らされたのだと聞いているが、そんなことどうでもよかった。十二回の講習の受講料は自腹。刑務所内の仕事で稼いだ金で、ぎりぎり払えるほどの金額である。こんな馬鹿げた講習のために飢え死にしないためにも、早くここを出て、まともな仕事に就かなければならない。 「俺はグレッグだ。よろしく」  また男が声をかけてきた。オギーは顔を上げず、会釈だけ返す。 「調子はどうだ? 俺はちょっと緊張してる」  心底どうでもいい。なんでこの男はこんなに馴れ馴れしいんだ。 「俺、酒場で喧嘩しちまって、相手を怪我させたもんだから事件に発展してな……もう一人じゃどうしようもないっつうんで、ここへ来た」  オギーは貧乏揺すりする自身の足を見ていた。このグレッグとかいう男が「なぁ、お前はどうしてここへ来たんだい?」なんて聞きやがったら、この苛立ちが怒りへ変わる。 (俺はどこもおかしくない。ただ、裁判所に逆らえないから、仕方なくいるだけ――)  怒りに火がつく前に、会場のざわめきに気づいて顔を上げた。会場に入ってきたのは、講師であるミセス・ブルーだった。水色のスーツを着た大柄な女性で、豊かな黒髪を両肩に垂らしている。彼女は空いていた椅子に座った。 「さぁ、皆さん、お早うございます。『アンガーマネジメント・怒りのその先へ行きましょうの会』へようこそ」  そうして講習は始まり、集まっていた十数人の男女がここへ来た経緯を話し始める。  一度怒ってしまうと自分を止められない。恋人を殴った。家族に怒鳴るのをやめられない。物に八つ当たりしてしまう。傷害事件を起こした。警察に捕まった――誰かが喋り終わると、別の誰かが同情の声をかけたり、深い溜息をついたりしていた。 「さぁ、では次で最後ね、オギー?」  ミセス・ブルーの声が突き刺さる。  俯いていたオギーはしぶしぶ顔を上げ、その瞬間、自分を見つめる視線の多さにぎょっとした。皆が俺を見ている。それまで聞いていた他人の経緯など他愛もない――自分はとんでもないことをしでかしたんだ。実父を半殺しにしたんだぞ――その不安と羞恥が喉を締めつける。 「話してくれないかしら。話すことが治療への第一歩なの」 「……俺は……その」  頭のパニックを掻き消そうと思うと、癇癪の火種が胸で小さく爆ぜる。不安は焚き付けだ。その火種がとうとう喉元へとせり上がってきた時、突然、隣でグレッグが声を上げた。 「こいつ、さっき俺に話してくれたんだ。だから今日はここまででもいいだろ? な?」 「あら、そうだったの?」  ミセス・ブルーはこっちを見た。オギーはどう答えるべきかと迷い黙っていたが、グレッグが肩に腕を回してきた時に小さく頷く。  そして、一回目の講習は終わった。集まっていた人々がぞろぞろと会場から出て行く中、オギーは出入り口近くを歩くグレッグに気づく。慌てて追いかけて声をかけると、振り返ったグレッグは驚いた顔をしていた。 「おぉ、どうした?」 「……あの、さっきは助かった。言わなくてもいいように、してくれたのが」  一瞬ぽかんとしたグレッグだったが、やがてにっと歯を見せて笑った。彼はその大きな手をオギーの肩に乗せる。オギーはその温かさに戸惑った。知らない温かさだった。 「気にすんな。無理すると、悪化するからな」 「でもこのままだと、あんたが嘘をついてることになる」  駐車場に出ると、オギーはグレッグにことの顛末を話した。できるだけ手短に。冬の駐車場は凍りそうなほど寒かったし、あまり長くその時のことを思い出していたくなかった。  全てを聞き終えたグレッグは、じっと黙ってこちらを見下ろしていた。オギーも沈黙し、じっとスニーカーの先に目を落とす。  すると、ふいにぽんと頭に手が乗ってきた。反射的に身構えたが、グレッグの手はオギーの髪をくしゃくしゃと撫で回すだけだった。あまりにも長く撫でるので、オギーは少し嫌がる素振りを見せる。それでも構わず撫で回してくるので、最後は気恥ずかしくなり、オギーは彼の手を取って無理矢理引き剥がした。  駐車場にグレッグに笑い声が響き、それを冬の風が掻き消していく。  その日から、グレッグはオギーを「オギー坊」と呼び始めた。  フィルが目を開けた時、外の景色はがらりと変わっていた。道の左右には濃い緑色の葉をつけた木々が立ち並び、その隙間から見える空には西へ大きく傾いている太陽がいる。  慌てて身を起こしたフィルは、自分の目元が濡れていることに気づいた。それを拭いつつ運転席の方を向くと、グレッグが変わらずハンドルを握っていた。 「ごめんなさい。僕はどれくらい……」 「気にすんな。あんた、ひどく疲れてるみたいだ」  フィルは座り直し、裸足の爪先を擦り合せながら、夜気の存在を感じ取った。 「もう夕方だ」  グレッグはさっと辺りに視線を巡らせた。「まだあいつの姿は見えねぇ」 「すでに病院へ着いているとか?」 「それはない。俺達だってまだ着いてないんだ。病院にいる知り合いに、もしあいつが到着したら、俺の方へ連絡するよう伝えておいた。だが、それもまだだ」  グレッグは唇を噛んでいた。  東からは徐々に闇が迫ってきている。あの闇がここ一帯を覆い尽くす前に彼を見つけられるよう、グレッグもフィルも無言で祈っていた。  ふとフィルは視線を移し、オレンジ色のうろこ雲が流れる空を眺めた。その光景になぜか既視感がある――それに気づいた瞬間、フィルは弾かれたようにグレッグの方を向いた。 「グレッグさん! スマホ貸してください!」 「おぉっ、どうした!」 「僕も連絡しなきゃいけないんです!」  戸惑うグレッグからスマホを受け取ると、フィルは番号を打ってから、スマホを耳に押しつける。祈るような気持ちでコール音を聞き、それが途切れた瞬間、フィルは叫んだ。 「サーシャ!」 『えっ? フィル! どうしたの!』  懐かしい声に安堵しかけたが、胸の中で暴れる焦りと不安には勝てなかった。 「今すぐ僕のアパートへ向かって! 僕、ドクターをそのままにして来ちゃったんだ!」 『ドクターって、あのオレンジ色の金魚ちゃん? っていうか、一体どうしたの?』 「お願い、ドクターを死なせないで! サーシャ、お願いだから――」 『わかった! わかったから、とにかく落ち着きなさい!』サーシャは力強い声で遮った。そして一呼吸入れた後に続ける。『もう準備してるわ。でもあんたどこにいるの? かなり慌ててるようだけど何があったの?』  サーシャの低く冷静な声に、フィルは我に返った。乱れていた呼吸を落ち着かせていると、スマホの向こうでサーシャが動いている音が聞こえてくる。それから扉ががちゃりと開く音がし、ノイズのような街の喧騒が耳をくすぐる。  フィルは、今朝のことを彼女に伝えた。 「もしかしたら、ネッドがまだアパートにいるかもしれない……」 『構わないわ。強行突破してでも、ドクターちゃんを連れて帰るわ。で、とにかくあんたは今、州の北側に向かってるのね。オギーもそっちへ行ってるんでしょ?』 「……と思う。まだ見つかってないんだ。もう夜になっちゃうのに……」  フィルはスマホを握り締めながら、もう一度車窓の外を見やった。空に広がっていたオレンジの閃光は今や希薄なものになり、本格的な闇が木々や辺りを飲み込み始めている。 『そう。何かあったら、また連絡してちょうだい』 「うん。ありがとう、サーシャ」  そうして通話を切ろうとした瞬間、フィルははっとなり、慌ててサーシャを呼び戻した。 「あともう一つ、連れて帰ってきてほしいものがあるんだ!」  青白い空に浮かんでいたはずの白い月が、今や暗闇の中に浮かぶ小さな光だった。 「あぁ、くそっ」  道路沿いに歩いてきたオギーは、脇の森の中へと入り込んだ。道路から離れた場所までふらふらと歩くと、適当な木にもたれて座り込む。これ以上、歩いていられない。足の裏が少しずつ削れていって、肉と神経が剥き出しになっているようだった。すり減ったスニーカーを蹴り脱いで裸足になると、足枷を外されたように感じた。 「あと半日くらい歩けば着くだろうな……」  遠くに伸びる道路を見て呟きながら、途端に嫌な気分になった。強烈に煙草が吸いたくなったが、煙草もライターもアパートに置いてきている。仕方なく、夜の訪れを告げる冷たい空気を吸い込んだ。嗅ぎ覚えのある匂いが鼻孔を掠める。故郷の匂いだった。 (思い出すな……っていう方が無理か)  強烈な空腹感と疲労は、不快な眠気を誘発した。オギーはそれに負けて目を閉じる。  サングラーの町で産声を上げたきり、オギーは泣かなくなっていた。泣けば父親に地下室へ閉じ込められ、怯えた素振りを見せれば殴られる。泣くことをやめたぶん、オギーの感情のエネルギーは怒りへと供給された。身体の中では常に感情の爆発が起きていて、学校なんて場所へ行こうものなら、あっという間に問題児の称号を獲得する。  悪口を言われれば喧嘩をし、取り押さえられれば癇癪を起こし、物を壊して逆に怪我をして、指導室へ呼ばれる毎日。息子の暴走に呼応するように、父親の暴力もエスカレートしていった。あの男は酒を飲むと手がつけられない獣と化すが、まだ理性がある時は、息子が喧嘩や癇癪を起こした時に作った傷に紛れ込ませるよう、場所を見定めて殴ってくる。  そんな男を宥めていたのは母だった。父親の興味を自らへと向けさせ、息子が受ける予定だった拳を受け止めることもある。ボブカットの黒髪は細くぱさぱさしており、顔にはいつもファンデーションを塗りたくっていた。結婚してから仕事を辞め、当時は専業主婦だった。  父親が仕事で家を空けている間だけ、母と息子はリビングのテレビとソファを独占できた。オギーは母の膝に頭を乗せてテレビを眺め、母は息子のうねった髪を指ですいていた。 「ねぇオギー。帽子、欲しくない?」 「どうして?」 「だって……あんた、自分の髪の毛をハサミでぶきっちょに切って、なのに床屋には行きたがらないから、こんなに伸び放題で――」母は息子の髪をくしゃくしゃと撫で、そのくすぐったさに息子は声を上げて笑った。「――だから爆発してるみたいに見えちゃう」 「帽子かぶったら、爆発しない?」 「えぇ、きっと」  その後、母が買い与えてくれたニット帽子のおかげか、オギーは二度留年したものの、なんとか小学校を卒業することができた。しかしほっとしたのも束の間、進学先の中学校で不良達に目をつけられてしまう。彼らはオギーという、同性代の少年よりも身体が大きく、かつ悪い評判を両腕いっぱいに抱えていた少年を、是非とも仲間にしたかったのだろう。  彼らに捕まったオギーは、まず「見定め」のリンチを受けた。  幸か不幸か、オギーは喧嘩が強かった。 「見定め」の後、オギーは不良グループの中へと引き込まれた。そこは抗えない暴力を受ける家庭や、感情を押し殺す学校とは違う――メンバーは何かあれば喧嘩で決着をつけるような連中だが、感情の爆発を我慢しなくていい環境に、オギーは徐々に沈んでいった。爆弾を処理できる場所。喧嘩の相手は毎日いる。仲間達にとって、自分はいつ噛みついてくるかわからないスリル満点のペットだったかもしれないが、居場所があるだけありがたかった。  しかし、喧嘩三昧の日々とは言え、中学校は卒業しなければならない。すでに一度留年して後がない十七歳のオギーは、夏休みが明けた九月からグループのメンバーと関わることを控えた。息子の行く末を案じる母のためだった。 「おい、オギー。最近、付き合いが悪いじゃねぇよ」 「仕方ないだろ。卒業しなきゃいけねぇし」  絡まれたのは十月だった。オギーの答えに全員が腹を抱えて笑う。その笑い声が学校中に響く。彼らが笑う理由はオギーもわかっていたため、特別言い返すことはしなかった。 「そんな寂しいこと言うなよ――なぁ!」 「あっ、おい!」  突然、ニット帽をむしり取られたオギーは、顔に降りてきた髪で目の前が暗くなった。髪の隙間から見えたのは、ぼろぼろになったニット帽を、へらへらと笑いながら振り回す男、それを見て笑う男達――思わず睨みつけると、一瞬だけ彼らの顔が引き攣った。 「ふ、ふん。なんだよ、文句があるなら言ってみろ!」  ニット帽を奪った男は、それを床に叩きつけて靴で踏みつける。瞬間、オギーの中で爆発が起きた。気がつけば彼の方へ手が伸びていて――結果、学校の清掃員が廊下の血溜まりの痕跡を消し、血染めのニット帽がごみ箱へ捨てられ、サングラー病院に新たな入院患者が増えた頃、オギーは退学となっていた。  以来、オギーは自宅に軟禁され、母は父親から「息子の不出来はお前のせいだ」と罵り殴られる日々が始まった。そんな地獄が一年続き、そしてとうとう運命の夜がやって来る―― 「はっ」  暗闇の中で飛び起きた時、オギーは全身にぬるい汗をかいていた。日は落ち、町の明かりも街灯もない辺りは、冷気を含んだ闇に包まれている。半醒半睡だったオギーは、半ばパニックを起こしながら、故郷の匂いがする闇の中でよろめき立つ。 (あなた! お願いよ、やめて!) (黙れ! 息子一人まともに育てられない女が俺に指図するな!)  オギーは頭を抱えた。視界がぐるぐる回る。あの夜の音が、声が、頭の中で蘇る。 「もうやめてくれ……」  その日は、雨の降る夜だった。わずかに開いたリビングの扉から、十九歳のオギーは見ていた。床に仰向けに倒れた母に馬乗りになり、彼女の細い首を絞める父親の血管の浮いた腕を。最初、オギーは彼らが自分の父親と母親だとは思わなかった。どこかの男が、どこかの女の首を絞めている――しかし、首を傾げた女と目が合った瞬間、身体にざわりと悪寒が走る。  オギーは走り出していた。  扉を開け放ち、男の身体に体当たりする。その衝撃で男がごろりと床へと転がると、オギーは男の腹に馬乗りになった。そして石よりも固く握り締めた拳を、男の顔面に向かって振り下ろし―― 「うっ!」  オギーは何かに頭から激突し、後ろへ仰け反った。額を思い切り殴られたような衝撃に次いで、地面に強かに背中を打ちつけてぐっと息が止まる。しばらくは地面に倒れたまま呻いていたが、何とか目を開けると、目の前には一本の木が立っていた。どうやら半狂乱になって裸足で走っていたところを、この木に止められたようだ。 「はぁ、いってぇ……」  震える手で額に触れると、ぬるりと生暖かい感触があった。その手を顔の方へ下ろしていき、鼻の下に触れると同じような感触がある。 「くそ……」  オギーは血塗れの手で目元を覆った。涙は出なかった。

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