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絵本泥棒
幼稚園時代のことだ。
「なに見てるの?」
カワイさんが後ろからぼくの手元を覗いて来たので、ぼくはカワイさんにもよく見えるよう、テーブルに読んでいた絵本を置いた。
「孫悟空のぼうけん」
それは学級文庫のなかでもクラスの男子に一番人気のシリーズで、ぼくなんかみたいな下っ端にはめったに借りる順番が回ってこない。クラスで一番えらいヨシキくんが読み終わったあとを見はからって、つぎに貸してくださいとお願いして借りさせてもらったものだ。
「ふーん、つまんない」
カワイさんは本当につまらなさそうな顔で勝手に『孫悟空のぼうけん』を閉じると、背表紙をつかんで先生の机の方へと歩いていった。
「先生、これが借りたいです」
と言って、貸出カードに名前を書いてもらっている。
「なにするんだよっ、ぼくが先に読んでたんだぞ! この泥棒!」
叫んだ瞬間、背後からスモッグの襟を引っ張られ、そのまま引き倒された。尻もちをついてムカッとしながら見上げたら、ヨシキくんの子分のタカシくんが凄みのある顔でぼくを見下ろしていた。
「女いじめてんじゃねーよ、ドベのくせによぉ」
以来、ぼくが学級文庫に近づこうとすると、ヨシキくんかその子分たちのだれかが邪魔をしてくるようになった。弱虫でドベのくせに女をいじめる最低なやつに、学級文庫にさわる権利はないってわけだ。『孫悟空のぼうけん』だけでなく『ぐりとぐら』や『はらぺこあおむし』さえも読めなくなったのは痛い。
その日もヨシキくんはぼくの斜め前の席でゆうゆうと『孫悟空のぼうけん』を読んでいた。ぼくは自由画帳に絵をかくのにあきて、テーブルに顔をつけていた。『孫悟空のぼうけん』……手のとどきそうなほど近くにあるというのに、ぼくにはさわれないなんて。
気がついたら、ヨシキくんは本を読むのをやめてどこかへ行ってしまっていた。ヨシキくんの席には『孫悟空のぼうけん』がおきっぱなしだ。喉から手がでるほどにほしい。でも勝手に触っているところを見られたら、ヨシキくんにボコられる。でも読みたい……。
躊躇していたぼくの目の前で躊躇しない手が『孫悟空のぼうけん』を取り上げた。カワイさんかと思った。だったらヨシキくんに告げ口してこらしめてもらおうかとちょっと思った。でも違った。ホリコシくん。ぼくといっしょのグループになったことが一度もない。話したこともない子だった。ホリコシくんはヨシキくんの席の前に立ったまま絵本をひらき読みはじめたが、ぼくの視線に気づいて顔をあげた。
「読みたいの?」
「うん」
「じゃあ、あっちで読もう」
ホリコシくんはピアノを指さした。ぼくはホリコシくんのあとについてピアノの前の椅子によじのぼった。ホリコシくんはピアノの譜面台に絵本をのせて言った。
「こうすれば二人で読めるじゃん?」
その発想はなかった。ぼくは感動してホリコシくんを見た。ホリコシくんはいたずらっぽく笑った。
それからというもの、自由時間はピアノの椅子にホリコシくんと二人で腰かけ、絵本を読んですごした。ホリコシくんは不思議だ。クラスのほかの子たちは、学級文庫から男子の読む絵本を取るときはヨシキくんにお願いをしなきゃいけないのに、ホリコシくんはなにも言わずに取ってくる。ぼくがやったら泥棒になることをホリコシくんがしても、誰もなにもいわない。ホリコシくんはごく自然な足どりで学級文庫の本棚に近づいていき、サッと目あての本をひきぬいてもどってくる。ホリコシくんとなら、『孫悟空のぼうけん』でもあこがれの恐竜図鑑でもなんでも、読みほうだいだ。ホリコシくんとピアノの椅子に腰かけて本を読んでいる時、ぼくたちの周りには見えないバリアーが張られているかのようだった。
ある日、ぼくはホリコシくんに聞いた。
「ホリコシくんは、どうしてぼくなんかといっしょに本を読んでくれるの?」
「読みたそうにしてたから」
ホリコシくんはこたえた。ぼくは一方的に親切にしてもらっていることに居心地の悪さを少し感じていたが、それをホリコシくんにどうやって伝えたらいいのかわからなかった。するとホリコシくんはまるでぼくの心を読んだかのようにニヤリと笑い、
「じゃあ、なにかお礼をもらおうかな」
と言った。
「うん」とぼくが答える前に、ホリコシくんはぼくの顔に顔を近づけ、チュッと唇にくちづけた。一瞬、にぎやかな教室がしんと静まりかえった気がした。ぼくは驚いて、キョロキョロあたりを見回したが、すぐに教室のざわめきは戻ってきて、クラスのみんなは誰もぼくたちのことが見えなかったかのようにめいめい好きなことをしてすごしていた。その時もぼくたちは、ホリコシくんのバリアーに守られていたのだ。
たしか夏休みの明けた一週間後くらいまでは、ホリコシくんはクラスにいた。夏休みのあいだ、ぼくはいっさい本のない家のなかで本に飢えてすごしていたから、夏休み明けにホリコシくんと再会したときは、ホリコシくんが天使のように見えた。だから、八月の終わりにはホリコシくんは確かにいたと断言できる。でもクラスの誰もホリコシくんがいなくなったことに気づかなかったし、ぼくの親もそんな子がぼくの同級生にいたなんて知らないという。卒業アルバムにもホリコシくんの名前はなかった。
ホリコシくんが幻でも空想上の存在でも何でもないただの人間だと知ったのは、高校に入学する直前の春休みのことだ。ぼくは地元の百貨店の本売り場でホリコシくんと再会した。売り場の入り口でふと目があった時、ぼくたちは互いに相手を古い知り合いだと認識した。
ぼくたちは本売り場の同じ場所を目指していた。レジにほど近い、文庫本が平積みされている所。「県立〇〇高校春休み課題図書」とでかでかと書かれたポップがさがっている、その前でぼくらと同い年くらいの男たちがジャンケンをしている。残り一冊の『羅生門 蜘蛛の糸 杜子春 外十八篇 』をめぐって戦っているらしい。思わず、ぼくはホリコシくんを見た。彼はニヤリと笑うと、ごく自然な足どりでそこへ近づいていき、本の平積みされたテーブルからサッと目当てのラスト一冊を掠め取り、なに食わぬ顔でレジに会計に行った。ジャンケンはまだ続いている。ぼくはホリコシくんの後について行き、財布を出そうとしたけれど制止された。
会計が終わる頃、ジャンケンをしていた奴らがやっと気づいてざわざわし始めていた。ぼくらは知らんぷりで売り場を出た。
「昔から思ってたけど、ホリコシくんって泥棒の才能があるよね」
「やんないよ、そんなの。それよりうち、ここから近いんだけど、来るだろ?」
ホリコシくんは文庫本の入った紙袋を顔の高さで振りながら言った。
「うん、行く行く」
そう応えたぼくをホリコシくんは抱き寄せ、こめかみにチュッとくちづけ、パッと放した。
「俺、読書感想文とか苦手だから、教えてくんない?」
「えぇ、俺も苦手なんだけど」
「まじか」
週末の百貨店はそこそこ混んでいたのに、ぼくとホリコシくんの周りにはバリアーが張られたかのようで、行き交う人々はぼくたちの事など気にも留めずに歩いていた。
(おわり)
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