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第1章

          3   夏川の指導おかげか、真南人の成績は全国模試で十位以内に入るレベルにまで達していた。その結果を早速夏川に伝えると、夏川は、綺麗な目を輝かせながら、まるで自分のことのように喜んでくれた。真南人はそれがとても嬉しくて、塾からの帰り道、何度も夏川の笑顔を思い出しては、顔が緩んでしまう自分に戸惑った。  今日の講習は夏川に用事があるということで午前中に終わった。仲の良い友達がいない真南人には、午後からの予定などあるはずもなく、家に帰ったら、もっと夏川を喜ばせる結果が出せるよう、すぐに勉強を始めようと考えていた。  今日は特に、アスファルトの照り返しがきついとても暑い日で、真南人の首にはじっとりと汗が滲み始めていた。真南人は斜め掛けのリュックを軽く背負い直すと、首の汗を拭いながら、足早に通い慣れた道を歩いた。  年々地球温暖化で猛暑と化す日本の夏が真南人は嫌いだ。でも、この暑さの中自分は心を躍らせながら家に向かっている。むしろ、この暑さが、真南人の心を昂揚させ、解放的な気分にしてくれる。真南人は、そんな現金な自分が滑稽で、思わず歩きながら笑みが零れた。  現金になる理由は簡単だ。明日も夏川に会えるからだ。本当にただそれだけで、不快な自然現象ですら享受できてしまうし、普段通りの景色すら美しく見えてしまう。  回数を重ねるごとに、真南人は夏川との講習を心待ちにしている自分に気づく。でもそれは、一人っ子の自分にできた、信頼できる兄のような親しみの感情からかもしれないし、一緒にいるととても癒される、博学で頭脳明晰な夏川に対する憧れのような感情からかもしれない。でも、そのどちらとも違うような感情が自分の中にあるような気がして、真南人はもやもやと心を曇らせる。  真南人は、そのことについてあまり考えまいと、首を軽く左右に振った。  その時、見慣れた後姿を見かけた。人ごみにかき消されてしまわぬうちに、真南人はその後ろ姿を追いかけようとした。でも、渋谷のスクランブル交差点ですぐに見失ってしまう。しばらく目を凝らしてその人物を探していると、運良くその人物の綺麗な横顔が真南人の視界に入った。その人物は、交差点で道玄坂方面に向かおうとしている。真南人は汗を流しながら必死にその人物を追いかけた。  しばらく後を付いて行くと、道玄坂のホテル街の路地に出た。真南人はその人物に気づかれないよう距離を置いて歩く。自分でも何故こんなスパイめいた行動をしているのか理解不能だ。最初はただ、一緒に帰れればという気持ちで追いかけた。でもだんだんと、このまま気づかれずに追いかければ、この人物の隠された一面に出会えるかもしれないという純粋な好奇心にすり替わった。  その人物は道路脇に停車している車に近づいた。運転席にいるのは、三十代中半か後半ぐらいのサラリーマン風な男だ。運手席の男はその人物に気づくと、運転席から降り、二人一緒に近くのコンビニに入った。しばらくすると、ビニル袋を持った男とその人物が車に戻って来る。二人は一緒に車に乗り込むと、運転席の男が、我慢できないというように不意にその人物の腕を取って、助手席のシートに押さえつけるようにしてキスをした。  真南人は、突然の展開に驚き過ぎて、はっと息を吸い上げると同時に、小さな悲鳴が口から洩れた。その人物は運転席の男を呆れたように見つめると、周囲をキョロキョロと伺っている。  真南人は気付かれるのを恐れて、慌てて反対方向に向き直った。数秒後建物の陰に隠れながらもう一度二人に振り返ると、車はまっすぐホテルの駐車場の入り口に向かって発進し、地下へと消えていった。  真南人はそれを見届けると、強く打ちつける心臓を押さえながら下を向き歩き出した。  自分は今、激しく動揺しショックを受けている。  真南人は同性同士がキスをするのを見たのは今日が初めてだった。でも、不思議とそれが、あまり違和感なく真南人の目に映ったのは、その人物の醸し出す雰囲気によるものだろう。あの美しすぎる顔なら、きっと男同士の垣根など簡単に飛び越えられる気がする。   真南人は思う。自分がもし彼にキスを迫られたら、簡単に受け入れてしまうのだろうかと……。  そんな自問自答に真南人ははっと我に返った。自分のおかしな変化に背筋が凍っていく。  真南人はその考えを払拭するようにかぶりを振ると、リュックのショルダーストラップを両手で強く握りしめた。余りにも力を込めながら握っていると、真南人は突然泣きたいような衝動に駆られた。でも、また明日会う彼と普段通りに接したい真南人は、その衝動をぐっと抑え込む。  知らない振りをしよう。自分が見た彼とあの男とのやりとりを記憶から消してしまおう。  真南人はそう強く自分に言い聞かせた。

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