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第1話

   神田(かんだ)麻陽(あさひ)は、中学の頃から学校に行っていない。  オメガと診断された直後、世話になっていた親戚の男に犯され、ずっと閉じ込められていたからである。  麻陽の両親は小学校中学年の頃に事故死した。それから世話になっていたのが、麻陽の父の弟である男のところだった。けれどその父の弟も、麻陽がオメガと知るや否や、麻陽を保護の対象ではなく性の対象へと変えた。オメガは人口的に少ないが最高に良いセックスができると噂があり、ベータであった父の弟もそれに流されてしまったのだ。  関係は続き、男の妻に最中を見られたのが、麻陽が十六を迎える頃。男は「麻陽が誘った」と妻にすがり、それを信じた妻は麻陽をすぐに身一つで追い出した。  そうして彷徨っていた麻陽は、偶然にもオメガ専門風俗のオーナーに気に入られ、住み込みで入店した。  ここまでが、神田麻陽という男の過去である。  おおよその者がこれを聞けば「可哀想」「頑張ったね」と涙まじりに慰めるものだが、そんな必要はまったくない。なぜなら麻陽は自身を悲観していないし、それが可哀想だと思うほど情緒も育っていなかった。  そして何より、麻陽はお馬鹿だった。  能天気で楽天的。底抜けのお馬鹿で、ついでに言えば晴れ男。運も悪くはない。なんとなく買った馬券がうん十万に化けたことだってある。  麻陽はむしろ幸せだと思っていた。セックスだって好きだ。誰とするのも気持ちがいい。オメガが世間で蔑まれているのだって麻陽には興味もなかったし、番なんてどうでも良かった。  とにかく今が楽しければいい。  麻陽は風俗店から出ると、機嫌よく街に向かって歩き出した。 「お、あっちゃん。どこ行くんだよ、客の相手は?」  隣の店の客引きの男が、風俗街を歩く麻陽を呼び止める。 「今日は僕オフにしてもらったんだよ。ふふ、ちょっとね、テレビで美味しそーなケーキ見てね、食べに行くの」 「おお、いいなぁ。あっちゃんが女が好きそうな店でケーキ食ってても違和感ねえ。行ってらっしゃい」 「うん。お兄さんも頑張ってね」  麻陽がオメガ専門の風俗店、"Lavish ーラビッシュー"に入店してから、もう三年が経過した。麻陽も今年で二十歳になる。けれど特に将来のことなんか考えてもいなくて、この年にしてはお金も有り余るほど持っているために苦労もなく、今日も今日とて自分のしたいことをしたいようにして生きているだけだった。  街に出ると、周囲の目が一気に麻陽に集まった。チョーカーをしているからということもあるが、何より麻陽の容姿はあまり見ないほどには整っていて可愛らしい。  しかし麻陽はそんな視線にも慣れているから、ただひたすらにケーキ屋さんを目指す。ふわふわのムースにチーズクリーム、とろりととろけるフォンダンショコラ。思い出すだけでよだれが出そうになるのを堪えながら、スキップでもしてしまいそうな心地である。 「はぁー、でもどれから食べよっかな……」  頭の中のメニュー表を開いていると、突然バシャ! と思いきり水がかけられた。  ふわふわと旅立っていた浮かれ心地な思考が止まる。数度瞬きをして自身を見下ろすと、全身がびしょ濡れになっていた。  ポタリと一つ、前髪から滴が落ちる。  はて、いったい何が起きたのか。 「う、うわああ! すみません、すみません! あの! タオルお持ちしますので!」  え? なんて反応する間も無く、一人の男が花屋の奥に姿を消す。すると立ちすくんでいた麻陽を追い抜いて、スーツの男が花屋に突撃して行くのが見えた。彼も水に濡れているようだ。もしかしたら麻陽とは近くを歩いていて、一緒に濡れてしまったのかもしれない。 「あ、なるほどねー、水撒きしてたんだ」  ぼんやりしちゃってたのかなー、なんて呑気に思っていた麻陽とは裏腹に、店内からは大きな怒鳴り声が聞こえてきた。どうやらスーツの彼はこれから商談があるらしく、スーツを濡らされたことに腹を立てているらしい。  彼にタオルを渡して平謝りしている店員さんが可哀想に思えて、麻陽もなんとなく店内に飛び込んだ。 「店の教育はどうなってるんだ! 水を撒くなら確認ぐらいするのが普通だろう! 弁償できるのかおまえ!」 「す、すみません、申し訳ありません! クリーニング代を、」 「弁償だ弁償! こっちは商談もぶっ飛ぶんだぞ!」 「えい」  ぼふ。  怒鳴っていた男の背中に、麻陽が突然抱きついた。一瞬動きを止めたその場は、やはり怒り狂った男が麻陽を弾き飛ばすことで動きを再開する。 「なんだおまえ! 濡れた体で俺に抱きついたな……! 汚いオメガが触れやがって!」 「べんしょー? なら僕がするよ。だって僕も濡らしちゃったもん」 「ああどっちでもいい、それならさっさと金を出せ。いいか、このスーツはおまえみたいなお子様が買えるような額じゃない。支払えないのなら、」 「んー、この近辺の高級なスーツ屋さんってどこ? ここ?」  ぽちぽちとスマートフォンをいじっていた麻陽が画面を見せると、男はぐっと言葉をつまらせた。 「……近場で言えばそこ、だが、おまえに支払えるわけが、」 「じゃあ行こうよ。しょーだんは何時? 今すぐ買ったら間に合うでしょ?」 「正気か?」 「べんしょーべんしょー」  全身水を被ったまま、麻陽は陽気に店から出た。  幸い店は近いようだ。徒歩で五分圏内にある。軽い足取りで向かう麻陽に、男は渋々ながらについて歩いていた。  並んで歩くわけでもないから会話もない。麻陽は店に着くとすぐ、ふらふらと「そこのお兄さん」と店員を呼びに行った。すると気付いた店員は真っ先に麻陽にタオルを渡す。麻陽はこのままでも良かったが、そうなると店内が汚れてしまう。それに気付いてひとまずタオルは大人しく受け取っておいた。 「スーツを一式? 今すぐですか?」 「うん。一番いいやつをこの人にプレゼントするの」 「か、かしこまりました」  どうしてオメガの少年が? と不思議そうに男を一瞥して、店員はすぐに店の奥に向かう。  麻陽の首には少し大きいチョーカーがついている。そのため彼がオメガであることは一目瞭然だ。 「……おまえ、本当に買うのか」  怒りが落ち着いてきたのか、近くの椅子に座った男が脱力しながらつぶやいた。 「へ? うん、買う。べんしょー」 「その言い方やめろ、腹が立つ。……はぁ。なんだおまえは本当に……気が抜ける……」 「お兄さんがカリカリしすぎなんじゃない?」 「……分かってるよそんなこと……嫌なことが続いて八つ当たりしたんだ。悪かったな」  麻陽が頭を拭いていると、店員がようやくスーツを持ってきた。そして男と共に試着室に向かう。途中、男がちらりと麻陽を振り返ったが、麻陽にはその意味が分からなかった。 「ん、そうだ、お会計しとく。先にお会計」 「かしこまりました。あちらのスーツをお買い上げでしょうか」 「うん。もしもサイズ合わなかったりしたらもっと値段変わる? だったら一番高いお金で引いといてよ。返金あったら試着してるあの人にあげて」  麻陽が気さくにカードを渡すと、レジの前に居た店員がやはり不思議そうな目で麻陽を見つめる。 「うん? なに?」 「いえ、失礼いたしました。それではこちら、カードをお返し……あ、お客様、試着を待たれないのでしょうか」 「うん、僕大事な用事あるから。あ、タオルありがとー」  店員は自身に押し付けられたタオルを見つめて、追いかけられないまま麻陽の背中を見送った。

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