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幸福に壊して

 洸太のことは、俺がいちばんよくわかっている。俺と洸太は幼稚園からの幼馴染で、お互いの良いところも悪いところも、全部知っていた。だから俺たちは離れられなかった。そうするしかなかったし、それが俺たちの望みでもあった。  最初に、洸太が秘密を打ち明けてくれたのは中学二年生のときだった。一年生のときは別々のクラスだったが、二年に上がると再び同じクラスになれた。またおまえかよ、とクラス替えの初日に肩を叩かれ、俺は嬉しくなっていた。  洸太は水泳が苦手だった。裸になりたくないし、他人の裸を見るのも嫌だ、としょっちゅう愚痴をこぼしていた。 「女子の水着も見たくない?」  俺が尋ねると洸太は緩く首を横に振った。 「見たくない。気持ち悪いんだよ、人間の薄い肌とか、浮き上がった血管とか、細かい皺とか」  そか、と俺はうなずいた。洸太のことは誰よりも俺がよくわかっていると自負していたから、こういうデリケートな問題に関しても良き理解者でありたかった。  そのあと洸太は、更衣室で水泳帽をかぶって「あ、でも」と一言付け足した。 「エイちゃんの裸は平気。もう見慣れてるから」  そして気軽な手のひらで俺の脇腹を叩いた。ぱん、と高い音をさせ、洸太はにこやかに笑う。 「あ、やべ。赤くなるかも」  全然痛くはなかったが、確かに、叩かれた箇所は少しだけ赤くなった。俺は授業中、その赤みを指先で何度もなぞった。洸太に気付かれると「ごめん、痛かったよな」と心配されるから、洸太の目を盗んでなでていた。授業が終わってチャイムが鳴ったときにはもう、その赤みはすっかり消えていた。だけど俺は一日中ずっと、洸太に叩かれた脇腹を指でなぞり続けた。    しばしば洸太は「俺、彼女できないと思う」という話をした。俺はその理由が、水泳のときに聞いた「人間の肌が気持ち悪いから」という部分にあるのだと思っていた。しかし、違った。  ある秋の日、洸太は俺の家に遊びに来て対戦ゲームで白熱したあと、背もたれにしていたベッドに突っ伏して告白した。 「俺、大事なものを壊すのが好きなんだ」  布団に吸収された声は震えていて、深刻な雰囲気に戸惑った俺はひとまずテレビを消した。しんと静まった部屋には木枯らしと鈴虫の音だけが響いていた。 「突然ごめん。俺、最近おかしいんだ。異常者になったんだよ。なんでかわからないけど、昔エイちゃんにもらった恐竜のフィギュアとか、小さいころから使ってた目覚まし時計とか、大事にしてたもの全部壊しちゃったんだ……。だから、ごめん、エイちゃん。俺、このあいだエイちゃんがくれた手鏡も壊しちゃった……」  洸太は泣いていた。顔を上げずにすすり泣いて、両手は毛布を握っていた。俺はそんな洸太の背中に手を当てて「いいよ」と言った。 「いいよ、別に。あの手鏡、どうせ姉ちゃんのおさがりだし」 「よくねぇよ、おさがりだからいいって話じゃねぇじゃんか。エイちゃんが好意でくれたもの、俺、壊してんだよ」 「壊すと、洸太はどうなるの」  鼻をすすった洸太はゆっくりと顔を上げた。真っ赤な目で、不規則に喉仏が動く。 「エイちゃんにはわかんねぇと思うけど、なんか、こう、すっげー気持ちよくなんの。あー今やっちゃダメなことやってんなーって思ったら、身体ン中がぶわーって熱くなってさ、何もわからなくなるくらい、気持ちよくなる」  洸太は怒ったみたいな顔で言った。最低な自分を罵ってみろとでも言いたげな表情だ。俺はそんな洸太を前に、適切な言葉は選べなかった。だって、あの水泳の日に叩かれて赤くなった脇腹が、今でもずっと愛しい。 「いいよ、洸太。俺はそんな洸太も好きだよ」 「なんだよ、それ。好きってどういう意味だよ」 「好きは『好き』って意味だよ。俺は洸太がどんな悪人になったとしても、大好きだよ」  洸太は歪んでぶさいくになった唇で「簡単に言うなよ」と言った。だけど俺だって、簡単な気持ちで告げたわけじゃなかった。俺はもう、ずっと、洸太が「どうせ俺には彼女ができない」と言うたびに腹の底で喜びを生んでいた。 「エイちゃん、俺はさぁ、好きなものを壊したくなるんだよ。これ、どういう意味かわかる? 好きなひとを殺したいって意味だよ。でも俺はそんなの嫌だよ。普通に幸せになりたいよ……。これってさ、俺が中学生だからなのかな? 大人になったら、ちゃんと普通の男になれるかな。なぁ、エイちゃん。どう思う? 俺、普通になれるかな」  鼻水と涙でぐずぐずになった洸太にティッシュの箱を渡して、俺は優しく洸太の顔を覗き込む。かわいそうに。そんな悩み、きっと俺以外の誰も理解してやれない。 「無理だよ。洸太はこれからも、大人になっても、ずっとそんな感じだよ。うっかり彼女を作ったりしたら絶対殺しちゃうと思う。だってすでに洸太は、色んな大事なものを壊してるんだよね? 中学生っていうのは、そういう、性的嗜好が確立……? される時期なんだって。だから洸太はいつか、大事なひとを殺しちゃうんだよ。そういう人間になっちゃったんだよ」 「そんな……俺がひとを殺すなんて、そんなの嫌だ……怖いよ……俺は好きなひとを大事にしたいのに……なんで? なんでこんな、ひどいことしたいって思っちゃんだよぉ……」  洸太は素直に、それらしい話を信じてくれた。嗚咽を漏らして泣いている洸太を俺は、本当に好きだと思った。実を言うと、彼女ができそうにないのは俺も同じだった。だって俺は洸太以外の誰も愛したくないし、洸太以外の誰にも愛されたくない。 「でもね、洸太、よく聞いて。俺なら大丈夫だよ。ほら、こっち見て。俺、ぜんぜん洸太のこと怖がってないじゃん? むしろ洸太のこと大好きなんだよ。だからさ、俺たち、恋人になろうよ。そしたら幸せになれるよ。だって俺、洸太になら壊されてもいいって思ってるし。それに、洸太に殺されるって思うと、すごく嬉しくなるし」 「な、なんだよ、それ……。俺はやだよ、おまえのこと殺したくないよ……」 「じゃあ俺のこと嫌い?」 「いや、嫌いじゃない……っていうか、結構好きだけど……」 「じゃあ付き合おうよ。洸太は俺以外の誰かを好きになったら、たぶん勢いで殺しちゃうよ。でも俺なら大丈夫でしょ? 洸太は俺のことを絶対殺したくないもんね? だったら大丈夫だよ。それにもし、本気で洸太が俺を殺したくなったときには完全犯罪になるよう協力してあげるからさ」  そう言って笑いかけたら洸太は、ぐしゅ、と鼻を鳴らした。なおも涙が止まらない洸太を慰め、やがて冷静になった洸太は「ほんっとにいいの?」と聞いた。 「いいよ。でも、洸太、俺とキスできる?」 「あー……どうかな。実は俺、他人の体温とか唾とか、すっごい気持ち悪くてさ。でもエイちゃんなら平気そうかも。ちょっと一回、キスしてみてもいい?」 「うん、どうぞ」  いつのまにか外は暗くなっていた。電気もつけない部屋で、俺たちは初めてのキスをした。泣きはらした洸太の唇は可愛らしくかさついていた。 「……どう?」 「んー、オッケー! 大丈夫そう!」  唇を離した洸太は嬉しそうに指でオッケーのサインを作って見せた。俺は部屋の電気をつけて、帰り支度をする洸太の鞄を渡した。珍しく俺は高揚していた。生まれて初めて明日が楽しみに思えて、このまますぐに眠ってしまいたかった。 「母さんと姉ちゃんはいつもこの時間いないから。いつでも来ていいよ」  俺の言葉に、洸太は素直に赤面した。だけど終わりのない始まりを望めはしないから、ひとりになったあと、ほんの少し泣いた。  洸太と最後までセックスしたのは、高校生になってからだった。男同士の性行為に対してふたりとも強い不安があったのだ。性病とか、体調を悪くするとか、ネットで調べたら色んな情報が出てきて、俺たちはしょっちゅう「どうする?」「まだ早いよ」「もし何かあって病院に行くことになっても、親に説明できないよな」「ていうか、どっちがどっちにいれるの?」と、たくさん相談をした。  高校は、一緒のところを選んだ。プールのない高校だ。いつも一緒にいたから成績もちょうど同じくらいだった。家から高校までは自転車で二十分ほどで、たいてい俺たちは一緒に通学した。新しい友達は俺たちを「付き合ってんのかよ」とからかったが、それ以上突っ込んでくることはなかった。たぶん、関わりたくなかったのだろう。俺たちも、自分たちが異質な存在だとわかっていた。 「どうしよう、エイちゃん。そろそろ最後までヤってみたくなったかも」  洸太が顔を真っ赤にして言ってきたのは、冬休みが終わったときだった。一月のつめたい風が指を凍らせる夕方。洸太は学校から出ると、恥ずかしそうに耳打ちしてきた。 「じゃあ、俺んち来る?」  洸太は、中二の冬から急に背が伸びた。俺よりも背が高く体重も重くなった洸太は、しかし俺よりも照れ屋だった。 「うわぁ、恥ずかしい。俺たちとうとうヤっちゃうんだ。なぁ、大丈夫かなぁ」 「大丈夫だよ。ずっと準備してきたんだからさ。ローションもゴムも、ちゃんと買ってあるし」  俺の家に来るまで洸太はわぁわぁ言って恥ずかしがった。普通なら俺の方がもっと恥ずかしがるべきなんだろうけど、洸太がこれだから、仕方ない。それに俺は洸太を受け入れるために日々努力を重ねてきたから、今さら恥ずかしいという気持ちはない。 「シャワー浴びる?」  家について俺が言うと、洸太は「慣れてる奴のセリフじゃん!」と笑った。慣れてるわけがなくて、俺も笑った。 「でもシャワー浴びたらさすがに怪しまれね? かーちゃん何時に帰ってくんの?」 「えーと、今日は六時半かな。あと二時間くらい」 「じゃあ、さっさとヤろう。ウェットティッシュなら持ってるし、いつも通りでいいよ」  性的な触れ合いは中学のころから繰り返していた。キス、オナニーの見せ合い、触りっこ。ふざけながらやるときもあれば、泣きながらやるときもあった。 「洸太、もう入るよ」  後ろの準備は整っていた。洸太は慎重な手つきでゴムを付け、俺のなかに入って来た。 「うああぁ……」  今日の洸太は泣いてしまった。俺を抱きしめ、少しだけ動いたりしながら、哀れな瞳で洸太は泣いた。 「嫌だ……エイちゃん、俺エイちゃんのこと好きだよ、壊したくないよ……」  笑えない日には、洸太はいつも泣いた。ぼろぼろ泣きながら俺の首を絞めたり、肩に噛みついたり。そんな自分を嘆き、洸太は涙をこぼすのだ。 「なんで俺はこんな人間なのかな。やだよ、エイちゃん……俺、普通にエイちゃんのこと好きになりたいよ……」  洸太は優しくて、正義感の強い人間だった。困っているひとを放っておけないし、他人の悲しみによく同調した。そのため女の子から好かれやすいが、洸太は俺以外の、誰も好きにならなかった。 「大丈夫だよ、洸太。俺はどんな洸太でも大好きだから」  腹の奥の圧迫感は耐えがたいが、それ以上に、その苦しさが気持ちよかった。洸太が背徳感を抱きつつ大事なものを壊して気持ちよくなるように、俺もまた、大好きなひとに壊されることが気持ちよかった。  本当に、壊されてしまってもいいと思っていた。泣きじゃくる洸太の声が俺の脳をどろどろに溶かす。そうやって死んでいくことは、きっと最高に気持ちいいんだろう。 「エイちゃん、嫌だよ、死なないで、お願い、俺に殺されたりなんかしないで」 「洸太は優しいね。大丈夫だよ、洸太がいちばん気持ちいいやり方で動いていいからね」 「そんなこと言わないでよ、エイちゃん、俺ほんとに気持ちよくなっちゃうよ、エイちゃんのこと殺したくないのに、エイちゃんが死ぬこと考えたらイきそうになるんだよ」 「うん、うん。俺もだよ、洸太。俺も気持ちいいよ」  背中に回した腕で洸太を拘束する。このまま腹の奥を突き破ってくれたっていい。そしたら俺は、幸福な死を迎えられる。  ベッドがきしむ音と、洸太の泣き声と、俺のうめき声。俺の世界は狭い。目眩がする。呼吸ができない。 「あぁ、エイちゃん、だめだよ、死んじゃ嫌だよ。俺と一緒に生きてよ、ねぇ、エイちゃん」  意識が飛びそうになる前に、俺は洸太の腹を蹴った。はっとした洸太は退き、俺の腹は寂しくなる。 「はぁ、はぁ……ごめん、エイちゃん……ありがと……」 「ううん、平気。今日はここまでにしよっか」  目を閉じて心臓の高鳴りを感じる。まだ俺は生きている。洸太に壊されるための命はまだ健在だ。よかった。 「手でしようか」  俺のものは萎えていたけど、洸太の手に扱かれるとすぐに大きくなった。俺も洸太のものを握って扱いて、名残惜しさを共有して苦笑する。そろそろ、と俺が促して、ふたりで一緒にイった。母さんが帰ってくるまであと三十分ほど。急いで換気をして、ベッドをきれいにする。 「ちゃんとできたね」  玄関先で言うと、洸太は照れたように唸った。かっちりとマフラーで守られている首もとには、俺の歯形が残っている。 「夕飯食べて行ってもいいよ?」 「いや、今日はカップ麺あるから。特別にふたつ食べていいんだ」  にかりと笑った洸太の歯のあとも、俺の肩に残っている。その箇所をなぞると体が熱く火照った。それからすぐに、自転車にまたがり颯爽と帰って行った洸太と入れ違いで母さんが帰って来た。  母さんは最近、すごく疲れている。姉ちゃんが出て行ってから、特に悪化している。 「夕飯、すぐ作るから」  ただいまも言わず、機械みたいな声の母さんは台所に行った。  俺はたぶん、長生きをしないと思う。もし俺がいなくなったら、母さんはもう少し楽になるのだろうか。それとも、俺だけが幸福に死んでしまったら、母さんは怒るだろうか。  何かに対して嘆いたことは一度もない。俺の人生は恐れるものが何もない。洸太を失うことすら、考えると胸が躍る。不気味な音で、俺の心臓を跳ねさせる。  死ぬことこそが生きることだと、まるでそれが正しいかのような生き方をしている。 END

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