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序章

 ――涼音叔母さんが亡くなった。  叔母に対して特別な思い入れがある訳ではなかった。母親と二十歳以上年齢が離れた叔母は千景にとって姉のような存在だった。  享年三十六、早過ぎる死を伝えてきたのは歳の離れた妹の涼音を娘のように可愛がっていた牧子――千景の母親だった。  本来三親等の身内に対し忌引き休暇は取れないが、今の職場に中途入社してから約一年半、いつの間にか付与されていた有給休暇の使い道とばかりに千景は母親から伝えられた葬儀の日程に合わせて有給休暇の申請を行った。今まで勤めていたブラック企業と異なり、天国とも思える今の職場は急な千景の有休申請に対しても仕事の事は気にせず故人を見送っておいでと優しい言葉をかけてくれた。  こんなに楽になるのならばもっと早くに転職をしていれば良かったと今日ほど思った事はなかった。あの頃の千景にはそれすらも考える余裕など無かったのだ。  肺に循環させた煙を細く長く吐き出す。幸いな事に喪服に不備は無く、母親から伝えられた式場と開始時刻に合わせて電車とバスを乗り継いでやって来た。およそ八年振りともなれば見知った顔はそう居ない。それでなくとも叔母の弔問客を千景が知っている筈も無いのだ。 「千景」 「母さん」  背後からぽんと背中を叩かれ振り返ると、そこには自分と瓜二つな母親の顔があった。黒紋付で身を包んだ母親の姿は最後に会った二年前よりずっと小さく、僅かながらやつれているようにも見えた。白髪も以前に比べたら増えたようにも見える。自分の知らない間にもきっと多くの苦労をしてきたのだろう。千景が振り返った事で人違いでは無い事が分かりほっと安堵の表情を浮かべる。 「ごめんなさいね、悪いのだけれど受け付けをね、虎太郎くんとお願い出来ないかしら?」  涼音の両親である祖父母は八年前に他界している。姉である千景の母親は親族として席を外すことは出来ない。甥にあたる千景が弔問客の受け付けを担うのは打倒な申し出だった。  休みさえ取れれば母親とはこの先も話す機会は幾らでもある。積もる話がある訳でもないので、フィルターまで消費した煙草を灰皿へと押し付けるとひらりと手を振り、示された受け付けのある入口へと足を進めた。  従弟の虎太郎に会うのも八年振りだった。虎太郎は千景の母親の弟の子にあたる。千景の地方への就職と祖父母の不幸は時期が重なったが、ブラック企業のせいもあり祖父母の葬儀であっても休みを取る事が許されなかった。その為祖父母の葬儀で虎太郎に会う事は無く、学生時代に会ったのが最後だった。 「とーら」  受付を覗き込むと八年振りでもその姿には面影があった。身長は随分と伸びたようで百八十センチはない千景と肩を並べる位の体躯、肩に付く程度の透けるような金髪をハーフアップに纏め弔問客からの香典を受け取り記帳を促す虎太郎の肩に軽く手を置く。 「わ、千景か? 暫くぶりじゃねえ?」 「母さんがこっち手伝えってさ」  受け付けという建前上声のトーンは僅かに下げつつも、振り返った虎太郎は八年振りとなる従兄との再会に目を丸くした。虎太郎がすぐに千景だと分かった理由はやはり母親であるま牧子とそっくりだったからだろう。男性に対して表現に使うのはおかしくもある濡羽色の髪は絹のように細くしなやかで、長い睫毛もどちらかといえば女性的な印象を受ける。顔つきは年相応に大人びてはいるものの、それが余計に母親に面差しが似る原因にもなっている。  受け付けに二人も必要かと思えるほど弔問客は多くは無かった。記帳も見開き五ページが埋まるかといったところだろうか。  涼音は勘当同然で家を飛び出し長男を出産したものの、旦那からのDVで実家に逃げ戻ってきていた。千景が初めて涼音に会ったのもその頃だ。祖父母の死により本家は長男である虎太郎の父親寛壱が継ぐ事となり、追い出された訳ではないが涼音は長男を連れて実家を出た。それからは女手一つで飲食店を営み長男を育てていた――とは以前千景が母親から聞いた話だった。  弔問客が来るとしても店の客くらいしか居ないのだろう。隣に立つ虎太郎が欠伸を噛み殺す仕草を見せると千景も両手を後ろ手に組み背筋を伸ばした。 「葬式で金髪って良いんだっけ?」 「無茶言わないでよー、染めたり戻したりって大変なんだからね。ピアス外してあるだけでも十分っしょ」  そう言う虎太郎の耳には数多くのピアスの穴が見えた。千景より二歳年下の従弟虎太郎はその人懐っこさや振る舞いから一見してホストのようにも見えるが、確か専門学校を出て今は美容師をしていると何かの折りに母親から聞いた事があった。 「何年振り? 十年くらいだっけ?」 「んー、俺が就職でこっち離れた時振りだから多分八年くらいじゃね?」  弔問客の姿が見えなくなると二人は背後に用意された椅子に腰を下ろす。流石に受け付けで喫煙は良くない。特にする事も無く両手をスラックスのポケットに押し込み体重を椅子の背に掛ける。式場の中で喪主の挨拶が聞こえてくると千景はちらりとそちらに視線を向けてから何かを考えるように視線を移した。 「とーら」 「なに?」 「レオってもう十九だっけ? 今年十九? 二十?」  玲於とは涼音の長男の事で、今二十九歳である千景の十歳歳下だった事だけは明確に覚えていた。歳近い従兄弟達の中で十も離れた従弟の玲於はさながらアイドルのような扱いを受けていた。それは勿論従妹らからも例外ではなく、何かに付けては可愛がられていた印象がある。母親の涼音が仕事で家を空けがちの中、祖父母や手の空いている従兄弟連中が可愛がっていたので退屈をした事は無かっただろう。 「あ、あ――……レオね、今年で十九になるはず、だよ、多分……」  何処となく歯切れの悪い虎太郎の回答に千景は片眉を顰める。元々本家には祖父母と共に虎太郎家族が後継ぎとして住んでいて、そこに涼音が出戻ったため虎太郎と玲於は自分より長い時間一緒に過ごしていたはずだった。涼音も上の兄弟とは歳が離れていて、決して憎からず思われていたはずなので本家を出たからといって一切の交流が無くなる訳ではないと思っていた。 「十九なら普通喪主とか出来るんじゃねぇの?」 「いや、それは……さ……」  千景が不思議に思ったのは、喪主としての立ち位置に居たのが長男の玲於ではなく涼音の兄で千景の伯父である寛壱だったからだ。本家に同居している頃ならまだしも、家を出て自立していた母子の喪主が兄という事に千景は疑問を抱いた。十九歳ならば誰かのサポートを受けてでも喪主を出来ない年齢では無いだろう。  ぎしり、とパイプ椅子が軋む。虎太郎は誰かの助けを求めるように式場へとちらちら視線を送るが、その奇跡は起こらないらしく、諦めたように長い溜息を吐くと滑るように椅子に浅く座り直す。 「レオなあ……学校で虐められてから引き籠もってんだよ。……だから今日此処にも来てない」 「…………は?」 「はいっ、じゃあ献杯!」 「献ぱーい」 「ぱーい」  元から派手な会食にするつもりもなく、子供同士積もる話があるからと千景と虎太郎、そして虎太郎の兄である竜之介は親族の輪を抜け駅周辺の飲み屋に来ていた。従妹連中はそちらだけで好きなようにやるようだった。仲良くしていたのは子供の頃だけ、ある程度の年齢を重ねればお互いの事情も相成りこうして一緒に飲む機会も減るものなのだろう。  ネクタイを寛げビールジョッキを煽れば必然と誰が一番早く飲み干せるかの勝負となる。重い音を立ててジョッキをテーブルに置いたのは虎太郎だった。 「俺いっちばーん!」 「あ、すいません、生ジョッキでもう一杯」 「えぇっ、わんこビールしろっての!?」  半分程度のビールを残し千景は虎太郎の為に追いビールを頼む。サービス精神旺盛な虎太郎ならばこの無茶振りですら何なくこなすだろうと予想しながら、千景は背広の内ポケットから煙草とライターを取り出してテーブルの上に置く。 「ちか、ライター貸して」 「はいよ」  ぐしゃぐしゃになったソフトケースだけは見つかったものの、喪服にライターを入れ忘れてきた事を確認した竜之介は、未着火の煙草を口に咥えたまま千景に向かって手をのばす。結局葬儀が終わるまでは一本も吸うことが出来ず、何時間振りの喫煙だった。ぶすぶすと煙草の先端が揺れる炎に燻されていく音もこの賑やかな居酒屋の中では聞こえない。千景にとってライターは低価格のもので十分だった。 「ちか、ますます牧子伯母さんに似てきたよな。何年振りだっけ?」  ふぅっと長い紫煙を吐き出し竜之介がテーブルに片肘をつく。 「嬉しくねえってのー、とらにも言ったけどたーぶん八年くらいじゃね?」  久々に会う人間から「何年振りか」と聞かれる事は千景の想定内だった。それと同時に「母親に似ている」の言葉も千景にとっては聞き飽きた台詞だ。年々似てくる母親の顔。女顔だと昔から言われているようで余り良い気分にはなれなかった。 「あ、すいませーん、生ジョッキもう一杯!」 「まだ飲むんかい」  座敷で行儀悪くも片膝を立てる千景は、早くも三杯目のビールを頼む虎太郎の姿に失笑を浮かべる。 「飲み放なんだから、ちかも飲んでおかないと損だぜ? 何食う?」 「ま、おいおいね。鶏皮のポン酢のやつある? さっぱりしたのがいい」  竜之介は寛壱の長男で、父親の後は本家の跡取りとなる事が決まっている。その為今日も喪主である父の側でせせこましく動き回っていた。時期当主としての責任感は昔から充分といって良いほど兼ね備えていて、千景ら従兄弟が集まると必然と皆を纏める良きお兄さんとなる事が多かった。 「今も向こうに居るんだっけ? 大阪? とら、鶏皮ポン酢のやつ頼んで」 「ざーんねん、神戸。でも二年前にこっち戻ってきて今こっちで働いてるぜ?」 「まじで!? 戻ってきたら言えよなーもう! あ、フライドポテト! ポテト一つお願いしまーす!」 「だから鶏皮の頼めって」  千景と虎太郎は揃って次男という系譜柄幼い頃からウマが合った。年齢も二歳違いでそう変わらない。祖父母が亡くなる前は千景も良く母親に連れられ本家に顔を出し竜之介や虎太郎、そして玲於と遊んでいた。 「そういや今日御影来てなか」  ガンッと竜之介が言い終わる前に千景は空になったジョッキをテーブルに叩き付けた。その音は騒がしい居酒屋が一瞬静寂に包まれるほどで、すぐに喧騒を取り戻すも竜之介と千景の間には張り詰めた空気が漂った。恐らく竜之介に悪気は無い。無神経な訳でもない。ニュートラルな立ち位置でただ事実を告げただけなのだ。  長く残った灰を灰皿に叩き落とす。吸い込んだ煙を地を這うように低く吐き出す。煙か前髪が目にでも入ったのだろうか、千景の瞳は僅かに揺れていた。 「――アイツは来ねぇよ? だって母さん連絡してないって言ってたし。とらとら、俺のビール頼んで」 「お、おう、すいません! ビールもう一杯」 「あ、とら俺も」 「すいませーん! やっぱビールもう二杯で!!」 「なあ鶏皮の頼んだ?」  竜之介三十一歳、千景二十九歳、虎太郎二十七歳。千景と虎太郎が末っ子同盟を組んでいても、年功序列で考えれば一番歳下にあたる虎太郎が飲み屋では注文係に徹するのは当然だった。サービス業に従事している虎太郎にとっては苦でも何でもなく、気心の知れた親戚同士というのが楽でもあった。  年齢が近いこともありお互いの間に序列は無い。当然跡継と傍系に対する差別も無い。十歳近く歳の離れた最年少の従弟玲於は「皆の弟」といった形で可愛がられていた。

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